第六話
ミュリエールが『エル・ミナ』の楽屋口で、休暇明けのわたしの楽屋入りを待っていた。
「もう大丈夫なの?」
わたしは母の死んだ次の日には帝都に戻り、すぐに支配人のダン・ヴェスペールに翌日からの公演に出演させてもらえるよう頼んだ。その話はすぐに噂になったのだろう。葬儀も服喪もなしに仕事に戻ってきたわたしを、なにかあったのかと彼女は心配したのだ。
「心配ありがとう、ミュリエール」
「なにかあったの?」
わたしは笑顔で答えたが、彼女は眉を寄せて心配な顔で訊いてくる。わたしは頬を掻いて、苦々しく十年ぶりに再会した弟の話をした。
「あったわよ。母さんが亡くなったあと、弟の奴が母さんの遺品は全部自分のものだ、姉さんは母さんについて行かなかったんだからなにも持っていく権利はないって言い出したのよ。まるで自分だけが母さんの子供のような顔をしてさ。それでいてあいつ、なんて言ったと思う? 葬式代は出してくれだってさ。わたし、あいつの顔にお金を叩きつけて帰ってきてやったわよ」
ミュリエールはいたたまれない表情をした。確かにひどい話だった。弟の性根の曲がりは、肉親の情なんてたいしたものじゃないと、心底思わせてくれるものだった。聞いた話だと弟には付き合っている女性がいるらしいが、弟はその女性に食わせてもらっているらしい。弟は立派なヒモ男になっていた。そんな弟の話をしていると、ミュリエールが不思議そうな顔をした。
「なぜかしら? ダミア、あなたとても清々しい顔をしているわ」
わたしは笑った。その笑顔に彼女はますます不思議そうな顔をするのだった。それがまたおかしかった。
「あら、もうこんな時間。さあ、お仕事しなくちゃね。また公演が終わったら食事でもしましょう」
腕時計を見ると、もう楽屋入りの時間だった。ミュリエールに手を振って楽屋へむかう。その途中の廊下に人と話をしているエカテーナがいた。
「今夜もよろしく」
軽くエカテーナの肩を叩いて通り過ぎる。彼女はちょっと驚いた顔でわたしの背中を見送った。わたしは楽屋に入る。そして鏡台に座り、化粧をして、衣装を身に付け、舞台へ上る。
清々しい。ミュリエールの言う通りだった。まったく簡単な話だと、自分でも笑ってしまう。母の前で歌うわたしを、わたしは母の瞳の中に見た。そこで気がついたのだ。わたしが歌姫になったのは、誰のため? わたしの歌の中に母がいた。それは愛でも憎しみでも構うことなく、わたしの歌の中にいた。それが歌姫ダミアの歌だった。だからわたしは歌姫ダミアなのだ。
わたしは歌姫のダミア。今夜も夜劇場の舞台で歌を歌う。
――ああ、春の風
母に伝えてあげて
わたしは母を愛していたと
わたしはしようのないはすっぱで
母には心配しか掛けなかったわ
それでも母はやさしい顔で
いつもわたしの頬にキスをした
ああ、春の風
わたしは母を愛していた
なのにわたしはなにも言えずにいるだけで
このどうしようのないひねくれものめ――