三十話 その手は欲に塗れ
レイグリッド・トルーガは娘を抱きかかえ、馬を駆っている。
ニアリィの顔は幸せそうで、入り込む余地はない。
彼らが兵を引き連れ向かうは東。
橋を越えれば魔術都市ソムリアの領地だけど、流石に形振り構っている場合ではなさそうだ。
彼らに追いすがる『地均す甲竜』の背に転移の魔術で移動、『吸血鬼』の刀身で照準を設置して、低出力の『断罪』で一体ずつ落としていく。
騎士団の被害は百か二百か、原型を留めているものがあまりにも少なくて、分かりそうにない。
西への道は完全に塞がれている、しんがりの兵を容赦なく引き裂く、周囲のものより一際図体のでかいそれの背に到達した。
これで何体目だったか、『吸血鬼』の揺らめく刀身を鎧のような背に突きこむ。
操られていなければおとなしい魔獣、少し可哀想だけど、一つ一つ解除している暇はない。
突き入れた刀身を変質させようと、
「う、わ」
突然、『地均す甲竜』が立ち上がった。
一度乗ったキャラック船のようなあれが波を受けてひっくり返ったら、こんな感じだろうか。
『吸血鬼』の刀身を消し、蹴り飛ばして退避。
着地して見上げる、二本脚と長く太い尾を器用に使って立ち上がった巨体は、二階建ての家よりも大きく見える。
そしてその体躯は当たり前だけど……二本脚で立つように作られてはいない、空を覆うように迫る背甲の突起は剣山のよう、振り返りざまに人差し指の付け根を噛んだ。
「せ、せーふ……う、おおぉ……っ」
大地そのものを揺らし仰向けに倒れこんだ『地均す甲竜』、その余波は凄まじく、魔力を帯びた土砂が舞い上がり、視界が塗り潰された。
しばらくの間、動けなかった。
今の動き……恐ろしく不自然だった。
まるで操り人形のような、抗えない強大な力で無理やりそうさせられたような。
もうもうと立ち込めていた砂煙が晴れ、ひっくり返った『地均す甲竜』はぴくりともしていない。
その姿に、崖下でのルッツ・アルフェインとの邂逅を思い出す。
『地均す甲竜』の向こう、兵たちは遠ざかっていく。
遠く、彼らを見送りながら……警戒度を最大に引き上げた。
仰向けになったその巨大すぎる体躯の腹が内側から引き裂かれ、青みがかった暗く赤い血が、鯨の潮吹きのように撒き散らされた。
そこから這い出すように現れたのは、鈍色のローブを纏った小太りの男。
フードを取りさらけ出された顔は顎がたるみ、その身体には余分なものが有り余っている。
「ふぅ……、初めまして、シエラ様」
ぐい、と真っ白な美しい刺繍の施されたハンカチで額の汗を拭いながら口を開いた男の声は高く、しかし澄んではいない。
『地均す甲竜』の腹から現れたにも関わらず、纏うローブに血は一滴も染み込まず、表面を流れ落ちていく。
「警戒するそのお顔もまた、お美しい……ふぅ……」
頬から首までを拭う、俺の魔力が染み込んだそれ。
……こいつが、城塞都市レグルスの若き王に従う振りをして操っている、そして俺を狙っていた、側近だろうか。
『吸血鬼』に魔力を注ぎ込む。
「……何の、用ですか」
「アァッ! ……あぁ、失礼。お声もまた、素晴らしい」
なんだこいつ気持ち悪い。
今まで何度もこの身体の造形への褒め言葉を聞いてきたけど、なんだろうこいつからのは……悪寒が走る。
……もう喋りたくない。
「ふぅ……あの王が一目惚れしたのも頷けますねぇ……、おっと、話が逸れてしまいました」
全力で逸れてったのはお前だろ。
とりあえず警戒しつつ、出方を窺う。
転移先の目星だけ付けておこう。
「現在、魔術都市ソムリアの兵が、この『血の平野』へ向かっています」
「……え?」
男はたるんだ首をぐるりと拭い、もう動かない『地均す甲竜』の上をゆっくりと歩いてくる。
余裕を見せつけるように。
「驚きに揺れるその紅い瞳もまた……あぁ、失礼」
鼻息荒く一呼吸ついた男は、そのまま続けた。
「レイグリッド団長率いる騎士団は、突如現れた『竜』に襲われ、やむなく東の橋へ撤退中です。
進軍方向、指揮系統の位置、包囲の乱れ。あぁ、とても自然な流れですね」
『地均す甲竜』から飛び降りた男は、ほっ、とがに股で着地して、舞い上がった砂埃を丁寧に払った。
「しかしその先の橋は、ソムリアの魔術師兵団によって封鎖されます」
こいつは何が言いたいのだろう。
もったいぶった現状の説明は、まるで俺に言い聞かせるよう。
一歩、また一歩こちらに歩み寄る男からはしかし、敵意は感じない。
……こいつを退けて、別方向から包囲を突破させればまだ間に合うだろうか。
「間に合いませんよ。……しかし、方法はあります、シエラ様」
視線から読み取られたか、数歩の距離まで近づいた男は、気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「少しだけ、私にお付き合いください。さすれば、彼らを追い立てる『竜』は止まるでしょう」
どう考えても罠だ。
かと言って左目を使って追いすがる『地均す甲竜』すべてに『断罪』を使えば、人も竜も……跡形もなく消え去るだろう。
それは絶対にできない。
……やはり、転移するしかない。右腕を持ち上げる。
「……っ」
が、その腕は中途半端な位置で固まった。
男の後方で、さらに『地均す甲竜』が何体も地中から這い出してきたから。
それらはこちらを凝視して、咆哮を上げることもなく、佇んでいる。
また一歩男が近づき、ローブ越しにも分かる不摂生な身体の線が揺れる。
いそいそとハンカチを懐にしまった男は俺の目の前に立ち、その手を伸ばして……俺の頬に触れた。
「ふぅ……あと何体いるのでしょうねぇ?」
汗ばんだ太い指が気持ち悪い。
少しだけ前屈みになった男のもう片方の手も、俺の髪に伸びて無遠慮に撫で回す。
つまりこの男は、まだ戦力を隠し持っていると……騎士団を包囲する壁は厚いと、そう言いたいのだ。
男の額には汗が浮かび、薄い髪が額に張り付いている。
男の手が俺の首を滑り降り、肩に触れた。
気持ち悪い。
男のべたつく手が、当たる湿っぽい吐息が、そのじっとりとした目線が、全て。
初めて純粋に、暗い衝動が浮かんできた。
けれど、レイグリッドに抱き着いたニアリィの、柔らかい笑顔が思い浮かんだ。
『吸血鬼』の刀身を消した。
……彼らが無事ならば。
「ンン! 流石、聡明ですねぇ」
目の前で膝をついた男の手が、俺の肩を撫で腕を伝い、下へ。
鼻息が荒い、男の太い眉に汗が溜まり、流れていく。
ああ、本当に、気持ち悪い。
「返事をお聞かせ願えますかな、シエラ様」
熱っぽい目で見上げられ、不意に脚が竦んだ。
目を逸らし、口を開く。
「……分かり、ました」
俺の声を聞いて男は立ち上がり一歩後退ると、天を仰いだ。
「……アァッ! 事ここに至っては最早『魔族の王』などどうでもイイッ!
さあ、さあ。私と共に参りましょう、シエるぅぁ」
ぶつり、という致命的な音と、暴風を引き連れた青い眼光が視界を横切ったのは、ほぼ同時。
男の首が逆を向き、咲いた鮮血はごく僅か。
真っ黒なローブを翻らせて、少女の姿をした『空駆ける爪』が、文字通り空から降ってきた。
「シエラちゃん、遅いから迎えに来ましたよ」
「……っ」
ぺろり、と固まった俺の頬を舐め上げる薄くて長い、熱くぬめったそれに、もう嫌悪感はまったくなかった。
「シエラちゃん?」
「う、うぅ……、ソラぁ……」
「ふぁっ」
抱き着いた。
珍しく慌てたような声を上げたソラの首筋に顔を埋め、ぎゅうと抱き締める。
獣の匂いが、微かに香る血の匂いが、その高い体温が、今はただ安心する。
「ど、どうしたんですかシエラちゃん」
ばっさばっさとローブの中でソラの尻尾が揺れている。
調子づかせるだけだと分かっていても、止められなかった。
情欲をぶつけられることがあんなにも、恐ろしいものだったなんて。
「まったく、甘えんぼさんですね……よしよし」
驚異的な瞬間風速だった。
お姉さん風がびゅんびゅん吹き始め、ソラの手が俺の髪を優しく撫でる。
でも今は、いいや。
なんかすごい安心するし。
「ふぅ……危ない、危ないですねぇ」
と、ぬるま湯のようなひと時はしかし、不吉に湿った男の声で現実に引き戻された。
ソラは俺の身体を抱き上げ、大きく距離を取った。
わぁい、おひめさまだっこだぁ。
「気味が悪いですね。なんです、あれ」
「わからぬ」
返事が適当になってしまった。
けど分からないものは仕方がない。
「……ソラ、向こうは平気なの?」
「えぇ。フィアちゃんがいますから」
ソラが断言するのなら、大丈夫だろう。
そのソラの首に腕を回し、ごきごきと首を鳴らす男を見やる。
その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
けれど、見えた。
「……ああ。なるほど、そういうこと」
その後方、『地均す甲竜』が一体、倒れ伏していた。
嫌な気配を纏う紋様をその体躯に刻まれて。
あの魔術は『大賢者』の専売特許というわけではないらしい。
……ソラの頬に、唇を押し付けた。
ちゅ。
「んふ? なんですか、シエラちゃん」
「ん。なんでもない」
自分でもよく分からなかった。
多分、ありがとうの意味だと思うんだけど。
お腹の下がぽかぽかと温かいから、それをおすそ分けしたくなったのかもしれない。




