零れる四季(後篇)
雪谷の涙を拭うと、まるで前のように戻ったかのようだった。ただ俺が、「ユキ」と呼び続けるだけで、雪谷はこんなにも泣き続けることができる。それがかわいそうで、それなのに充たされていた。
「ユキ、来い」
おいで、という手を振る仕草はつけない。ただ、そう発すると雪谷は理解したようだった。
玄関からリビングに戻り、腰を下ろす。脚を少し広げてもう一度「ユキ」と呼ぶと、跳ねたようにぴくりと奴の体が揺れた。そっと俺の脚の間に腰を下ろした雪谷は俺の正面に居て、俯いたままでいる。普通こういう時は後ろ向きだろうと思ったが、雪谷にそれがわかるわけがない。
「阿佐、あの」
「どうした」
「ごめん……」
「なにが」
「泣いて、ごめん。ユキって、久しぶりだったから」
喋る雪谷が珍しくて、もっと口を開かせたくなる。覚悟と同時に、雪谷の感情を試したくなる軽薄さも感じていた。
雪谷に触れると背徳感が浮かぶ。踏みとどまる位置が危いからだ。「この先」を、考えてはいけないのに想像しかける。
「ユキ」
俯いたままの雪谷は、昔の雪谷みたいだった。おれに従順で、保健室でおれを待っていたころのあいつに。一緒に暮らし始め、雪谷がいるのが当たり前の生活から遠ざかったものの、こうしていればまた感覚が徐々に取り戻されていく。
名前を呼び続けると、今度は鼻を啜る音がする。俺がつけた名前、たった二文字を繰り返すだけなのに、おれたちの氷は溶けていく。簡単にこうなるのを本当はわかっていたから、意識しすぎるくらいの距離を取っていたのだろう。
こうなることが、怖くて。
「阿佐は、意地悪だ」
「雪谷――じゃ、嫌なんだろ」
口端を上げると、からかわれていると思ったのか、俯いた顔の眉間に皺が寄る。そこを人差し指でつつくと雪谷は嫌そうに首を振った。
「ユキ」
今から話すのは、とても都合のいい話だ。それなのに雪谷が怒ることは決してないことを知っている。
殆ど言葉がないのに、伝えたいことの感情が、あたたかな空気に混じって雪谷へと浸透していく。内容と感情は違うのに、雪谷の表情は先程のやり取りでやわらかく見える。おれと雪谷が手を繋いでいたころよりも、もう少し色を持った空気が漂っているのは、互いに保っていた境界線がなくなったから、急に感情が流れるのかもしれない。
「ユキ」
もう一度呼び手招きすると、雪谷は明らかに戸惑っていた。この距離での仕草がどういう意味かということを知らないからだ。同じようなことは高校生のときにしたのに、そこに至るまでの方法は無知。あの時だって場の流れなんかはなく、こいつから一方的に抱きついてきた。
おれを下から見上げるようにする表情は怪訝そうにも取れる。それじゃあ空回りしているみたいで恥ずかしいので、雪谷を睨んだ。
「もう少し、近く」
「近くだと、阿佐にぶつかる」
「それでいいんだよ。お前が嫌じゃなきゃ」
黒々と濡れている瞳が僅かに大きくなる。雪谷がどういう体勢になるのかと思案するのを十秒程眺め、理解したこいつが怖々と体をくっつけてくるのを低い体温で感じていた。雪谷の触れ方が寄り添うようにささやかで、拒絶を恐れているように取れるのは、昔の告白に対しての「無理だ」という言葉があるからだろうか。
体が小動物のように細かく震えていて、そろそろ泣くのを予感させた。
「嫌、じゃない。・・・ない」
堪えられないように見えたのは、距離を取っていた期間を考えると、性急さのある雪谷の動きだ。確かめるように言葉を呟き、飲み込むと、俺の手の甲にその細い指を乗せていた。
これでいいんだと、なんとなく想定内だったことに安堵と共にあったのは裏返しにある薄い罪悪感。指先を掴むのは、雪谷からの動きに返すことはできるから。
「おれはさ、お前に何もできないんだよな」
「阿佐?」
「おれがさ、前に言ったの覚えてるよな。お前がおれに告ったとき」
ゆっくり頷くその表情は悲愴感が漂っていた。無表情の癖にわかりやすいのは変わらない。「無理だ」という単語にどれだけの含みがあったか、誤解を解く気はなかったはずなのに、今はその一年前の返事を盾にしている。
「お前に好きだとか、同じくらい返せないし、お前に彼女とか彼氏とかそんな役割無理だ。何もできねえよ。だけど」
本当は、今更離れられたら嫌だ。そんな我侭だ。
「けど、お前の気持ちとか、したいってことを受けるのは無理じゃない」
理不尽なことを言っているのに気づいているだろうか。
「……え、……え?」
意味が掴めなかったのか、不思議そうにした後に、混乱しているのか顔を見返す雪谷。これ以上どう伝えたらいいかわからず黙る。何か言うたびにきっと、自分がどれだけ都合のいいことを口にしているか実感する。
それでも、これ以上を発想できそうにない雪谷を放っておくと事態が余計に収集がつかなくなりそうだった。
「お前がいいように考えればいいんだよ」
「え……」
久しぶりに握った手を、もう少しだけ強く力を込める。気づいたかどうかわからないけれど、その先を紡ぎ始めたからそのままにしておいた。
「いいようにって」
「だから、お前が俺にしたいことをすればいい」
恥ずかしいせりふも、雪谷にはあまり抵抗なく言えてしまう。こいつが何が恥ずかしい言い回しだとか、把握していないから。だから、思惑はともかく、言い回しを気にせずにストレートな言葉が吐ける。
雪谷の喉が震えているのは、少しずつおれの言葉を飲み込んでいるという風に理解していいだろうか。
「あの・・・阿佐」
「うん」
「手、繋いでいい?」
ちゃんと理解している。そういうことなんだよ、と、内側では甘い雰囲気を醸し出すことなく頷いた。
「うん」
「あと……あと」
躊躇った先を、おれは待っていた。雪谷が離れないようにするために。それでいておれと雪谷の関係が、保たれているように。
「好きで、いたい」
「うん」
「阿佐のこと、好きでいたい」
背中を撫でると、雪谷はそれがきっかけになったのか濡れていた瞳からとうとうまた涙を溢していた。いいの、と震えながら漏らす問いに、短く返事をする。
「何も返せないけど」
「それでいい。なにもしなくていい。好きでいさせてくれてる、阿佐は、返してる」
投げたような物言いだったのに、雪谷は嬉しそうにしていた。思ったことをそのまま羅列する癖が出ているのは、今は整理できないからなのか。
親父の墓の前のような、あの弾けた喜びが目の前にあった。
「ユキ」
拭うこともせずに溢れっぱなしになっている涙が、少しだけ開いたままの蛇口みたいだった。服の袖で拭うと、白い頬に涙の痕がついた。
「阿佐が優しいから」
「優しくねえよ」
優しい、と言って泣くこの光景が、高校生の頃を思い出させた。うっすらと気づいていたのに、ぎりぎりで隠していた感情や予防線が今は決壊している。兄弟でいられれば錯覚させることのできた感情を、あの頃も甘受ならばできたけれど、今とは意味合いが違う。
胸を押し潰すのは罪悪感よりも、雪谷の人生を奪っているという責任感だった。更に言えば、その雪谷を預かっている責任に、俺がこいつを独占しているという満足感があったのだからどうしようもない。
この選択肢がこれから一生、こうしていかなければいけないことを思って、膜を張っていた。ただ一言の「無理だ」で済ませていたのに、おれが名前を呼ぶだけで泣くこいつを見たら、どうしようもない道を浮き上がらせていた。
雪谷は一生俺とどうにかなることはない。こいつが諦めない限り、ずっと片思いを続けさせていくことになる。それでも幸せにしたいと思うのは、俺の我侭だ。
「水分不足なるぞ」
「大丈夫」
優しさにしか流さない涙。ただ、昔と違って苦しくはなさそうだった。
それで少しほっとして、体の表面だけを触れるように寄り添った雪谷を抱きしめる。雪谷から、という体がなければ動けないこれからを想像し、泣いたせいか珍しく熱くなっているその薄い背中に手を回した。




