十一話 崩れ落ちる城塞
「はぁ」
とぼとぼと修復中の外壁沿いを歩く俺の足取りは重い。
グレイスにも黙って出てきてしまった。
……あれでは泣きながらわめく、ただの子供の我がままではないか。
右手には小さな堀がずっと続いていて、その向こうに石材が何百も積まれて壁を形作っている。
ところどころ修復作業中のその上からは視線が降り注ぎ、作業の手が止まっては怒号が飛び交う。
日雇いだろう彼らの中にも、街を行く人々の中にも、『木々を食むもの』の姿を一人も見かけない。
港湾都市リフォレでも、そこに辿り着く道中にも……どこにもいなかった。
三姉妹の邸宅なら、受け入れる余地はまだあるだろうか。
そんなことを思い立ち、結局人任せな自分に嫌気が差す。
結局何もできなかった。
彼らはずっとあそこで、最後は埋められて、一生を終えるのか。
視界がぼやける。
ああほんとに、今日はだめだな。
「シエラちゃんは泣き顔も可愛いですね」
「えぇ……?」
ぺろり、と頬を舌ですくい上げられ、立ち止まる。
薄くて長い舌がぺろぺろと頬を這い、目に近づく度に背筋が震える。
眼球はやめて?
「でも私は、笑ってるほうが好きですよ」
「……うん」
獣臭いこの少女には、人間の国の中で起きている出来事などに興味はない。
その切れ長な青い瞳には、白い少女だけが映っている。
助けられるのは、何度目だろうか。
「ソラ、ありが」
「あ、でもせつなそうに喘いでいるときのほうがもっと好きです」
「……」
そうだった。
この子はそれ以上に、自分の欲望に忠実なのだった。
壁沿いは道がまっすぐ続いていて、人通りもそこまで多くなく、思った以上に歩きやすかった。
最初からこっち通れば良かった……。
すれ違う人々、壁の上から、左手の建物の群れの隙間、それぞれから遠慮のない視線が注がれている。
もう慣れっこになったそれを無視し、ソラの手を引いてメインストリートの方へ歩く。
だからその刺すような視線は、懐かしさすら感じた。
反応はできなかったけれど。
「わ」
くい、と腕を引かれ、ソラに後ろから抱き締められた。
こんな人が多いところでまったくこの子は、なんて思った瞬間、視界をひゅん、と横切る鋭利な何か。
それを目で追いかけ、ガツン、と石材の隙間に刺さったそれはじゅう、と煙を上げた。
柄の短い短剣、それが飛んできた方向に首を廻らせると同時に、スカートが捲れ上がった。
「わっぷ」
突風、ではない。
俺の真後ろで爆発するように起きた風は、ああ、ソラが跳躍して起きたらしい。
路地に飛び込んだ真っ黒な塊、聞き取れない程に短い断末魔、ちょっと待って、追いつけない。
周囲の人々は何が起きたか、いや、何かが起きていることにすら気がついていない。
足早にその暗がり……横道へソラを追いかけると、濃い血の香りが漂ってきた。
「……ソラ」
道を一歩外れればそこは、陽も目も届かない陰の世界。
その暗い場所で輪郭を滲ませ、青い瞳を輝かせた少女が、ぺろり、と可愛らしく唇の端に付いた血を舐めた。
「……食べてませんよ?」
いや、そっちの心配をしたわけじゃないんだけど。
目を切り替える、薄い魔素が漂う狭い路地で、人間大の『死んだ魔力』が二つ。
男と女、ほんの少し前まで俺を殺そうとしていた人間二人が、首を裂かれて死んでいた。
「誰だろう?」
「さぁ」
ぱちゃぱちゃと血溜まりを跳ねさせ駆け寄ってくるソラは、いつも通りだった。
明確な殺意を向けられていたからだろうか、その動かない塊に対して強い感情が湧き上がってこなかった。
さっきまであんなに、生と死に動揺していたのに。
顔を寄せてきたソラの頬を撫でる。
助けてくれたのだ、文句などある筈もない。
「こっちから行こっか」
そう言ってソラの手を取る。
たった今人を殺した、少女の姿をした魔獣の手はしかし柔らかく、温かい。
足を踏み出し、考える。
この城塞都市の中なら襲われることはないと思っていたのだけど、どうやらそんなことはないらしい。
港湾都市リフォレとここレグルスでは、俺の首にかかった賞金は撤廃されたと聞いている。
ということは必然、魔術都市絡みの可能性が高い。
『十席』からの刺客はまだいるだろうし、王の側近だったという鈍色のローブを纏った男、その手駒もまだ残っているかもしれない。
主を殺された彼らがどう動くか……もう少し警戒しておいたほうが良さそうだ。
狭く薄暗い路地から見上げ、適当な建物の上に転移した。
仮に狙われているのなら、見通しは良いほうがいいだろう。
四肢に魔力を流し、屋根伝いにぴょんぴょんと跳ねていく。
乾いた風と降り注ぐ陽射しに目が眩みそうになる。
……あれ放っといて良かったのかな。
「シエラちゃん、どこに行くんですか?」
「ん。中層」
ここでやるべきことはもうない。
三姉妹に連絡を取る為に、中層にひっそりと佇む小さな宿を目指すとしよう。
今のところ変な視線も、魔術の気配も感じられない。
中層とを隔てる壁に近づくにつれ建物の造りそのものもしっかりしていくのか、足の裏に伝わる感触が変わっていく。
そろそろ下に下りようかと、二階建ての家屋の屋根で足を止めた。
予感、なんてものではない。
ただなんとなく、壁の向こう、上層へ向けなだらかに高くなっていく街並みに目を向けた。
視線のずっと先、この国の突き当たりは峻厳な岸壁、その頂点に……何かが見えた気がした。
目を切り替える、遠すぎて薄すぎて分からないけど、不自然な魔素の揺らぎのようなもの。
なんだろう、と首を傾げた瞬間、何かの余波が……国を揺らした。
魔術師ならばこれを、魔力の波動とでも呼ぶのだろうか。
その発生源は、上層の三方を囲む高い高い崖の上。
その崖の上部がズレ、ただただ巨大な質量となって……落下を始めた。
「え……っ」
一見地すべりに見えるそれは、しかしどう考えても自然に起きたものではない。
いや待てあの規模、遥か下に広がる、上層を埋め尽くす……。
慌てて右手の人差し指の付け根を噛もうとする、ほんの一瞬前にソラの手が俺の右腕を掴んだ。
「シエラちゃん」
その声は有無を言わさぬ迫力が滲んでいた。
掴まれた腕は動かない。
「……っ、……いや、ごめん」
思わず睨みつけ、しかしすぐに我に返った。
あの場に衝動のまま転移したところで、何ができるわけでもない。巻き込まれるのがオチだ。
遠く視線の先で大量の岩と土が崩落し、この国を揺り動かした。
小さく深呼吸して、ソラの手を握る。
下層と中層とを隔てる壁の上に転移し、驚愕で同じ方向を向く兵士たちの傍に着地。
広大な山脈その中の、この国の背を預かるごく一部分である崖の高さはしかし国全てを覆わんとするほど。
だからこそ城塞都市レグルスは、前方の守りにだけ注力できていた。
しかしこの現状を、誰が正しく認識できるのだろう。
家よりも大きな巨大すぎる岩が全てを転がり潰し、上層と中層とを隔てる壁に次々と激突していく。
緑豊かな上層区は今や土砂に覆われ、無事なところが一つもなかった。
「……王ォッ!!」
兵士の誰かが叫んだそれを皮切りに、見張りも門兵も非番の者も、上層へ駆けていった。
最早誰一人、壁の上にいる俺とソラの姿に注目する者はいなかった。
下層に住む人々は、大地を揺らした何かと慌ただしく走る兵士とで様々な噂が駆け巡っているが、まだ大きな混乱には発展していない。
一方で中層は、上層との間を遮る壁が一部崩壊し、大量の兵士がメインストリートを駆けて行くのを見て、何事かと騒ぎが大きくなってきていた。
「全滅ですか」
ソラが呟いた一言で、ようやく自分の思考が止まっていたことに気がついた。
そうだ、あのままでは上層に居た人々は、全滅だ。
「行こう」
ソラの手を握り直し、転移の魔術を発動した。




