六話 にゃんて
今まで、数々の戦いを切り抜けてきた。
魔獣を相手に、人間を相手に。
だけど、ここまで傷だらけになったことはなかった。
俺の隣でソラは安らかな寝息を立てている。
その姿は可愛らしく、何も知らない者が見ればただの人間の少女に見えるだろう。
青みがかった濃い灰色の髪の間から生えている獣の耳と、尻の上から生えているふさふさした尻尾がなければ、だけど。
城塞都市レグルスその最奥、小さな城の中にある一室。
陽も落ち、灯りも点いていない部屋の中はしかし暗くはない。
俺の身体のあちこちから燃え上がる、青白い炎のせいだ。
人形めいた白い肌は噛まれ切り裂かれ、無事なところを探すほうが難しい。
この身体じゃなかったら何回死んでいただろうか。
朝からついさき程まで一日中、俺は『空駆ける爪』の獣欲を全力でぶつけられていた。
力の加減ができなくなっていたソラに何度も腕をへし折られた。
絡めた指も折られ、反射的に逃げる腰を押し潰され、腹には爪跡が刻まれた。
しかしそれでも、途中からは楽しむ余裕があったのだからこの身体は凄い。
どんなに乱暴にされても、数分もすれば元通りですからね。
ああ、それにしても。
ソラの舌の長さは、癖になりそうで怖いな……。
「今度こそ、行こうか」
「はい」
明くる朝。
城塞都市を統べる者が住まう城を背に、ソラの手を取る。
兵士たちとの距離が昨日までより少し遠く感じたのは気のせいだと思いたい。
くねくねと緩く下る道を並んで歩いていると、時折遠巻きにこちらを見やる人々と目が合う。
その度に深々と頭を下げられ、噂がどれくらい広がり定着しているのかを考えると気が重くなる。
ケープは元の持ち主に返したし、今更隠す必要もない……真っ白な髪を晒している今の俺の姿は、遠くからでもさぞかしよく目立つことだろう。
「……もう身体は平気なの、ソラ」
「はい。……んふー」
いつも以上に柔らかい笑みを浮かべたソラも、フードを被らず耳をさらけ出している。
頬を擦り付けてくる度に柔らかな耳が触れ、少しくすぐったい。
上機嫌だなぁ。
護衛をつけることを提案されたけど、断っておいて正解でしたね。
終始こんな状態を見せ付けられるのもうざったいだろうし、現状の俺とソラの警戒網を抜けて近づける者などそれこそ皆無に等しいだろう。
上層と中層を分け隔てる高い壁の上からは、今日も重装備の兵士が眼下を油断なく見渡している。
俺とソラの姿を認めた門兵は、ビシィッと直立不動になり、握った右手を腹のやや上辺りに。
「シエラ様、話は聞いております。どうぞ、お通りください」
「ありがとうございます」
これが、顔パスの気持ち良さ……!
壁を貫く門をくぐり抜け、なだらかにそして真っ直ぐに続く石畳の道。
なんだか懐かしさすら感じる、城塞都市の中層の街並み。
まだ早い時間だからか、以前見た光景より人通りはまだ少ないようだ。
「行きましょう、シエラちゃん」
「うん……っあ」
ぐ、と強く手を引かれ、夜の間に刻まれた何かが疼いた。
足がもつれそうになり、ソラの身体に腕がぶつかる。
「? どうしました? 顔が赤いですよシエラちゃん」
「え? いや、なんでもないですけど?」
顔が赤い? 確かに無意識のうちに魔力が身体を廻ったけど……え、なんで?
ソラが鼻をくん、と鳴らし……眉がぴくりと動いた。
「そう言えばシエラちゃん、言い忘れてましたけど」
「うん」
「その匂い、あまり出さない方がいいですよ」
……いやいや。
人間は自在に匂いを出したり引っ込めたりできないんですよ。
ああこの身体は人間じゃなかった、でもそんな機能がこの身体にあるとは思えないんだけど……。
「それ、魔獣が寄ってくるやつですから」
「ええ……?」
なにそれぇ……。
自分の腕や腋、服に顔を近づけ、匂いを嗅いでみる。
朝早くにソラと一緒にお風呂に入ったから、石鹸の匂いしかしない……。
やっぱり自分の身体の匂いは自分では気付けないらしい、ソラの鼻が良すぎるだけな気がするけど。
「……そんなにする?」
「甘くて美味しそうな女の子の匂いがします」
「……」
確か昨日もそんなことを言っていたか。
……言葉が出ないとはこのことを言うのだろう。
「気をつけてくださいね。じゃないと」
ソラがぺろり、と可愛らしく舌なめずりをして、俺の手を再び取った。
「また、発情しちゃいますから」
ソラと手を繋ぎ、中層のど真ん中を貫くメインストリートを歩いていく。
色々見て回りたいけど、悲しいかな今の俺は無一文だった。
と言うより今はそれどころではない。
昨日のレイグリッドからの伝言……ルーザーの店に、グレイスを待たせているのだ。
昨日はその、結局丸一日ソラにいじめられたので。
思い出しそうになり、慌てて頭を振る。
この身体は記憶力も高い、それこそ鮮明に思い出せてしまう。
気をつけよう、何が引き金になってソラの言う『匂い』が出るか分からないのだから。
歩くことしばらく。
遠巻きに見られ、何事かひそひそと話されるのはあまり気分が良いものではない。
ただその内容は悪いものではないようなので、放置していた……のだけど。
「まじょさま!」「しろい!」「すごいしろい!」「まっしろやん!」
中層のちょうどど真ん中辺りに差し掛かったところ。
わぁわぁきゃあきゃあと、小さな子供の群れに襲われた。
十人くらいいる。
「あああ! すみません! すみません!」
監督者、いや引率者か、気弱そうなおねーさんが慌てて子供たちを俺とソラから剥がそうとして、しかし失敗に終わる。
このテンションのときの子供はうん、無理でしょうね。
仕方ない、ここは俺が大人の対応で場の収拾を図るとしますか。
「よーしよしよし、落ち着いて……おいスカート引っ張るな!」
無理だった。
隣のソラは考えることを放棄したのか、耳をぺたりと伏せ、棒立ちで虚空を見つめている。
諦めるの早ぇなおい。
「しろまじょさま!」「まじゅつ!」「まじゅつみせて!」「みたいやん!」
「えぇ……?」
手を服をぐいぐいと引っ張られ、子供たちのリクエストにどう答えるか迷う。
引率のおねーさんは今にも泣き出しそうな顔で謝りながらあたふたしている。
白き魔女に関してどういう噂を聞いているか分からないけど、かなりテンパっていらっしゃる。
仕方ない。
すぐ近くの店先、腰を下ろせる簡素な長椅子が置いてある。
そこをちらりと見つつ、人差し指の付け根に口付けた。
「あれ!?」「きえた!」「ええぇ!?」「いないやん!」
「はっはっは! こっちだ、ちびっこども!」
きゃああああ、と奇声のような雄叫びのような、喜色満面で突撃してくる子供たち。
うわぁすっげぇ目がキラキラしてる。
そんな目で見るな、ちょっと楽しくなってくるだろ。
「止まれ!」
手をかざして叫ぶと、子供たちはぴたぁっ、とその場で立ち止まり、期待の眼差しでこちらを見上げてくる。
そんなに期待されてもどうしよう、他に何か使えるのあったっけ……。
『転移の魔術』は今見せた、『断罪』は考えるまでもなく却下、『吸血鬼』の刀身は……泣き出すだろうな、うん。
……仕方、ない。
「よく、見ておけ」
ごくり、と子供たちが息を呑み、まあるい目が期待に輝く。
目を切り替え、四肢に魔力を廻らせる……!
「……っにゃーん!」
猫っぽい謎のポーズをとり、獣の耳と尻尾を生やした。
同時に、俺の目から光が失われていく。死にたい。
「きゃあー!!」「なんかはえた!」「ねこ? いぬ!?」「かわいいやん!」
再び突撃してくる彼ら越しにソラを見やり、もう一度転移した。
「行くぞ、ソラ」
「え、あ、はい」
何故か呆けていたソラの手を掴み、駆け出す。
後方ではまだ子供たちがきゃいきゃい騒いでいるが、後は引率のおねーさんに任せよう。
走りつつ魔力を回収し、獣の耳と尻尾を消した。
心に傷を負った気がするけど、なんとか切り抜けられたから良しとしよう。
「シエラちゃん」
「ん」
下層と中央を隔てる壁が存在感を増してきたところで、ソラの声に立ち止まる。
なんでちょっともじもじしてるんですかねこの子は。
「さっきのもっかいやってください」
「……さっきの?」
「にゃーんって」
なんで?
しかもお前こんな往来のど真ん中でって羞恥プレイにも程があるぞ。
「やらないよ?」
「そんな……っ、お願い、お願いします、何でもしますから」
え、そんなに?
ここまで必死なソラを見るのは初めてなんだけど、その必死さ使うところ間違ってない?
「お願い……します」
「いや、泣かれても……何でも?」
何でもしますから。この言葉に惹かれない男なんているだろうか、いやいない。
俺の頭の中では今、あの死にたくなるような恥ずかしさと、ソラに何をしてもらおうかという欲望が激しく争っている。
下層にほど近いここは、陽も少しずつ昇り往来が増えてきている。
ただでさえ目立つ真っ白な少女と、獣の耳を晒しているソラの組み合わせは、控えめに言っても滅茶苦茶目立つ。
「何でもします。シエラちゃんが大好きな、舌で奥まで舐め上げるのだっていくらでも」
「ちょ……っ!!」
ソラの手を掴み、適当な家の屋根の上に転移した。
この子いきなり何言い出すの?
「……ソラ、よく聞いて」
「はい」
「人前で二度とさっきのは言わないで。分かった?」
人間と魔獣、倫理観の違いをまざまざと見せ付けられた気がした。
危うい。
「でもシエラちゃん、あんなに泣いて(鳴いて)喜んでいたじゃないですか」
「……っ、それと、これとは別だから。ね?」
あまりの必死な俺の態度にソラは何か感づいたらしい、可愛らしく笑顔を浮かべた。
嫌な予感しかしねぇ。
「分かりました。言いません」
「そう、か。うん、ありがとう」
「その代わり……やって、くれますよね」
んん?
なんで俺が交換条件持ちかけられてんの?
おかしくない?
「……いやいや、やらないし。ここなら人目がないとはいえ」
べろり、と。
ソラの薄くて長い舌が、俺の頬をゆっくりとすくい上げた。
腰から力が抜けた、のを悟られないように、両足を踏ん張る。
「……いつからこんな悪い子に」
絶対ヴィオーネに悪い影響受けてる……。
絶望を胸に抱え、ソラと距離を置く。
振り返り、期待で青い瞳を輝かせたソラを睨みつける。
ちくしょう。
そしてやけくそ気味な少女の叫びが、中層の住宅街に響き渡った。




