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いつかの季節(完結)


 おれが阿佐の手に触れると、阿佐は握り返してくれる。

 阿佐が隠していた、「おれが阿佐を好きだということ」を打ち明けたとき、おれは拒否をされたのだと思っていた。家を出ると決めていて良かったと、あのときはそう本気で思っていた。

 阿佐のお父さんのお墓の前で「一緒になろう」と言われて、それまで兄弟になるのをなんとなくごねていたのに、素直に頷いたのがどうしてなのかというのも、もうわかっていた後だった。

 阿佐はおれと、兄弟になりたかったはずなのに。それなのに、こうしておれが傍にいて好きだと表現するのを許してくれている。


「阿佐は優しい」

「優しくねえよ」


 無理だと言う言葉はずっと頭の奥に残っていたはずなのに、それがただ阿佐がなにも返せないと零すただそのことだけなのだとわかった瞬間に弾けて消えた。一人暮らしは、昔に比べるとずっとマシで、でも時々一人で部屋にうずくまっていたあのときを思い出す。

 あのとき、阿佐が来てくれたとき。おれは本当に救われたのに。部屋の環境はまるで違うのに、まだあのときのように阿佐がいきなり来て、おれを連れ出してくれるのを夢見ていた。

 阿佐は優しいから、義理で来てくれているんだ。もう、前のようにはできないのに。

 そうして思い込んでいた一年間は、日にちが経つのが本当に長かった。


「ユキ」

「ん」

「お前、もう家に帰れよ」


 握った手の心地よさがおれには優しすぎて泣きそうになる。「家」が、阿佐の家だということを指しているのを共有していることが、おれに与えられていい幸せなのか不安になるくらいだ。


 ――その日はたくさん泣いた。大好きな阿佐がこんなに近くにいて、おれを拒否しないでいてくれる。おれが彼を好きなままでいいと言ってくれている。

 おれの阿佐への好きは、たぶん動物と同じだ。初めて人に優しくされたから、すり込みで一人しか見えない。だから、阿佐がおれ以外の誰かとどうにかなっても多少の嫉妬はあるにしても気持ちを向けさせていてくれる現状がある限り、不満なんかはない。


 あの日、一緒になろうと言われたとき――おれが嬉しかったのは、人生を阿佐の伴侶として隣で過ごすことを想像していたから。兄弟は、ずっと傍にいられない。ずっといつも隣にいるなんて、兄弟のすることじゃない。わかっていたから苦しかった。だから、兄弟とかたちでもしっかりと宣告されたから、おれなりの区切りで家を出た。

 けれど今は違う。おれの大好きな人が、おれが好きなままでもいいと言ってくれている。その上で家に戻ってこいと言ってくれている。

それは、形式上だと家族だけれど、おれたちは兄弟ではないというようだ。うまく表現できないから、この関係にどんな名前をつけていいのかわからないけれど、おれは阿佐の近くで生きていられる。好きだというせいで感情の起伏が大きくなるのも、動揺させられるのもこの人が傍にいないとできないこと、生きているという実感が肌に、呼吸に、染み込む。

 阿佐と初めて会った、あの夏の日と同じ。


 こんな贅沢が、当たり前になるこれからが怖くて、だけどおれの欲は「もっと」と呻いている。この人が拒絶をしないと理解したら、眠っていた貪欲の獣が目覚めていた。


「帰る。阿佐と、帰りたい」


 阿佐の体にひっつき、こどもみたいな口ぶりになる自分が気持ち悪かった。おれとは違う、部屋をあたたかくしたらすぐにあったまるその手が、暖流のように背中に温もりを移す。うしろの髪を首筋から掬われ、ひゅっと首元が縮こまる。音を立てずに、小さな笑いが空気に流れたのを感じ、くすぐられてからかわれているのだと恥ずかしくなった。

 額にあたる、ぬるい感触が広がり、むずむずする。唇が押し当てられていたのだと理解するまで時間がかかり、いつもだけれど何も反応できなかった。

 おれからは何もできないと言ったけれど、おれが彼を少し求めると、それ以上のものを返してくれる。もっともっと踏み込んだら、阿佐はどんなことをしてくれるのだろう。

 心臓がばくばくして、破裂してしまいそうになる。もっと、を望んだら、おれは幸せを拾いきれなくなる。取りこぼした幸せはどこに流れるのだろう。そうして、今それを試してしまうのは勿体無い気がして、ただしばらくおれの中の容量ぎりぎりの状態で、抱きついたままでいた。






 ユキは、幸せそうな顔をしていた。

 最後までうまく笑えなかったはずなのに、ほんとのほんとの最期だけは、高校生のときにおれが親父の墓の前で見た、光の中にいるようなきれいな笑顔を浮かべていた。

 ユキが、おれの家に戻ってから五年程して、あいつはあっけなく死んだ。元々体が弱かったのもあるのかもしれない、普通なら病院に通っていれば治るような病気で、ユキはどんどん状態が悪くなっていった。あとから、普通の人よりも免疫力がずっと少ないのだと知ったとき、ユキが長くは生きられないということをどこかで理解していた自分がいたのに気づく。


 おれと母親、弔いのための坊さん、三人だけの葬式で、涙は零れなかった。桐の箱の中にいるそいつが、いつも通り青白かったからそのうち間抜けな声をもらして起き出しそうで。お袋が一瞬離れた合間にユキの顔を覗く。薄く頬を引き上げたその表情は、生きているときに、一回しかおれがさせてあげられなかったものだ。



――どうして。


ああ、ユキは、わかっていたのかもしれない。


――結局親戚の反対で、ユキをおれたちと同じ墓に入れることはできなかった。


死んで、おれたちと同じ墓に入ることはないこと。決して家族にはなれないことが。「一緒になろう」と告げた、二つの意味のどちらにもなれないことをわかっていた。


 あいつのことを、真正面から愛してやれないおれに、ユキはただ従順だった。都合のいい約束だと思ってもいいはずなのに、そんな考えすら浮かばないのは世間知らずのあいつだからだ。付け込んでいると思われても、おれたちにはそんな形でしか名前のつけられない、危うい情を交わすことができなかった。

 ユキの体が残っていた最後、冷たい唇にキスをした。幸せそうに薄く笑うユキが、もう口を開くことはないのだと実感し、棺に蓋をした。



 ――そうしてまた、五年が過ぎる。

季節がめぐるのはあっという間で、春の白んだ青空の下で、おれは小さな手を引き、緩やかな傾斜のある階段を登る。おれがいつか入るはずの墓の隣には、小ぶりな、白灰の墓石が並んでいる。水を替え、花を挿す。手を引いていた主は、タオルを手にその滑らかな石の体を拭いていた。頼りない動きに頬が緩み、おれが仕上げに丁寧に磨く。

 一連の掃除が終わると、線香をあげてしゃがみ、二人で彼の前で手を合わせた。隣にいる小さな肩の主は、この意味をわかってはいない。

 どこか一生懸命な様子に安堵し、わかってはいないだろうに、おれは長い約束を取り付けていた。


「なあ」

「パパ、なーに」

「ユウが大きくなっても、パパがいなくなっても。ここに来て、きれいにしてくれるって、パパと約束してくれるかな」


 声が柔らかくなった、とユキは言うだろうか。それとも、あまりあいつの前だと変わらないからいつも通りだ、と言うのかも。


「わかった!」


きらきらした黒目が、まっすぐに返事をくれる。そこには裏表も、意味もないけれど、おれはまた来年も彼女を連れて、同じ言葉を重ねるだろう。


「ここにいた人は、パパの友達?」


 首を傾げた彼女を抱き上げる。去年まではこんなこと聞けなかったのに、子供の成長はあっという間だ。

 さあっと少し肌寒い風が吹くと、ピンクの風花が舞った。ユキと来たころは楓ばかりだったのに今は桜も植樹されている。細い髪の毛に桜の花弁がつき、髪飾りのようになっている。優しく払い落とし、少し迷って答える。


「友達――、兄弟だ。だからそう、ユウのおじさんかな」


 どういうことかわからないのか、不思議そうな表情を浮かべる。まだ、親の兄弟が自分の叔父になるということが理解できない年だ。いずれわかるだろうと、それ以上は説明しなかった。



「・・・兄弟なんかじゃなかった」


 声にならないくらいの音でもらした言葉は春風に紛れていく。



 ちゃんとおれは、雪谷が好きだった。


雪谷の見えないところで、おれができるかたちでお前を残していくのは、一緒になれる幸せは家族という土に埋まるだけじゃないからだ。親戚の反対は、結果的にはおれたちの関係を、誰にもわからない象徴として残していた。


 いつかおれがそこに行ったなら、隣り合ったこの場所で、今度こそおれたちはしがらみもなにもなく、家族以外のなにかになれるはずだ。



 パパ、と声を上げたこの子がいるうちは、それはまだ遠い話だけれど。


 そのうちに、また。





手の平の季節・完


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