実験技術者 遊佐アカネの実験ノート 第12話 氷原を疾走する列車と熱い宇宙
氷原を疾走する列車と熱い宇宙
34歳の独身男性と二人っきりの個室で一週間を共に過ごすことになった。
私の名前は遊佐アカネ、実験技術者。世界で一流の研究をしているボスの下で正確無比な実験を行うのが私の仕事。わかりやすく言えば、実際に手を動かして実験をする人、といえばいいかしら。私は、科学者が自然の真理を探求する真摯な姿に魅せられこの仕事を続けている。ボスは一歩でも自然の真理に近づくために仮説を立て研究を行う。私はそれを確かめるために実験に取り組む。そういう役割分担。私の仕事は研究テーマごとの契約なので、一つの研究が終わると、あと、契約期間が切れても無職になっちゃう。そして新しい研究所に採用してもらって経験を積みながら報酬も増やしていく。
雪の結晶の研究をしていた中谷宇吉郎の元を離れて1週間ほどが過ぎていた。
街に入ったのは20時をとっくに過ぎていたが、ウラジオストクの夜は明るかった。翌日の便利を考え、ウラジオストク駅に近いバルバドスホテルに宿を取った。ずいぶん料金が安いので心配していたのだが、まぁ、なんというかひどかった。シャワーを浴びる気にもならず、内も外もほとんど防音はなく、公園が近くにあるようで、そこの大騒ぎが聞こえてくる。観光に出るような時間でもないので、そのまま無意味にだだっ広い部屋の隅っこに窮屈に置かれたデスクに座って中谷宇吉郎が別れ際にくれた自身の随筆集『冬の華』を開く・・・のだが、隣の部屋から女性の喘ぎ声が聞こえてきて集中できない。何もかも筒抜けだ・・・。私は読書を諦めて、ベッドにももぐり込んだ。シーツが清潔だったのはせめてもだった。
翌朝、ホテルで朝食のパサパサのパンを薄い牛乳で流し込み、列車までは時間があるのでちょっと街に出てみる。ウラジオストクの街はとてもきれいだ。私は普段は移動には船を使うのだけれども、今回は、クライアントが急ぎで実験技術者の手が欲しいということで、列車で欧州へ向かう。時間的には鉄道が便利なのだけれども、何しろ鉄道は設備が悪い。小さな箱の中に閉じ込められ、シャワーも浴びることができず一週間を過ごすのはなかなかに苦行だ。
昨夜は騒がしかった公園もこの時間は散歩を楽しむ老夫婦が散見されるだけだ。しばらく通りに沿って歩く。通りの両側にはレンガ造りの建物が並んでいて、極東にいながら欧州の文化が鉄道を介して運び込まれていることを感じる。多くの建物の1階は商店や銀行だろうか、何かそのようなものになっているがまだ皆ドアは閉じている。ホテルから駅までは200メートルほどしかなく、駅は簡単に見つけることができた。駅の脇にはこじゃれたレストランがあってモーニングの営業をしていた。窓の奥に見える客人たちは明らかにさっき私が食べたものよりもおいしそうなものを食べている。
「こっちにすればよかったな」
二食朝食を食べても悪くはないのだけれども、歩いているといろいろな怪しい人が声をかけてくるので、それがメンドウで駅の場所だけを確認してチェックアウトの時間までホテルで『冬の華』を読んで過ごすことにした。
列車の時刻は夕刻なので、それまで滞在できないかとホテルのフロントに尋ねたところ、可能だという。「いくらか?」と料金を尋ねると、丸一泊分だという。
「なにそれ」
と思ったが、街中に放り出されて、怪しい観光案内人に捕まっても困るので、
「じゃ、それで」
と頼んで部屋に戻り、『冬の華』を開いた。
列車の出発時刻の1時間以上前、私はウラジオストク駅に向かった。
「全然わかんないわね」
ほとんど記号にしか見えないロシア語を一文字一文字確かめながら自分の乗る列車が入っているホームを探し出した。ホームに立っている車掌とおぼしき女性に声をかける。
「モスクワ行きに乗りたいのですけれど」
「ご案内します」
私は目の前に止まっている列車に案内された。高慢な日本の国鉄駅員よりも、ソ連国鉄の車掌は遙かに親切で、コンパートメントまで案内してくれた。
「やぁ、こんにちは」
その人はコンパートメントに先に入っていた。
「どうもこんにちは」
ここは二人用の個室寝台だ。この列車には最上級の二人用個室、一般的な四人用個室、そして、ひたすら安く移動するための三段ベッドが二組ずつ並んだ開放寝台車があった。私はその中の最上級の個室を選んだのだが、男性と同じ部屋だ。まぁ、これも運命なのだから仕方がない。
個室の寝台は昼間はソファーのような座席として利用する、夜はそのまま寝台となるが、カーテン一枚で囲うだけだ。個室のドアは中から鍵をかけることができる。鍵をかけて寝るのも、かけずに寝るのもどちらも危険だ。
どうしたものかと思案していると、その男性は自己紹介を始めた。
「私は、ガモフと言います。米国のジョージ・ワシントン大学で教授をやっています。終点のモスクワまで乗車します。よろしくお願いします」
その男性は明らかに年下の私にも丁寧な口ぶりで話した。年齢は、そう、30歳くらいだろうか、私より少し年上の感じだ。
「遊佐アカネです、よろしくお願いします」
私は長い椅子に腰をかけた。窓際に座っていたその男性と部屋の中で対角線になるようにドア側に。
「お嬢さんはどちらまで」
「あ、私も終点のモスクワまで」
「そうですか、なんか、男性の私と同室になってしまって申し訳ない」
「いえ」
ガモフは英語で話してくれた。ロシア語も一応はできるがさほど流暢に話す自信はない。
「一人でシベリア鉄道で旅行とは、日本人の方としては珍しいのではないですか?」
「ええ、たぶん」
「もうし分けないが、これからモスクワまでご一緒させて下さい」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
この部屋は日本でいえば一等寝台車に相当する。21世紀でいえば「TRAIN SUITE 四季島」や「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」の最上級相当だ。ソ連人にとっては相当高額な寝台だ。ガモフは若いのにずいぶんと高給取りなのだなぁ、などと考えていた。
「シベリア鉄道は初めてですか?」
ガモフは穏やかに訪ねてきた。
「初めてです」
「では、モスクワも?」
「いえ、モスクワでは以前しばらくワークしていたことがあります」
「なんと!」
ガモフは本気で驚いていた。
「黒海をご存じですか?」
「はい」
「私は、黒海に面した港町のオデッサというところの出身なのですが、ソ連の中で日本人女性にお会いするのはこれが初めてな気がします」
「そうですね、わたしが以前ワークしていた時も日本人には誰にも会いませんでした」
私はイワン・パブロフの元で犬の実験をしていたことを思い出しながら話した。そういえば、イワン・パブロフはもう4人も前のボスだ。
17時30分、私の持つ時計とは時間が異なるので、おそらくモスクワ時間なのだろう、列車は何のアナウンスもなしに発車した。列車はコトンコトン、ガタンガタンと不規則なリズムを刻む。
会話も途切れた頃に、ワゴンを押したウエイターのような人が大きな透明ガラスが入ったコンパートメントのドアをノックしている。いきなり食事が運ばれてきたので「ずいぶん早い夕食だなあ」と思った。たぶん、ソ連人の乗客たちは食事を早めに済ませ、夜にはラウンジに移動して、お酒を飲んだりするのだろう。この列車には2両の食堂車がつながれていて、そのうち1両はバーカウンターのあるラウンジのようになっているとあらかじめ調べたときにわかった。
あまりよそよそしくするのもいろいろ支障があるかと思い、少し窓際に座り直して、配膳されるのを眺めていた。挽肉を団子状にしてソースをかけたものとパスタ、それにパンがメニューだ。ソ連のパンはおいしくないと、ソ連で働いたことのある私の同業者は皆が言っている。私もそうは思うが、まあ、食べられないほどではない。
「私は、24歳までソ連で学び、その後、米国に留学しました」
ガモフはパンを力一杯引きちぎる。
「お若くして留学されたのですね」
「はい、私は自然に興味があり、自然についてより深く知ろうと思ったのです。自然に関する教育を受けるには米国は最高の場所でした」
まあ、そうだろう。
私も乾いたパンを全力でちぎって水で流し込む。スープくらいつけてくれればいいのに。
ウラジオストクの街は小さいので、あっという間に列車は街を出て、ぱさぱさの夕食を食べている内に外の景色は何もないだだっ広い原野に変わっていた。ウワサでは、この原野の景色が終点まで延々と続くらしい。列車はコトンコトンと規則正しいリズムを刻む。
夕食後、私は『冬の華』を読むことにした。ガモフも何やら難しそうな本を読み始めた。が、しばらくすると
「アカネさん、私はラウンジに行ってみますが、あなたは?」
「いえ、私はロシア語があまり得意ではないので」
「そうですか、では、私だけ失礼します」
と、部屋を出て行った。透明のガラスのパーティション越しにその後ろ姿が遠ざかっているのが見えた。荷物はすべて置きっぱなしだ。コンパートメントは私がその気になれば中から鍵をかけることもできる。その状態で出て行くと言うことは「私を信用して下さい」というガモフの意思表示なのだろうか。
「・・・・。」
とりあえず、寝台にカーテンを引いて楽な服装に着替えることにした。
1時間くらいたっただろうか、『冬の華』を読んでいるとガモフが戻ってきた。ノックをして私と目線を合わせてからコンパートメントに入ってくる。お酒の臭いはしなかった。
「おかえりなさい」
わたしから声をかける。
「どうも、戻りました。ラウンジは大賑わいでしたよ」
「そうですか」
ガモフは自分の寝台の私から少し離れた位置に腰を下ろして言った。私はドア寄りの対角線の位置に座り直す。
「差し支えなければ、ですが、モスクワへは留学か何かですか?」
「あ、いえ、目的地はモスクワではないのです、普段は船で欧州と日本を行き来しているのですが、今回は急ぎのためシベリア鉄道を使っています」
「行き来? 何度も欧州へ行かれたことがあるのですか?」
「あ、はい、ワークの関係で。米国へも行きました」
「それはすばらしい、私は日本へは行ったことがないのですが、日本の女性は実に行動的なのですね」
「あ、いえ、私は多分特別かと・・・」
「それは、何を読んでいるのですか?」
「日本の科学者、中谷宇吉郎という人が書いた随筆です。『冬の華』といいます」
「ほう、科学者?」
「はい、私の前のボスで、一週間くらい前までこの人のラボにいました」
「失礼ですが、学生さんですか?」
「いいえ、私は実験技術者です」
「研究内容を伺っても?」
「雪の結晶の研究をしていました」
「ほお」
「中谷は、多分あなたと同じくらいの年齢の科学者です。1932年に日本の大学の教授に就任し、そこが北海道という日本の中ではとても寒いところだったのをきっかけにして雪の研究を始めました」
「なるほど」
「当初は、雪の結晶を顕微鏡で観察していくつかの構造に分類する研究を行っていました。結局、40種類以上に分かれてしまって、あまり明確な構造分類にはならなかったのですが、顕微鏡で観察する雪の結晶は何よりも美しく、そしてはかなくて、私自身も魅了されました」
「アカネさんのご専門もそちら方面ですか?」
「私は、特別どこの研究機関にも属していない実験技術者ですので、専門なんてあってないようなものです。今までいろいろな研究に携わりました。いろいろな物の顕微鏡観察もしましたし、化学実験もしました。そういえば、空を飛ぶ機械の理論解析を行ったこともありました」
「それはまた経験豊富な」
しまった、しゃべり過ぎただろうか・・・緊張するとしゃべりすぎるのは私の悪い癖だ。
「あ、話を雪に戻します。最初は雪の分類だけをひたすら行っていたのですが、上空の気候と雪の結晶に関係があるのではないかと中谷は思いついたのです」
「それは興味深い」
「一昨年のことですが、低温実験室で雪の結晶を作り出すことに成功しました」
「なんと! それは天然の雪と同じ形をしていたのですか?」
「最初のうちは天然の雪のような結晶はできなかったのですが、水を凝結させる条件を工夫することで天然の雪と同じ結晶を得ることができるようになりました」
「なるほど」
「低温条件をいろいろ変えながら人工雪の結晶の変化を観察して作り出したのが・・・」
私は『冬の華』の最後のページに四つに折りたたんである紙片を広げた。
「昨年、学会誌に発表した『中谷ダイヤグラム』です」
「これは見事ですね、横軸が気温、縦軸が湿度ですか、その中にさまざまな雪の結晶の図がプロットしてあるのですね」
「ご理解の通りの図です」
「私も放射状の美しい雪の結晶の写真を見たことがあるのですが、あのような結晶は気温がマイナス20度で湿度が高い場合にだけできるのですね」
「ええ、そのような法則を発見しました」
真っ暗な雪原を疾走する長距離列車の中という雰囲気に酔ったのだろうか、ついつい饒舌になって、私は、後にとても有名な研究者になるガモフに講義をしてしまった。
シベリア鉄道二日目。
「ここはどこなのでしょうね?」
もちろん私もガモフもそれぞれ地図は持っているのだけれども、窓の外は何も目印になるような物はない真っ白な世界だった。私のバッグの中のスマートホンは動作していたけれども、この時代にはまだGPS衛星は打ち上げられていなかった・・・。もちろん表示は「圏外」だ。数時間走ると駅に停車し、また数時間走るを繰り返すのだけれども、そこが何駅だかさっぱりわからないので、乗車二日目にして私もガモフさえも自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
停車する駅ごとに物売りの子供やオバさんたちが列車を待ち受けている。乗車前に駅前の百貨店で食べ物を調達したのだけれども、それも必要なかったのかもしれない。まぁ、何かわからないものを食べてお腹を壊すのはかなわないので、閉じた窓越しに営業をかける人たちを眺めているだけにした。この車両が金持ちの乗る上等車だと知っているようで、営業活動も特に熱心だ。
ガモフは
「ちょっと見てきます」
といってヒョイヒョイと列車を降りていった。物売りと何やら話をしているガモフの姿が窓越しに見える。大げさな身振り手振りで何やら交渉のようなことをしている。値切りだろうか。なんだか大きなオレンジのような物を買って戻ってきた。
「アカネさん、1個分の値段で1個おまけしてくれましたよ。ふむ・・・これはオレンジの一種でこの地方の特産品のようです。私の育ったウクライナにはない品種ですね。食べてみましょう」
1個を私に差し出して、残りの1個のオレンジのお尻の方からバリバリと皮をむき始めた。私も同じようにしてみる。
「おいしいです」
「うん、これはいいですね、しかし、よく冷えている」
「本当に」
オレンジを頬張りながら
「朝ごはん来ませんねえ」
「この列車はどういうタイミングで食事が出るのでしょうね」
などとやっていると、変な時間にウエイターが料理を運んできた。朝食か昼食かわからないこの食事はマッシュポテトとチキンだった。食べかけのオレンジと一緒に食べると良く合う。おいしく頂く。
食べ終わって、私は『冬の華』を開く。
ガモフは何やらノートに書き付けているようだった。
「ガモフさん、それは研究アイディアですか」
「そうです、そうだ・・・アカネさんは宇宙に興味はありますか?」
「もちろんです、天文台で働いたことはないのですけれども、星空を見上げるのは大好きです。私の視界に入っている星々のきっとどれかには、私と同じような人がいてこっちを見上げてるんだろうな、って思うとワクワクします」
「それどころか、私たちがシベリアを列車で旅しているように、星々の間を列車で旅している人もいるかも知れませんね」
「なんてロマンティックな」
列車はスタタン、スタタンと軽快なリズムを刻む
「ところで、宇宙は膨張しているというロマンティックな説をご存じですか?」
「たしか・・・ガモフさんと同じこの国の・・・」
「そう、アレクサンドル・フリードマンですね。フリードマンは、一様等方の宇宙についてのアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論の方程式から、宇宙は膨張しているかもしれないことを導き出しました。我が国の誇りです」
「そして、ベルギーの天文学者ジョルジュ・ルメートル」
「とくれば、お次は・・・」
「エドウィン・ハッブル」
「エドウィン・ハッブル」
思わずハモってしまって笑った。
「それほどの知識がおありならば、私がこうして手帳に書き留めているものは、もうアカネさんに説明の必要は無いものかも知れませんが」
「いえ、私はシロウトです、ぜひガモフさんの研究をお聞きしたいです」
「私もまだ勉強中の身なので、その知識の範囲内ですが・・・」
と前置きしてガモフは語り始めた。
「ハッブルは夜空に浮かぶ光の雲のような星雲という天体のいくつかは、私たちの銀河の外側にある天体であることを発見しました。日本からもアンドロメダ星雲を見ることはできますか?」
「はい、よく見えます」
「そうですか、そのアンドロメダ星雲も実は私たちの宇宙、銀河の外側にあって、私たちの銀河と同じようなものであることを発見したのです。つまり、アンドロメダ星雲は、アンドロメダ銀河と呼ぶべきものだったのです。これを発表したのは1924年のことでした」
「はい」
「アカネさんは、光のスペクトルはおわかりですか?」
「はい、横軸を波長、縦軸を光の強さとしたものですね」
「そうです、ハッブルはそのような銀河の外にある星雲のスペクトルを測定することに成功しました。その結果、銀河の外にある星雲のスペクトルは波長の長い方、赤い方へ偏移していることを発見しました。銀河や銀河の外の星雲には、明るくなったり暗くなったりする変光星があります。変光星の中でも特にセファイド変光星と呼ばれる星は、変光周期と損星の本当の明るさの間に関係があることがわかっています。従って、星雲の中にセファイド変光星を見つけ出し、その変光周期を観測すれば、その星の真の明るさがわかるのです。真の明るさがわかれば、地球から観測した時の見かけの明るさとの容易な関係式から、そのセファイド変光星までの距離を正確に算出することができます」
「はい」
と、そこへ食事が運ばれてきた。
「これは一日のうちの何の食事でしょう」
私は右から左からその料理を眺める。
「ちょっとよくわからないですが、おいしそうな野菜と肉の煮物です、頂きましょう」
ガモフは、乾いたパンを一口大にちぎり、「野菜と肉の煮物」のスープに浸して食べ始めた。
(なるほど、そうするのか・・・)
私もガモフと同じようにする。スープの味が薄いので、水で流し込むのとあまり変わらなかった。ガモフはスープと一緒にテーブルに載っている瓶の塩を振りかけ、振りかけ食べている。そりゃ塩分の取り過ぎだ・・・。
「1929年に・・・」
ガモフは口の中のパンが見えている。
「はい」
「1929年にハッブルは共同研究者らと共に、星雲の中にあるセファイド変光星を観測し、星雲のスペクトルの長い側への偏移と距離の関係式を導き出しました。スペクトルが波長の長い方にずれているということは、その星が地球から遠ざかっていることを意味しています。なぜならば、星が遠ざかる動きをすることによって、光が引き延ばされるからです。その結果、驚くべきことに、私たちの銀河から銀河の外にある別の銀河までの距離が大きくなるほど、互いに離れる相対速度が距離に比例して大きくなることがわかったのです!」
私はパンを片手に身を乗り出す。
「それで?」
「これはハッブルの法則と呼ばれ、500キロメートル/秒/メガパーセクという値をとります」
「パーセク」
「星と星の間の距離の単位です」
「別の単位で言うとどのくらい?」
「約3光年です」
「ということは、3メガ光年離れている場所にある星雲は、毎秒、500キロメートルで私たちから遠ざかっている、という意味ですか?」
「そういうことになりますね」
「それって、すごいスピードじゃないですか?」
「宇宙の広さはよくわかりませんが、おそらく、宇宙の広さからすれば秒速500キロメートルなどたいしたことないということなのでしょう」
なるほど・・・
「ところでアカネさん」
「はい」
「これまでの話から不思議に思うことはありませんか?」
わたしもついに、料理に塩を振る。
「銀河と星雲がそうやってすごいスピードで遠ざかっているのなら、未来の宇宙はどうなってしまうのだろう、とは思いませんか?」
私は瓶を振り振り私なりに答える。
「それはたぶん、銀河と銀河の間のすき間がどんどん広がって宇宙は希薄になってしまうのでしょうね」
「なるほど」
野菜と肉の煮物はちょっと食べられる味になった。なるほど、こうして食べるのか、というか、塩と思っていたこれはなんだろう??? これがディル・・・なのかな?
「逆はもっと面白いと思いませんか? 私はアカネさんが今思いついたことの逆を考えているのです」
「逆というと、宇宙の時間を遡るという意味ですか?」
「その通り。宇宙の時間を遡れば、いろいろなことがわかりますし、いろいろな新たな謎が出てきます。私はそれらについて思いを巡らせて、疑問点とアイディアを手帳に書き留めていたのです」
二日目の夜は更けていった。
シベリア鉄道三日目
駅ごとの停車時間が長い・・・、どうせ乗り降りする人はいないのだから、日本の特急列車みたいに数分で発車しろよ、と思うのだけれども、駅に停車するたびにいつまでも停まっている・・・この停車を数時間ごとにするのだから、終点まで向かう私としてはたまったものではないが、それは諦めるしかなかった。
ガモフはさほど気にしている雰囲気ではない。ガモフもシベリア鉄道に乗り通すのは初めてだと言っていたので、ソ連国鉄はどこでもこういうものなのだろう。
ガタンと大きく揺れて、列車が動き始めるとまもなく、車内販売がやってきた。さっきの駅で乗り込んだ行商人だろうか。この列車には車内販売もあることを知って、重い荷物を百貨店から買ってきた私の苦労はなんだったのだろうと思う。今部屋をノックしているおばさまはドリンクを売りたいようなので、ボトル入りのジュースやフルーツの入ったバスケットからアップルジュースを抜き取り代金を払う、「これはどうか」とオレンジを差し出すが、とりあえずお断りした。
ガモフは散々物色して結局何も買わなかった。ガモフは私にはわかりやすい英語で話すが、車掌や物売りとは早口のロシア語で話す。私もロシア語はできるつもりでいたのだが、何を言っているかわからない部分の方が多い。ウクライナなまりというものがあるのだろうか。
「アカネさん、昨日の話ですが、宇宙の時間を遡ると、わかることと、わからなくなること、わかりましたか?」
「わかることは、宇宙の年齢」
「なるほど、それも正解ですね」
「わからなくなることは・・・なんでしょう?」
「アカネさんは宇宙の年齢と言いましたが、年齢0歳の時の宇宙はどんなだったと思いますか?」
「銀河と星雲がたぶん、すき間無く、ぎっしりと詰まっていたのではないでしょうか? 雪の結晶がギュッと集まって雪だるまになるような感じで」
「はたしてそうでしょうか? 私はそこに疑問を持っているのです」
「だってそれ以上小さくなりようがない気が」
「であれば、宇宙はそのような、銀河が密集した状態からスタートした、と?」
「ああ、そうか、近づきすぎると斥力が働くと思うので・・・んんん?」
「いい線をいっていると思いますよ」
「斥力が働くので反発して膨張する・・・でも、それではどこが宇宙の誕生になるのでしょう」
「そこです。アカネさんの今の考えは膨張収縮を無限に繰り返す宇宙として、宇宙誕生を説明することができますが、そうすると今の銀河同士の距離はやがて近づき始めなければなりません。そのために必要な力を説明することは今のところ不可能です」
「宇宙が膨張と収縮を繰り返すためには、ある段階で斥力に対抗しうるだけの引力が働くことが必要。引力は二つの物体の間に働く相互作用で、物体同士が近いほど強力なので、銀河同士が遠ざかってしまうことは引力を弱めることになってしまう」
「そうです、それは問題です。大問題ですが、銀河同士が離れるほど強く作用し始める新しい種類の引力を探し出そうと真剣に考えている天文学者もいます」
「でもちょっとピンときませんね、宇宙の果てには壁のような構造体があって、ある程度遠くまで行くと、星雲はその壁との間で斥力を生じさせ、戻ってくるのでしょうか?」
「すばらしい、それで一本論文が書けそうです」
「ありがとうございます・・・」
「でも、超高速で移動する銀河を押し戻すほど巨大な斥力を発揮する宇宙の果ての壁とはどんなものでしょう?」
「う~ん・・・」
シベリア鉄道四日目
ガモフはノートにたくさんの数字を書いて何か難しい計算をしているようだった。
私はというと・・・さすがにお風呂に入りたい。いや、せめて髪を洗いたい。車内を巡回してきたかの女性車掌さんをつかまえた
「髪を洗いたいのですが」
車掌さんは私の長い髪をシゲシゲと見て
「洗うことはできますが、お勧めできません」
「どういうことですか?」
「列車の中では、トイレの蛇口をシャワーホースに交換して髪を洗うのです」
「???」
何を言っているのかよくわからなかったのだけれども、車掌さんが「こっちへこいと手招きしているのでついていくと、トイレの掃除用具入れのような戸棚を開けて、中からホースをとりだし、それをトイレの手洗いの蛇口につないで、自分の頭で髪を洗う仕草をした。
「これでもいいですか? その長い髪を洗うのは苦労されると思いますが」
と問われたので、この髪のねとねと具合と、洗ってもあまりきれいにならないだろう洗髪作業を天秤にかけた
「ちょっと考えます」
「わかりました、いつでも声をかけて下さい」
そういって車掌さんはホースを収納して鍵をかけ、そのまま巡回に言ってしまった。私はスゴスゴと自分のコンパートメントに戻ることにした。
しばらくすると、さっきの車掌さんがコンパートメントのドアをノックする。
「洗髪はどうしますか?」
「すいません、結構です」
「わかりました、必要なときに声をかけて下さい」
そう言って、立ち去ろうとする車掌さんを呼び止め、急いでバッグから地図を取り出して広げ、今自分がどこにいるのか尋ねた。ガモフも一緒に地図をのぞき込む。車掌はしばらく線路を指でたどって、ある地点で「トントン」と地図を二度つついた。どうやら今、バイカル湖付近を走行しているらしかった。バイカル湖はモンゴルの国境に近い湖で、日本の本州を一回り痩せさせたような形をした広大な湖だ。
「モスクワはまだまだ遠いわね」
と日本語で口にした私に、車掌さんは、私が言いたいことの意味を理解したのか、ニコリと微笑んで隣の車両へと消えていった。
余談ではあるが、どうもこの車掌さん、駅が近づくと各車両のトイレのドアに鍵をかけて回っているらしい法則を私は見いだした・・・車掌さんはタイヘンだ。
車掌さんとのやりとりの四半時くらいの後、何かよくわからない駅に停車した。例によって、物売りが列車に集まってくる。どうやら魚の燻製を売っているようだった。
バイカル湖は湖とは言っても、日本で最大の湖、琵琶湖が単なる小さな水たまりに思えてしまうほど広大だ。瀬戸内海と比べてさえ遙かに広い。きっと、豊富な水産資源があるんだろう、と思い、まだ日本を懐かしむほど日数は立っていなかったが、魚の燻製を一匹購入し、相変わらず全く変化のない景色を眺めながらかじった。
気がつくといつの間にか、ガモフも私と似たような燻製を買っており、それをかじりながら相変わらず難しそうな計算式を解いていた。私はガモフが集中しているらしいときは声をかけまいと思い、燻製相手に宇宙の果てにある斥力を発生させる壁に思いをはせていた。
次の停車駅は珍しくホームに駅名が書かれており、自分の居場所が把握できた。イルクーツク。シベリア鉄道のちょうど中間点だった。多くの旅客が列車をあとにするのが見えた。イルクーツクでは、1時間くらいの停車時間があり、ここで下車しない乗客も狭い車内から解放されて外に出ていたが、私は元々、狭い実験室で四六時中過ごすのが常なので、ベッドまで用意されたこのコンパートメントは今ではとても快適で、列車を降りたとしても市内見物ができるほどの時間は無いし、定刻よりも前に発車して取り残されては目も当てられないので、慎重を期して車内で過ごした。
シベリア鉄道五日目
ソビエト人の乗客は駅に停車するたびに、大勢が物売りに群がっていたが、私は食べるものも車内にたっぷりあるし、売っている物の大半が何やらよくわからない、そのまま食べられる物かどうかも英語の話せるガモフに教えてもらわなければならない有様だったので、車窓からそれを眺めて過ごしていた。『冬の華』はまだ最後までたどり着けていなかったが、いつの間にか、ベッドサイドの小さなテーブルでページを開いて伏せたままになっていた。
今日はかの車掌さんがコンパートメントを掃除するというので、私とガモフは通路の窓辺に立ちのきを余儀なくされた。
「私はね、アカネさん」
「はい」
「宇宙には明確な始まりがあると思うのです」
「膨張と収縮を繰り返すのではなく?」
「そうです」
私はもう一度、たくさんの星雲が一カ所に集まる姿を想像した。宇宙はその形でどこからか出てきたというのだろうか、赤ちゃんが最初から人間の形をして生まれてくるかのごとく・・・。
「わたしはまず、それがいつだったかの計算をしました。そして、その瞬間はどのようだったかをこの列車に乗っている間に導き出そうと考えました」
「はい」
私たちは車掌の様子を眺めていたが、床の掃除をして、シーツはそのままに形を整えただけで隣の部屋に移ってしまった。どうやら、シーツは終点のモスクワまで一週間これを使い続けるようだ。
「おそらく、引力は宇宙が小さくなるほど強大化するので、斥力は働かないに等しくなるのではないか、それが私が導き出した答えです。宇宙の時間をどんどん遡っていくと、星さえも凝集して、ただ一個の星にまで集まってしまうのではないか・・・と」
「今、夜空にあるたくさんの星々が一カ所に集まって融合してしまう、と?」
「はい。おそらくは、想像もつかないような灼熱地獄だったと思います。そう考えるのが今の膨張宇宙のスタート地点として最も理にかなっています。あまりに高温、高密度で宇宙が誕生したために、そこから一気に破裂するようにして宇宙は膨張を始めたのでしょう」
「破裂するように膨張を開始した宇宙・・・」
「はい。私はもう少し整理して、今まで誰も提唱していなかった新しい理論の構築をしたいと思います」
シベリア鉄道六日目
長旅になるだろうと思っていた鉄道旅行も、ガモフと議論をしていればあっという間で、もうモスクワまであと少しだった。今日も、どのタイミング出てくるのかわからない食事を頂きながら、全く変化のない車窓を見ながら、ガモフといろいろなことを議論しながら過ごしていた。ここまで来るとなんだか明日この列車を降りるのがとても残念な気分になる。
いつの間にか停車した駅では、また大勢の乗客が車両から降りて思い思いに過ごしているのが窓越しに見える。アンドロメダ終着駅に近づいたときの銀河鉄道999の旅って、こんな感じなんだろうか・・・と思った。
「ところで、アカネさん、あなたはこの列車を降りてからどうされる予定ですか?」
「私は、ドイツで次のボスが私を待っています」
「そうですか、ではこの列車を降りたらお別れですね、私はベルギーのジョルジュ・ルメートルを訪ねることになっています」
「そこで宇宙の始まりについての議論を?」
「はい。もともとはルメートルに教えを請うつもりでアメリカを出たのですが、この列車の旅でアカネさんにインスパイアされて、私なりの宇宙論ができつつあるように思います。それを、宇宙膨張説を誰よりも早く発表したルメートルとディスカッションしたいのです」
「火の玉からすべてが始まったという宇宙論ですね」
「そうです。ルメートルが7年前に発表した、『特異点』から宇宙は始まったとする『Cosmic Eggの爆発理論』と私のアイディアはこの列車の中で完全に一致しました。それだけではありません、私はそれを観測で確認する方法を思いついたのです」
「宇宙の始まり、時間を遡ってそれを確認することができる・・・と?」
「はい、私たちは、ルメートルがいうところの『Cosmic Egg』すなわち宇宙卵のなれの果てに住んでいると考えて下さい」
「はい」
「宇宙卵が誕生したときそれは灼熱地獄でした。あるとき、そのきっかけが何なのかは私もまだ考えが及んでいないのですが、爆発するように急速に膨張を始めました。それはどんどん、どんどん大きくなります」
ガモフは個室の中で両手を一杯に広げる。
「その内部を想像してみて下さい」
「内部は膨張を始めてある程度大きくなった宇宙でも熱々のはずですね?」
「そうです、それがやがて冷えて、地球のような快適な惑星も存在することができるようになるのです」
「なるほど」
「アカネさんが言うところの、『熱々』の膨張した宇宙がさらにどんどん膨張すると、その温度は下がっていくわけです。そして今の冷たい宇宙にたどり着きます。私はそれに150億年ぐらいかかっていると計算しました。残念なことに150億年という数字にたどり着いたのはつい先ほどのことでしたので、その計算式をアカネさんに説明する時間はなくなってしまいました。非常に残念なことです」
「いえ、きっといつか、論文で拝見できると思います」
「はい。ところでアカネさん、熱々宇宙を満たしていた熱はどこに行ったのでしょうか?」
「・・・星々として、恒星として封じ込められた、のでしょうか?」
「はい、それも正解の一つです」
「というと?」
「私は思うのです、熱々の宇宙のいたるところで恒星が誕生した。でも、恒星と恒星のすき間には、依然として熱さをある程度保った何かが満たされていたのではないか・・・と。宇宙には太陽のような星があり、太陽系には地球のような惑星があり、地球には月があります。宇宙がそのような階層構造、あるいはグラデーション構造を持っていることは事実なので、であれば、熱々宇宙は「恒星」か「無」かのオールかナッシングかではなく、その中間的な温度、状態を持つ何かで満たされていたのではないか・・・と」
「つまり、熱々宇宙の温度にはムラがあったかもしれない、と」
「かもしれない、ではなく、私はこの数日でそれを確信しました。いいですか!アカネさん」
ガモフの言葉はより一層熱を帯びてきた。
「最初は、こんなちっちゃかった宇宙卵」
ガモフは人差し指を親指に重ねてわっかを作って私に示す。
「これくらいに大きくなって」
ガモフは両手を肩幅ほどに広げる。
「この宇宙は熱々宇宙で、恒星もできています。恒星と恒星のすき間は、恒星ほどではないにしてもある程度の熱さを持った何かで満たされています」
「はい」
「それが、ぐんっと大きくなる」
ガモフは両手を一気に広げる。
「そうすると!」
どうやら話はクライマックスを迎えているようだ。
「宇宙を満たしている、ある程度熱い空間は、宇宙の膨張と共に希釈され、温度が下がっていきます。でも私は!! 150億年をかけて宇宙が今の大きさに膨張しても、空間にはわずかな余熱、残り火、そういったものが残っているのではないか! 熱々宇宙で恒星と恒星の間を満たしていた、熱い何かは、宇宙の膨張で温度は下がってしまったものの、今もこの宇宙を満たしているのではないか!! そう思うのです! どうですか!! アカネさん」
「つまり」
「つまり? アカネさんの意見が聞きたい」
「つまり、宇宙空間の温度を測れば、その温度計は何度かの温度を示す?」
「そのとおりです、地球は、本当に低い温度ではあるけれど、宇宙全体を満たす弱い熱を持った何かの中に浮かんでいるのです」
私が続ける。
「夜空を見上げると、星々の間から宇宙が熱々だった頃の残り火、余熱が星々が発する光に混じって満ちている・・・それはまるで、宇宙の背景のようですね」
「そうです、アカネさんはこのシベリア鉄道での旅の最初に、宇宙の果ての「壁」の話を私にしてくれましたよね、それで私はひらめいたのです。宇宙が火の玉から始まって膨張したのであれば、きっと、私たちから見れば宇宙の果ての壁は、この宇宙を満たす低い温度の空間なのではないか!!と。私はこれに『宇宙背景放射』と名付けたい!!」
「宇宙背景放射・・・ぴったりなネーミングですね。地球が温度何度の宇宙背景放射の満たされた中にあるのかも計算できたのですか?」
「だいたいは・・・5ケルビンと見積もりました」
「5ケルビン・・・それは、ほぼ絶対零度だといっているようなものですね?」
「はい。したがって、この私の考えを観測で証明することが残念なことにできないのです。宇宙に望遠鏡を向けて5ケルビンの宇宙背景放射の温度を観測するなんて、ソビエト国立交響楽団がショスタコーヴィチの《交響曲第3番「メーデー」》の最も盛り上がっているところを演奏している最中に、会場の隅っこにいる一匹のアリの足音を聞き取ろうとするようなものです・・・不可能です」
シベリア鉄道七日目
船の旅に比べれば、慌ただしく、不規則で、窮屈で、一等寝台といえども大きく揺れて騒音もするベッドで夜も十分に眠れない、そんな一週間だったが、ガモフとの宇宙議論は私にとって、ロマンティックを通り越して、とてもエキサイティングなものだった。いよいよ次の停車駅が終着駅、モスクワのヤロスラブリ駅だ。
「宇宙ってとてもエキサイティングですね」
「そして同時にロマンティックなものでもあります」
私とガモフはそれぞれ自分の荷物はすでにまとめ、今は互いに真正面に向き合って座っていた。
【つづく】




