十二話 巌のようだったと
上層と中層とを隔てる壁は、その形を辛うじて維持していた。
しかしその門は大量の土砂と岩で塞がれていて、救出に向かおうとする兵士たちは壁に梯子をかけている。
僅かに傾いた壁の上から上層を見やる……まだ崖の上からは土砂が滑り落ち、ところどころで土煙を上げている。
一番奥、小さな城があった辺りの被害が最も酷く、折れて横倒しになった尖塔の屋根が見えるだけ。
左目に意識を集中する。
瓦礫や土砂の下に見える何十、何百の点々とした魔力は弱々しい。
耳を小刻みに動かし鼻を鳴らしていたソラがぴく、と顔を上げた。
「ニアちゃんの匂いがします」
「どこ」
説明するより早いとばかりに、ソラは俺の身体を抱え上げ、跳んだ。
数度の跳躍で上層区の中ほどに着地、目の前の家屋は半分以上が落石で削り取られ、原型を留めているところもほとんどが土砂で埋まっている。
「ニア!」
「……あは」
首を傾げて力なく笑ったニアリィは、唯一無事だった門扉に身体を預けて座っていた。
投げ出された右足はその半分が千切れ、血溜まりの中で青白い炎が燃え上がっている。
その傍らには、肘から先の大きな手。
「シエラの魔術は、すごいね……。すっごく痛いけど、どんどん治ってくよ」
その声は掠れていて、頬にはまだ乾ききっていない涙の跡が残っていた。
周りを見渡す。
近くに居る筈の人が、いない。
あちこちに『死んだ魔力』が埋まっている。
獣の耳には、まだ細く続いている崩落の音以外、他には何も聞こえない。
「シエラ」
その感情の色のない声に振り返る、ニアリィの手が、落ちている肘から先のそれを撫でた。
「……っ」
足から力が抜け、ソラに支えられた。
置かれている現状、視界に映る光景を、上手く認識できない。
俺を見上げる金の瞳に光はなく、怖いくらいに……空っぽだった。
「パパ、死んじゃった」
声が出ない。
……レイグリッドが、死んだ?
そんな、突然、なんで。
その場にへたり込んだ俺を見つめるニアリィは、消え入りそうな声で呟いた。
「シエラ」
「……は、い」
乾いた笑いを零して、その目は乾き切っていた。
「どうして、殺してくれないの?」
「な……、にを」
青白い炎はしかし、少女を生かそうと燃え盛る。
少しずつ復元されていく、嘘みたいに綺麗な脚に汚れは一つもついていない。
頭の中が痺れているようで、言葉が何も浮かんでこない。
母を、そして父を喪った少女に、俺は何を言えばいいのだろう。
小さく溜め息をついたソラが口を開いた。
「ニアリィ・タージェス」
「……なに」
その声は冷たく、鋭利な刃のよう。
ソラならやりかねない、そんな危うさがある。
「シエラちゃんを泣かせないでください」
ソラは何を言ってるんだろう、そう思って頬を押さえる。
……何やってんだ俺。
今泣きたいのは、ニアリィの方だろうに……いや、それとももう、枯れ果ててしまったのだろうか。
俯いてしまったニアリィの元に這い寄り、その手を掴む。
「にあ……ごめん、なさい。わたし、は……ぅあ、あなたに……死んでほしく、ない」
「……あは」
ああ、本当に情けない。
年上だと言ったのに、甘えていいと言ったのに。
出てきた言葉は震え、嗚咽混じりだった。
金色の瞳に涙を滲ませたニアリィは力なく笑うと、俺の手に指を絡ませてくれた。
空いた手で、涙を拭った。
「ソラ」
「はい」
「任せる」
小さく砂埃を巻き上げたソラは、残像すら残さず姿を消した。
べき、と何かが折れる音、次いで男の叫び声が聞こえ、それも途中で断絶した。
遅れてちらり、と後ろを見ると、ほぼ同時に二人の魔術師が崩れ落ちるところだった。
爪に付いた血を舐めるソラは、他にまだ曲者がいないか鼻をすんすん鳴らしている。
もう一度涙を拭ってから、口を開いた。
もう、泣かない。
「ニア。……あれは『十席』からの刺客ですか?」
「う、ん」
「コレを、引き起こしたのとは」
「……関係ない、と思うよ」
それも、そうか。
俺一人を狙っている『十席』の刺客が、わざわざこんなことをする必要はない。
もっと別の……この国自体に恨みを持つ何者か、だろうか。
あの時、崖の上に揺らいで見えたのは魔術の起こりか。
立ち上がり、お腹の『竜の心臓』に意識を集中する。
ほのかに熱を帯びたそれから、『閲覧者』を呼び出す。
「何か……ないのか」
曖昧な俺の言葉に、『閲覧者』は独りでにぱらぱらとページを捲り、書かれている文字を浮き上がらせた。
読めないその文字をなぞる。木々を媒介にした索敵魔術、違う。
ぱらぱら。
文字をなぞる。相互補完による探知魔術、違う。
文字をなぞる。違う。文字をなぞる。これも違う。
俺が求めているのは、
「シエラちゃん」
「……っ」
「死んだ人間は、生き返りませんよ」
ソラの言葉に、なぞる指が震えた。
俺は、この身体は、神さまとやらを殺す為の、魔術を究めた女が作った最高傑作だぞ。
人間の一人くらい。
「……『あの方』でも、無理なのか」
「はい」
「……。……そっか」
周りでは、壁を乗り越えてやってきた兵士たちが埋もれた人々の救出作業を始めていた。
あちこちで探知の為の魔術が漂い、スコップが宙に浮き、木組みの何かが働いている。
「……俺たちも、手伝おう」
俺とソラはそれぞれの能力を生かし、生存者を探すことに努めた。
俺の左目とソラの鼻は、兵士たちのそれよりも遥かに精度が高かった。
けれど、結局。
助けられたのは、ほとんどいなかった。
陽が暮れ始め、できることがなくなった俺は、先端に小さく青い炎を点らせたそれを口の端に咥え、傾いた上層の壁の上で脚を投げ出して座っている。
城塞都市レグルスの上層を襲った大崩落は、瞬く間に国中に知れ渡った。
騎士団長レイグリッドの死と、サルファン王の行方不明の報の二つが、噂の中心となって広がっていった。
こんなときに救国の魔女は何をしていたんだ、という声も少しだけ上がったみたいだけど、救助作業を共にした兵士たちがとりなしてくれたらしい。
ありがたい話だけど、自分の無力さにまた涙が出そうになる。
土砂まみれの上層にはあちこちにかがり火が焚かれ、夜通しで作業が行われるようだ。
『閲覧者』には、大量の岩石や大地そのものを操る魔術もあったのだけど、
「もっと酷いことになると思いますよ」
というソラの言葉が怖くて、使うのをやめた。
この身体は、人を助けることには向いていない。
神さまを殺す為の、魂の器。
「……はぁ」
誰が、何のためにこんなことをしたのだろう。
下層では足りなくなった兵士の目を盗み、窃盗や暴行などが相次いでいるという。
中枢だけを丸ごと失ったこの国は、これからどうなるのだろう。
……俺なんかが国なんて大きなものの行く末を心配しても、どうしようもないか。
俺の脚の上に頭を乗せて眠っているソラの髪を撫でる。
土砂で塞がれていた門は魔術師が総出で吹っ飛ばしたおかげで、今は通行が可能になっている。
だから、今は傾いた壁の上には、見張りの兵士は一人もいない。
眠っていたソラの耳がぴく、と動き、切れ長な青い瞳が薄っすらと開いた。
「……何の用ですか」
音もなく近づいてきた鈍色のローブを纏った男の方を睨みつける。
切り替わった目に映る魔力は淀みなく、しかし攻撃の意思は感じない。
「白き魔女殿。主様がお待ちです」
ぺこり、と頭を下げたそいつからは敵意の類も感じない、けれど嫌な気配を纏っているその声は薄っぺらい。
……あるじさま、と言ったか。
「サルファン王の側近、だった人」
「ご推察の通りです、白き魔女殿」
つまり、『血の平野』で遭ったあいつは、ただの部下だったってことか。
……お気に入りにはハンカチを持たせてあげてるのかな。
やめてほしいんだけど。
「……用があるなら、そっちから来てくれませんか」
ふらり、と立ち上がり、『吸血鬼』に魔力を流す。
沈む陽の光とそれを映す月明かりがせめぎ合い、夕闇前の世界を彩るこの僅かな明るい時間。
どす黒い、それはあまりにも気持ちが悪い、闇を体現した揺らめく刀身。
飄々とした態度だったそいつの身体が少しだけ強張ったのが見て取れた。
「白き魔女殿。主様は、中層区でも同じことを起こせると仰っております」
「……この国のことは、私には関係ない」
同じこと、を。
……なぜ白き魔女相手にその脅し文句が通用すると思っているのだろう。
まさか『救国の魔女』の噂を真に受けているのだろうか。
……大丈夫。
思考はまだ冷静だ。お腹の中は魔力がどろどろになっているような感じだけど。
「いいえ、白き魔女殿はお優しい方だ。あなたに斬られた仲間は傷一つ残らず、復帰している」
ソラを人質にした彼らのことか。
……お優しい、ね。
左手で、左目を押さえた。
俯瞰する。
「あは。……返上しますよ、それ」
右手の中指、その付け根を噛んだ。
中層を挟む崖、その天辺で二つの光が瞬き、炸裂した。
見えたのは八人だったけど、全部に撃つとその余波で崖が崩れてしまいそうだから、やめた。
「……で。何を、起こせるって?」
ぺろり、と指を舐めた。
遠話の魔術で繋がっているのだろうか、目を倍にまで見開いた男が一歩、後ずさった。
「そんな、どうやって」
「ソラ」
俺の真後ろに寄り添っていたソラが跳躍、男の背後に回りこみ、押し倒した。
音もない、巻き起こった風が僅かスカートをはためかせただけ。
「ひ、ひぃっ!? ま、待ってくれ、わ、私はただ言伝を……ッ!」
石材を引っかく男の左腕に魔術の気配、それをソラが物理的に止めた。
べきり、と致命的な音に、しかし何も感じない。
「ぐっう゛ぐうぅ……ッ!」
「使えるんでしょう? 遠話の魔術」
口の端から泡を吹き、俺を見上げるその目は充血している。
怒りか恐怖か、魔力の廻りはバラバラで、ああなんだ、大した魔術師ではなさそうだ。
「伝えてください。……あぁ、繋がっているのかな?」
ソラに押さえつけられている男の耳にはイヤーカフが付いていて精緻な文様、魔力が流れ込んでいる。
『吸血鬼』の揺らめく刀身を、男の鼻からズ、とゆっくり埋めていく。
「あ゛、あ゛……、やめ……ッ」
「用があるなら、てめぇが来い」
魔力を全て吸収して、倒れ伏した男の顔から『吸血鬼』の刀身を引き抜いた。
ぴくりとも動かなくなったそいつの上からソラが立ち上がり、とてとてと駆け寄ってくる。
抱き寄せ、髪を撫でた。
「んふー。怒ったシエラちゃんも可愛いですねぇ」
……この子には敵いそうにない。
『竜の心臓』の奥、お腹の中のどろどろとした魔力は、どうしてか身体を廻る魔力と溶け合うことなく溜まり続けていく。
きっと俺の感情を内包しているそれのおかげで、こんなにも冷静でいられるのだろう。
もう怒りもなく。
悲しみも、残っていない。




