二十四話 私の気持ち
いつからか『神域の庭』と呼ばれていたこの場所に、外から人が来ることは滅多にない。
複雑に絡み合う海流を無事に乗り越え渡りきる腕と知識を持つ船乗りは、数少ないから。
だからその久方ぶりの来訪者である女性は、とても目立っていた。
何よりその漆黒の長い髪は美しく、内包する魔力もまた洗練されていた。
世界から隔絶されているこの場所で、彼女の話す外の知識や魔術の知恵、その語り口は魅力的に過ぎた。
案内役を仰せつかった私は、すぐに彼女の虜になった。
結晶が上手く生え揃わなかった私の歪んだ肩を、彼女は綺麗だと言ってくれたから。
だから私は、深く暗い底の見えない、けれど子供のような純真な瞳で求めてくる彼女に、言われるがまま明け渡した。
この場所に伝わる全てを。
後ろめたさなんて微塵もなかった。
悔いる気持ちなんて一つもなかった。
初めて人の役に立てたことが嬉しくて、その人が無邪気に喜んでくれて、その美しい声でその細い腕で、醜い私の身体を優しく抱き締めてくれたから。
今この時に死んでしまってもいいとさえ思った。
だけど彼女が求めたのは、死なんて優しいものではなかった。
ただずっと永遠に生き永らえてほしいと、私の耳元で囁いた彼女の言葉は、とても優しかった。
きゅるる。きゅるる。
鈴の音のような可愛らしい、不思議な鳴き声が頭の中に染み込んでくる。
壁に背中を預けたまま、薄く目を開く。
暗い部屋の中、投げ出した白い脚の上にまたがっている竜の少女、そのまん丸な碧色の瞳と目が合った。
「まま」
その声に何も返せず、目を逸らした。
まだ朝にはなっていないようだった。
生々しく、嫌な夢を見た。
「泣かないで、まま」
その声に、もう一度リチェルの目を見つめる。
大きな瞳に映る白い少女は、酷い顔をしていた。
けっこうな量の魔力を吸い取られたから、というのもあるだろう。
今は凍り付いている枯れた湖、この世界で初めて見た大きな二つの丸い月。
幻想的だと思っていたあの光景が、今は思い返すと吐き気がする。
「……俺は、どうしたらいいんだろうな」
表面を取り繕う余裕すらなく、ただ溜まった澱を吐き出す。
小首を傾げた、何も覚えていないという竜の少女に向かって。
『月を背負う六つ羽根』の額に深々と刺さっていた、アーティファクト『神槍』。
『竜』の魔力を奪い続け溜め込んでいたというそれは、恐らくヒイラギの手によるものだろう。
魔力だけではない、記憶もまた、同様に。
「まま」
リチェルが囁くように、鈴の音のような可愛らしい声で俺を呼ぶ。
その碧色の瞳は不安そうに揺れている。
自身という確固たる足場が崩れているのに、それなのに、俺を心配している。
……何やってるんだろうな、俺は。
「……なぁに、リチェル」
背中に手を回し、翼と尻尾の間、滑らかな肌を撫でる。
練習した、精一杯の微笑みを浮かべて。
「ままぁ」
甘えた声できゅるる、と鳴いたリチェルを抱き締め、髪を撫でた。
小さな翼が部屋の空気をゆっくりとかき混ぜる。
「ねぇ、リチェル」
きゅる? と器用に返事をしたリチェルが身体を起こし、俺の目を覗き込んだ。
「……リチェルは、何がしたい?」
「ままと一緒にいたい」
即答だった。
単純で、だからこそ真っ直ぐで、それ以外望んでいないようだった。
記憶を無くしていることすら恐らくは理解していない、竜の少女。
「……そうだね。私も……、ままも、そう思うよ」
きゅるる、と鳴いたリチェルは信頼の証か、俺に体重を預けてむにゃむにゃと船を漕ぎだした。
その髪を撫で、揺れていた翼から少しずつ力が抜けていくのを、静かに眺めた。
静かな寝息を聴きながら、目を瞑る。
「一緒に、か」
ぽつりと呟いた言葉は狭く暗い小屋の中で、誰にも届かず消えていった。
竜の少女はどれくらい生きられるのだろう。
獣の少女はどれくらい生きられるのだろう。
人は、人間は恐らく百年にも満たずに老いて死ぬ。
俺は、この身体は老いることなく、永遠の時を生きられるのだろう。
それが怖くて、ずっと決められずにいたけれど……。
あちこちに大きな水溜りができていて、出歩けば足元が酷いことになりそうだ。
空は白み、覆っていた雲が薄くなっていた。
リチェルを布団の上に置いて外、屋根の上に跳び上がる。
屋根の上にはソラが小さく丸まっていて、伏し目がちに目の前に立った俺を見上げてくる。
元気がない。
「待ってる、と言って帰りましたよ」
「……そう」
ニャンベルのことらしい、呟いた声は小さく掠れていた。
謝りに行かないとな。
「ソラ」
声をかけ、手を差し出す。
おずおずと握り返されたそれはひんやりとしていた。
この子にも、悪いことをした。
魔力を廻らせ、引っ張り上げて……抱き締めた。
「ソラ。……ごめんね」
黙って頷いたソラの湿った髪を撫で、頬と頬が触れ合う。
ゆるく身体を離して、『竜の心臓』から『閲覧者』を取り出した。
「ともし火を」
開かず、魔力だけを込める。
ぽう、と周囲に十数個のともし火が浮かび、ほんのりと温かなそれがゆっくりと回る。
「話を聞いてくれる?」
「……はい」
ともし火を浮かせたまま、二人で並んで座る。
手を握り、肩を寄せ合い、眼下のぬかるみを見渡す。
まだ雨が上がってからそんなに時間は経っていないらしい、周りの木々からは雨水が滴り落ちていた。
陽がようやく昇り始めた早い時間。
酷く静かで、きっと代え難い。
「俺は……。いや、私とヒイラギはね」
不思議と、帰りたいとは思わなくなっていた。
「この世界の人間じゃないんだ」
話をした。
青い洞窟で、素っ裸で目覚めたこと。
ヒイラギに服を貰ったこと、話をしたこと。
抱き締められて、いい匂いがしたこと。
元の世界に戻る為に、神さまを殺そうとしていたこと。
その為の、作られた器であること。
ヒイラギが、黒き魔女が、きっとこの世界の全てを利用していたこと。
「その……、ごめん」
離した手はしかしすぐ捕まり、もう冷たくはなかった。
「理由はどうであれ、私があの方に助けられたのは事実ですから」
それがあの方にとって、ただの実験だったのだとしても。
そう小さく笑ったソラの横顔は、可愛らしく、とても綺麗だった。
ああ。
あの湖で会えたのがこの子で、本当に良かった。
「シエラちゃんは、帰りたいんですか?」
じぃ、と覗き込む少し切れ長な大きな青い瞳。
その真っ直ぐできらきらした目を、ずっと見ていたいと思った。
「帰りたいと、思ってた」
狭いワンルームの部屋を、最後に思い出したのはいつだったっけ。
もう、納得はしている。
順応も、できている。
覚悟は、決まった。
「ソラ」
だからきっとこれは、俺の本心だ。
その柔らかな頬に手を添えた。
「ずっと一緒にいよう」
口付けた。
魔力のやり取りのない、純粋に親愛の情を伝える為に。
もう慣れている筈のソラはしかし、目を見開いて頬を染めた。
その新鮮な反応を見ながら、唇を離す。
「……っ、……んふ」
小さく笑った獣の少女は、自分の胸を手で押さえ、俯いた。
「……私はやっぱり、あの方を嫌いにはなれません。だって」
ようやく木々の頭を追い越した陽射しが、ソラの柔らかな笑みを彩った。
酷く、眩しい。
「私は今、こんなに幸せなんですから」




