0.月より遠くにいる君へ 6.6.2024
どうしてこの人は空を歩いているのだろうか。
俺は勉強のやる気が出ず、なんとなく家の周りを夜の散歩として歩いていた。
すると長く真っ直ぐのびた黒髪をたなびかせた、少女と女性の境界に位置するであろう人が空を歩いていた。
あまり街頭のないこじんまりした公園だからだろうか。なんだか柔らかく光っているようにすら見える。
「…あれ、君?」
その人が柔らかい笑顔を浮かべて喋った。
俺のことだろうか。
夜とはいえまだ10時を回ったあたりであるため、人通りがないわけではない。
別の人のことだろう。
そう思って俺はそそくさと立ち去ろうとした。
変なものを見てしまった。もしかしたら疲れているのかもしれない。
今日は帰っても勉強せずそのまま寝ることにしよう。
「あー!行かないでっ!君のことだよ!私のことが見えてる君のこと!えーっと、黒髪短髪変なTシャツ短パンサンダルの君のこと!」
俺だな。それ。
黒髪短髪は、校則の厳しい私立高校に通う男子の髪型として一般的。
変なTシャツと初対面の人に言われる謂れはないが、小学2年生の妹には、毎晩寝巻きとしてTシャツを着るたびに、書いてある文字を読み上げられる。
お兄ちゃんセンスないね!と言われる。
悪意なんてかけらもない満面の笑みで。
ちなみに今日のTシャツに書いてある文字は「満月うどん」だ。
生憎今日は新月だ。別のTシャツを着てくればよかった。
そして、残りの短パンサンダルは散歩のときに多くの人がしたことがある格好だろう。
「聞こえてるよね?!止まってって!こっち見てよー!!!!」
こんな夜中に叫んではいけないと思う。
随分とうるさい。
というか、そもそもなんでこの人は浮いているんだろうか。
幽霊なのか?
もしそうなら振り向かないと呪われたりするパターンか?
しょうがない振り向くか……。
「…な、んで、すか。」
「あ、やっと振り向いた!そんな怪訝そうな顔しないでー!幽霊だとか思ったりしてない?違うからね?生きてるから!」
やっぱり人の心が読める時点で幽霊ではなかろうか。
というか夜に大声で叫んでいる人が、怪訝な顔で見られないわけないじゃないか。
まて、さっきから他の人は誰も、この宙に浮いている人を見ていない。
もしかして見えているのは俺だけなのか?
………幽霊!!!!
「あー!!!待って逃げないでっ!!!!私生きてる!人間!お願いだから!!!!!!!!」
全力疾走したものの、追いつかれた。
いや、追いつかれたというか、俺の体力が減っている気がする。
途中で諦めて走るのをやめてしまった。
やっぱり疲れているんだろうな。
中高陸上部の名が廃る。
明日はもっと走り込みをしよう。
「さぁ、捕まえたんだから私の話を聞いてね!」
なんて強引な幽霊………。
「君、私のこと見えるんでしょ?」
「……見えますけど、なんですか。」
「そんなに警戒しないでよ!」
いや、警戒するだろう。
空に浮いていて、中高陸上部の俺より足が速そうで、でも、線の細い華奢な女子で、そのくせ、どこから出ているのか分からない大声。
警戒しない要素がここに1つでもあるなら誰か教えてほしい。
俺が警戒していると、その人は、あ!と声を上げた。
今度はどうしたんだ。
もう疲れた。
「自己紹介してないから警戒されるのかな?」
いや、違う。
多分、いや、確実にそうじゃない。
「名前、クロミズチサク。ここから坂を下ったところに石波第二高校ってあるでしょ?そこの高1で、趣味は絵を描くことと部活でやってるフルート!好きな食べ物は激辛料理で、好きな飲み物はあっまいココアです!君は?」
「……影浦颯星。石波第二高2年。陸部。」
好きな食べ物はなんだろうか。
母の作った唐揚げはおいしいな。
でも、部活終わりに食べるものは全部美味しい気がする。
飲み物はひたすらお茶だな。
走った後に飲むお茶に勝るものなしだ。水でもいいけど。
「年上かー。私、君ーじゃなくて、颯星は年下っぽいなって思ったんだけどなぁ。誕生日は?!誕生日っていつ?!」
「5月29日。」
「んー。早生まれだったらほぼ同い年かと思ったのに!」
なんで、悔しそうなんだこの子。
「……そういえばさ、君…じゃなくて、チサクはなんで浮いてるの?」
「あ!だから警戒してたの?!」
その人──チサクは、「あはは!なーんだそんなことかー!」と楽しそうにコロコロ笑っているが、むしろ他に警戒する要素があったなら教えてほしい。
「んー、今は教えてあげない!今度の新月の日にここに来てよ。その時にわかるよ。ねっ、颯星先輩!」
そう言い残して、チサクはどこかに飛んでいった。
物理的に。




