30話 絶対領域
「殺さないの……?」
喉元に冷たく触れる鋼の感触。あと数ミリ、呼吸を乱すだけで肉を裂くであろう死の境界線で、剣はピタリと静止していた。
目の前に立つのは、大陸全土にその名を轟かせる軍神。今の私のような満身創痍の獲物なら、瞬き一つする間に命を刈り取れるはずだ。
「……何でだろうな。俺にも分からん」
絞り出すような声だった。
「国民は……皆殺しにしたじゃない。今さら情けなんて、滑稽だわ」
「黙れ……」
私はマルクの瞳を正面から射抜く。だが、彼は逃げるように視線を逸らし、その端正な顔を苦渋に歪ませた。
「その目で俺を見るな。……死んでいったここの国王もそうだった。戦争を煽り、地獄を招いた悪魔のくせに、その眼差し……反吐が出る」
「悪魔だと思うなら、さっさと私を斬り捨てればいいじゃない!」
「うるさいッ!!」
怒号が闘技場を震わせた。
マルクが剣を大きく振り上げる。これまで機械のように冷徹だった彼が初めて露わにした、剥き出しの感情。怒りに任せたその一撃は——。
「……隙だらけ」
——幻影。
私は魔力を練り上げ、自身の虚像をその場に残す。振り下ろされた白刃が虚空を断つ間に、本体は音もなく背後へと滑り込んだ。
一時の静寂。
砂埃が舞い、闘技場には心臓の鼓動がうるさく響くほどの重苦しい沈黙が落ちる。空を斬ったはずのマルクは、ゆっくりと、祈りを捧げるかのように剣を天へと掲げた。
そして、呪詛にも似た低い呟きが漏れる。
「——絶対領域―」
刹那、空間そのものが悲鳴を上げた。
マルクとの距離は約5メートル。刃が届くはずのない絶対的な安全圏。
しかし、認識が追いつくより早く、熱い衝撃が私を襲った。
「……え?」
視界が泳ぐ。左肩に走った衝撃の正体を悟ったときには、私の左腕はすでに宙を舞い、鮮血の尾を引いて地面に転がっていた。
ふとマルクの刀身を見れば、つい先ほどまで白銀に輝いていたはずの鋼が、いつの間にかべっとりと、私の血で汚れている。
「何……これ……何が起きたの……」
回避のタイミングどころか、攻撃の予兆すら存在しない。ただ「結果」だけが押し寄せてくる。
次は右腕。逃げようと踏み出した瞬間に左足。膝をつく間もなく右足。
目に見えぬ斬撃の雨。空間そのものが刃と化したかのような絶望的な不可避。
「絶対領域は俺の視界に入る者と魔力を帯びたものを無条件で斬る技だ。魔法なんかじゃない。俺が辿り着いた人間の極地だ。」
でも…まだ終わりじゃない。
幻影なら視界を錯乱できるか?潜伏で魔力さえ消せれば……行ける。
「でも……こんな、手足じゃ……っ」
激痛を通り越し、失われた四肢の感覚が熱い喪失感となって脳を焼く。地面に這いつくばり、自分の血で濡れた砂を噛み締めることしかできない。
だがその時、絶望の静寂を切り裂いて、懐かしくも凛とした声が響き渡った。
「フィナ!!」
「……ッ、誰だ!」
鋭く反応したのはマルクだ。彼がわずかに視線を逸らし、意識の矛先を変えたその一瞬——千載一遇の隙。
「『黒点』!」
叫びとともに、私の内側から奔流となって溢れ出した黒い魔力が爆ぜた。
空間を凝縮し、一気に解放された暗黒の衝撃が、堅牢な闘技場の大地をごっそりと抉り取る。土煙が舞い上がる中、私の目の前にふわりと、白銀の毛並みを揺らして狐の姿をしたアストノストが降り立った。
「フィナ……急にいなくなってすまなかった」
「いいよ……アストが助けてくれたんだから。それで、十分……」
途切れ途切れの吐息で応える私に、アストは真っ直ぐな視線を向けた。
「礼は後だ。それより聞いてくれ、フィナ。私はここへ辿り着くまでの間、ずっとある仮説を立てていた」
「……仮説って、一体……何を?」
「君の内に眠る、その不気味なほど純粋な黒い魔力の正体だ。圧倒的な質量を伴う魔力、不定形の人工魔物アルマフィエル、そして混濁する無数の記憶の集合体……。おそらく、君という存在そのものが、一つの巨大な『魔法』なんだ」
「……はぁ? 私が……魔法?」
あまりに突拍子もない言葉に、思考が停止する。
しかし、その困惑を切り裂くように、瓦礫の山が内側から爆発した。マルクの放った不可視の斬撃が、巨大な岩塊を砂粒になるまで粉砕し、彼を解き放つ。
「その喋るキツネの正体も、ずっと知りたかったんだ。……ようやく御出座しか」
塵一つ付いていないような足取りで歩み寄る男を、アストは冷ややかな、蔑むような目で見据えた。
「へぇ……。これがあの『ダイル』かい? 随分と滑稽な姿に成り下がったものだこと」
「口を開けば、どいつもこいつも……ッ!!」
マルクが剣の柄を、指が白くなるほどに握りしめる。その殺気だけで大気がピりピりと震え、肌を刺す。
「フィナ、 『幻影』を!」
アストの鋭い声に弾かれ、私は残された魔力を絞り出した。かつてない速さで虚像を編み上げ、自身の肉体をその場から逃がす。
直後、先ほどまで私がいた空間が、真空の刃によって無残に切り刻まれた。不可視の斬撃が空を噛む。
「厄介な狐め……。」
「フィナ、落ち着いて聞きなさい。あんな男に構う必要はない。今から君の『本質』を説く。合図のたびに『幻影』で凌ぎながら、私の言葉を脳に刻むんだ」
「わ、分かったわ……!」
死線のただ中で、アストの冷静な声が響く。
「いいかい。君の身体を巡るその黒い奔流は、厳密には魔力などではない。それは何者かの魔法によって編み上げられた『現象』そのものだ。君が使ってきた『幻影』も『潜伏』も、本来のスキルではない。その魔力を使って、無理やり現象を模倣し、再現していたに過ぎないんだ」
「再現……? 私の力が、偽物だって言うの!?」
「いいや、逆だ。君の魔法は『不定形』——すなわち、君の想像力こそが世界の理を上書きする。君が『在る』と強く念じれば、それは現実となって具現化するんだ」
刹那、アストのふんわりとした尾が私の視界を覆った。
血の臭いも、マルクの殺気も、闘技場の喧騒も遠のき、暗闇の中に私自身の意識だけが浮かび上がる。
「集中しろ、フィナ。失われた手足を、指先の一本一本に宿る温もりを、地を蹴る脚の躍動を、鮮明に描き出せ。君の想像は——『現実』へと転じる」
視界が、爆発するように開けた。
「……っ!」
全身を駆け抜ける、熱い、脈打つような衝動。
恐る恐る視線を落とすと、そこには失われたはずの手足が、黒い粒子を纏いながら完璧な形で再構築されていた。
立ち上がると、確かな土の感触が足裏に伝わってくる。
いつもの感覚、いや、それ以上の力が全身に漲っている。
私は再び、自分の足でマルクと対峙した。
脳の奥底で、悍ましいほどの「声」が鳴り響いた。
それはアストノストには聞こえていない、私の中に溶け込んでいる無数の人工魔物たちの絶叫であり、記憶だ。
アスト、少しだけ違うわ。
私の力は、そんな綺麗な「想像」なんかじゃない。
数百年もの間、無残に殺され、喰らわれ、貯め込まれてきた数千、数万の魔物たちの怨念。彼らがその生で培ってきたあらゆる「経験」と「スキル」を、黒い魔力が強引に現世へと引きずり出すのだ。
この身に宿る記憶の貯蔵庫は、もはや「創造」の領域にまで達している。
「……行くよ、マルク」
私は静かに告げると、自らの右の手首を迷いなく左手で引きちぎり、切り落とした。
「フィナ……っ!? 何を!」
アストの驚愕の声を無視し、どくどくと溢れ出す黒い血を撒き散らしながら、私は歪んだ笑みを浮かべる。
「私は……私自身が、最高傑作の武器なんだ」
切り離したばかりの右の手首を、躊躇いなくマルクへと放り投げた。
生々しい肉塊が、空中で黒い粒子を噴き出しながら、弾丸のような速度で軍神へと迫る。
「……トチ狂ったか。肉の礫で何ができる!」
マルクが忌々しげに剣を構え、その「肉」を一刀両断せんと魔力を込めた。その瞬間——彼の意識が、私の手首という一点に完全に固定されたその刹那こそが、死の罠。
私は欠損した右腕を突き出し、言霊を放つ。
「——『爆破』」
それは魔物たちがかつてその身を砕いて放った、自爆魔法の集大成。
直後、闘技場全体を白光が塗りつぶした。手首という極小の質量からは考えられないほどの破壊エネルギーが、マルクの目の前で、至近距離で爆ぜたのだ。
衝撃波が観客席を粉砕し、大地が悲鳴を上げて陥没していく。爆炎の渦の中で、私の意識だけが冷酷に、次の「再現」を見定めていた。




