三十四話 空っぽの器
「結論から言うと、さっぱり分からないわね」
食事を終え、ダイニングルームには俺とソラが残された。
そして三姉妹の長女ヴィオーネ・エクスフレアは、食後のぶどう酒を楽しんでいる。
時折、外から盛大な爆発音と衝撃が邸宅全体を震わせるのは、ルデラフィアとリチェルが『遊んで』いる余波だろう。
せっかく綺麗になった庭園が無事であることを祈るのみ。
ソラはすぐ隣でうとうとしていて、俺の肩に頭を預けている。
その頬を撫でながら、ぶどう酒で唇を湿らせた。
「がっかりさせちゃったかしら。でも恐らく、あの子の『解析』ができる魔術師なんて……世界中探してもいないわよ」
「……そうですか。いえ、ありがとうございます」
彼女が言うのならそうなのだろう、疑う余地などない。
つまり、『神域の庭』に渡る為に竜の少女の力を借りることはできないということだ。
……がっかりは、してない。
予想していたことだし、何より恐らく黒き魔女の被害者であるリチェルに、これ以上何かを押し付ける気もない。
あの子にはただ笑って、おいしくご飯を食べて、元気に過ごしてもらえれば……それでいい。
「他に当てはあるのかしら」
「一応、は」
当てと言うには細すぎる、けれど間違いなくあるだろうそれは……まだ見つかっていないアーティファクト。
神さまを殺す為の器がこの身体なら、アーティファクトは神さまを殺す為の手段だ。
それならきっと、『神の樹』に辿り着く手段も講じているだろう。
……その役割がこの左目だったらどうしよう。
「残りのアーティファクトを探しながら、北へ向かいます」
「『雲隠れ』ね。……まぁ、足の手配はしておいてあげる」
「……ありがとうございます」
既に魔力は充分に身体を廻っている。
少し前……いや、城塞都市のお城の中でアレをしてから、魔力の回復が早くなっている気がする。
多少の距離なら転移でも問題なさそうだけど……お言葉に甘えておこう。
「ねぇおチビちゃん」
こくん、とぶどう酒を飲み落とすその仕草も様になっている。
改めて口を開いたヴィオーネ、その瞳は俺を真っ直ぐ見据えている。
「あなたは神さまに会って、何をするのかしら」
何か確信を持っているような声色で、ヴィオーネは続けた。
「あなたが宿している……黒き魔女が作り出したアーティファクトは、人や魔獣を相手にするには……強大すぎる」
「……」
静寂は一瞬だった。
「黒き魔女は、神さまを殺そうとしていたのでしょう?」
糾弾ではない、むしろ慈しむような声が静かな部屋の中に染み渡る。
それを知って尚、この三姉妹の長女は、俺に協力しようとしているのか。
「……止めないんですか」
「止めないわよ」
……この世界それ自体が壊れてしまう可能性だってあるのに。
どうしてこの女は当たり前のように、平然としているのだろう。
「言ったでしょう。あなたの目的への協力をすると」
「……どうして、ですか」
恐らくヴィオーネは全て知っている。
アーティファクトを追い、キルケニス・オーグリアとも関わりがあったのなら当然、思い至るか。
異邦の者と。呼ばれていたし。
ヴィオーネは唇を湿らせてから、小さく溜め息をついた。
「……ニャンベル。あの子をね、助けてもらったの」
「黒き魔女に、ですか」
えぇ、と呟いたヴィオーネの濡れた瞳の焦点はどこに結ばれているのだろう。
遠く、爆発音が廊下の窓を震わせている。
「誰がどう見ても助からない重傷だった。でもあの人は助けてくれた。……真っ当な魔術ではなかったけれど」
「……身体が軽すぎるのは」
「身体……そう。……いえ、存在そのもの、かしらね。あの子も、『器』なのよ」
……あの子、も。
いやいや、俺はあそこまで軽くない筈だけど。
「実験、だったんでしょうね。魂の器……あなたへ至る為の」
……一緒にお風呂に入ったときに、鏡に並んで映った姿を見て、まるで姉妹のようだと思った。
似ていると、思った。
「あの子はあの時のことを覚えていない。ルデラフィアちゃんの記憶にも齟齬が生じ始めている。老いない身体になったあの子を元に戻してあげたくて、アーティファクトを求めていたんだけど」
その口調は重い。
何も知らぬ者同士、そう言ったキルケニス・オーグリアの言葉が思い出された。
「協力……いえ、利用ね。あなたが黒き魔女そのものならそれで良いし、違っても『完成』すれば同じ高みまで通じる筈だから」
疲れているように見えた。
いや、恐らくはずっと疲れていたのだ。
俺はヴィオーネにとって……希望だったのだろうか。
「でもあなたは別人で……神さまを殺す気は、ないんでしょう?」
見透かされていた。
それはつまり、『完成』まで至るつもりがないということに他ならない。
……甘え、なのだろうか。
この身体の役割を放棄して安穏と生きることを願うことは。
「……そう、ですね」
期待外れだと思われただろうか。
失意の眼差しで見られるだろうか。
それとも怒りか、侮蔑か。
しかしヴィオーネのこぼした言葉は、そのどれでもなかった。
「覚えてるかしら」
「……何を、ですか」
ぶどう酒を飲み干したヴィオーネは髪をかき上げ、耳にかけた。
隣のソラがむにゃむにゃぐるぐると喉を鳴らした。
「ニャンベルをよろしくね、って」
「……ああ、はい」
「ふふ。覚えてくれているなら、それでいいの」
口を拭い、ヴィオーネは立ち上がった。
ドアへと向かう足は、俺が座る椅子の後ろで止まった。
俺の髪を撫でるその手は優しい。
「あの……、村跡の彼らも、実験だったんですか」
ふと思い出して聞いてみた。
彼女たち三姉妹と初めて出会った場所、歪な形をした彼ら。
「あれは……、『魔族』を作ろうと、していたんじゃないかしら」
そう言ってソラの髪も撫でてから、ヴィオーネは出ていった。
それはつまり……どういうことだろう。
魔族の王に、魔族……。
ソラのことを実験体と呼んでいたのは鈍色の彼らだったか。
そのソラを仲間と呼んだ、『渦巻く海竜』と同化していたあれも……。
実験、その帰結先がこの魂の器なのだとしたら、俺は、この身体は……どれだけの犠牲の上で成り立っているのか。
考えるのが、怖い。
「……ソラ、起きてる?」
ソラの柔らかな耳がぴく、と反応し、切れ長の青い瞳が薄っすらと開いていく。
寝ぼけているのか、俺の肩に頬をこすりつけて喉の奥で変な声を鳴らしている。
その温かい頬を撫でていると、不意に視界が歪んだ。
「……そら」
情けなく震える声に、ソラの瞳の焦点が合っていく。
ぽろぽろと勝手にこぼれ落ちる涙を、薄く長い舌がぺろりと舐め上げた。
「どうしたんですか、シエラちゃん」
「……わかんない」
分からなかった。
この世界のことも、ヒイラギが何をしたかったのかも、どうして俺がここにいるのかも。
全て。




