二十五話 思想は絡み合い
俺たちと『血の平野』を隔てるように、その二人は黒い沼から現れた。
片方は見覚えのある鈍色のローブを着た老人、キルケニス・オーグリア。
もう一人は初めて見る……ごてごてした金の飾りが目に付く、豪奢なローブが足元まで覆っている。
「なるほど、貴様が『白き魔女』か。噂以上、人外の美しさだ」
男が持つ杖も装飾華美で、実用性は……あるんだろうな、魔力の残滓が纏わりついている。
隣に立つキルケニスからはやはり、敵意も殺意も何も感じない。
「ハッ、『大賢者』様が直々にか、珍しいこともあるもんだ」
嫌悪感を微塵も隠さないルデラフィアの声、その横顔は本当に不機嫌そう。
「私の物を掠め取ろうとする不届き者がいるようなのでな」
小高い丘の上、十数メートル程の距離で相対する彼らの声はよく通る。
ニアリィの背中に刻まれた魔術、それに手を出されて慌ててやってきた、ということらしい。
しかし泥棒扱いとは、参りましたね。
「だが、そんな物はもう、どうでもよい。『白き魔女』よ、席を用意してある」
共に来い、と有無を言わさぬ声色と差し出された手からは、生きた年月を読み取れない。
魔術都市ソムリアを統べる『十席』、その空いた一つをくれるというその言葉に、しかし何の感慨も湧かない。
そんなもの。
「お断りします」
『吸血鬼』に魔力を流す、どす黒く揺らめく刀身は周囲の濃い魔素を喰らい、より一層不吉に色濃い。
「……そうか。非常に残念だ。では『人狩り』よ、本分を果たせ」
『大賢者』と呼ばれた男の杖が鈍く光を放つ。
見ただけで分かる、様々な魔術が精緻に刻まれた杖は、何かを『操る』ことに特化している。
しかし……静寂。
「どうした。……まさか、いや、早すぎる」
すぐに思い至ってくれたらしい、こちらを睨みつける『大賢者』に対し、笑顔を浮かべる。
にこぉ。
「『呪い』なんて、くだらない。……私を、誰だと?」
慎ましい胸に手を当て、自信たっぷりに言い放つ。
よく分かってないけどな!
「ハッ、この短時間でバラされるなんて、普通は思わねェよな」
ルデラフィアの可笑しそうな声が頼もしい。
狼狽した様子の『大賢者』、隣の老人キルケニスは含み笑いを噛み殺している。
「キルケニス、貴様、知っていたのか」
「いや。見誤ったのは儂も同じ。……だが、都合は良い」
ぞぶり、と。
キルケニスの言葉が終わると同時、『大賢者』の胸から、腕が生えた。
毛むくじゃらな、人間のそれより倍は太い、獣染みたその手にはどくんどくんと脈動する心臓が掴まれている。
情けなく小さな悲鳴を上げたのは、俺だけだった。
「相変わらずだな、ジジィ」
ルデラフィアの溜め息混じりの声に答えるように、獣の腕が引き抜かれた。
「が、ご……き、さま゛……ッ!」
『大賢者』は口から血を噴き出し、魔術を行使しようとして……胸に開いた穴を鮮血が覆い隠した。
血溜まりに崩れ落ちる男を老人は一瞥して、地面から生えた巨大な獣の手から脈打ち続ける心臓を受け取った。
「油断したのう。予備を侍らせておけば良かったものを」
視界の端でソラが舌なめずりをしたのが見えたけど、見なかったことにしておこう。
心臓を懐にしまったキルケニスは、さて、と一息ついて言葉を続けた。
「手間を省いてもらった礼に一つ、教えておこうか」
「へェ……、今度は何を企んでんだ」
ルデラフィアの声を無視して、キルケニスは杖の先で地面を小突いた。
僅かに警戒する……何かを呼び出したわけでは、ないらしい。
「のう、『魂の器』よ。これ以上邪魔をせん方がえぇぞ」
「……どういうことです?」
「文字通りの意味じゃよ」
邪魔をするな、ではなく……まるでこちらを慮るような物言いだけど。
『吸血鬼』に回した魔力はまだ回収しない。
何をされるか分かったものじゃない。
「儂らは正しく、『黒き魔女』の後を追っている」
……アーティファクトを集めるのは、まだ理解できる。
けれど、ここで行おうとしていること、そこに至るまでにしたことが、本当に?
「……ここで、何をするつもりなんですか」
「事ここに至っては、見守るだけじゃ」
「だから、何を」
苛立たしげに吐いた俺の言葉に、しかし老人は何も反応を示さず、ただ静かに呟いた。
「『魔族の王』の降臨」
ピンと来なかったのは俺だけのようだった。
いや、視界の端でソラも、何言ってるんだろう、みたいな顔をしている。
「あの者は完璧を求めて一から作り出そうとしておったが。しかし時は有限」
あの者……ヒイラギのことだ、作り出す……『魔族の王』?
それが、神さまを殺すことと、何の関係があるのだろう。
「明く頃に城砦の騎士団が着く。その血をもって、陣を成す」
「……できると思ってんのか、ジジィ」
ルデラフィアの声に嫌悪感はあれど、最初から敵意が一つもない。
その理由は俺にもなんとなく分かる。
今対峙しているこの老人は恐らくあの時と同じ……本体ではない。
「儂は何もせん。見守るだけじゃ」
また相見えよう、そう言ってキルケニス・オーグリアは黒く溶け、地面に埋没していった。
「……はぁ」
一戦交えると思っていたから、少しだけ拍子抜けだった。
いやしかし。
「フィア」
「あン?」
「『魔族の王』ってなんです?」
数年前に起きたという『災厄』、それを引き起こしたのが魔族だと……それくらいしか、俺は知らない。
王と呼ぶからにはそれを率いるものなのだろう、つまり、『災厄』を引き起こした……?
「いや、知らねェ」
「えっ」
知らないのかよ。
誰も突っ込んでませんでしたよね……?
「正確には誰も見たことがない、だな。物語の中の存在。『災厄』のときにも、そんなもんいなかった」
「……なるほど」
物語の中の存在……そんなものを降臨させようと、あの老人は言っていた。
できると思っているのか、というルデラフィアの言葉は、そちらの意味もあったのか。
「んー、贄も血も足りねェと思うんだけどな」
「あれだけ染み込んでいるのに?」
左目で見た『血の平野』は、それこそたゆたう魔力の海のよう。
あれで足りないなんてことが、あるのだろうか。
「『死んだ魔力』と『生きている魔力』は違うんだよ。まァ、なんにせよ明日だな……ふあぁ」
大きな欠伸をしながら、ルデラフィアは荷馬車の方へ戻っていった。
呆けたままのニアリィに、お前のご主人様死んだぞ、と言い残して。
背中に抱きついてきたソラの髪を撫でてから、背中を舐め回していた青白い炎が消えたニアリィの前に屈んだ。
「ニア、戻りましょう」
手を差し出すと、ニアリィは小さく身体を震わせて、俯いてしまった。
「……ごめん。少しだけ……一人にさせて」
「……分かりました」
立ち上がり、ソラの手を引いて丘を下る。
一度だけ後ろを振り向いた。
ニアリィの小さな背中は薄闇の中で一人、うずくまったままだった。




