プロローグ
ヴィス・クロットは、まだみんなが寝ている時間にそっと立ち上がり、静かに息を吐いた。
日が昇るまえの冷たい空気が白くなり、そして、とけて見えなくなる。
細い両腕を天井にむけて突きだし、大きな伸びをすると、わき腹に刺すような寒気がまとわりついた。ヴィスはそのままの姿勢で、目を閉じ、精神を集中させた。
鳥の鳴き声もまだ聞こえない黎明。聞こえるのは、ときおり、寝返りをうつ相部屋の客の寝言くらいだった。
ヴィスはゆっくりと目を開き、今度は床に腰をおろした。置いてあった麻袋に手をいれ、一掴みの骨を取り出すと、広げてあった羊皮紙の上にばら撒いた。
「あっ」
ヴィスは、散らばった骨の状態を見て、思わず声を漏らした。
彼の骨占いは、いままでに見たこともないような凶相(悪いことが起こる前兆)を示していた。それこそ人の生き死に関わるような凶相だった。
ヴィスは眉をひそめながら、唇を噛んだ。
これは一体……。
唇を噛んだまま、ヴィスは考えた。
占師は、自分に関することを占ってはいけない。ヴィスもその禁忌についてはよく知っている。だから、自分のことを占ったりはしない。
毎朝、彼が占うのは、旅で訪れた町の将来であったり、今年のトウモロコシの収穫高であったり、あと、はた迷惑な話かもしれないが、相部屋になった客の運勢だったりした。
だが、今朝にかぎって大物の運勢を占った。
大物の名はリューベル・ケーナバルト二世。
隣国ケーナバルトの王だった。
幼くして王位に就いたケーナバルト二世は穏やかな性格で情に厚く、文武両道の賢君として有名だった。ヴィスは旅先で王のいろいろな噂を耳にするうち、自分と年齢の近い王に強い尊敬と羨望の気持ちを持つようになっていた。だから、王の吉相(良いことが起こる前兆)を占い、その繁栄を知ろうとした。
それが、まさかこんなことになろうとは。
いますぐ、知らせに行くべきだろう。しかし――。
ヴィスは胸の鼓動が早くなるのを感じながら、ためらった。
ケーナバルトにむかったとして、はたして、話を信じてくれるだろうか。
骨ははっきりと凶相を表している。だが、それがどんな結末を示しているのか具体的にはわからなかった。なにに気をつければよいのか、なにが災いするのか、この骨の配置からでは読み取れなかった。雲をつかむような話だ。誰が信じてくれるだろう。
ヴィスは考えを振り払うように、大きく頭をふった。
いや、弱気になってはダメだ。悪いことが起こるとわかっていて、知らせに行かないのなら、そもそも占うことに何の意味もない。それでは忌み嫌う師匠と同じだ。
ヴィスは故郷のファーフェイトが滅びたときのことを思い出した。隣国の騎馬軍が攻めてくることを占っておきながら、なにもしようとしなかった師匠の顔が脳裏をよぎる。
逃げのびたあと、師匠は得意げにこういった。
「どうだ、占ったとおりになっただろう」
あのときの言葉は一生忘れることができない。
だから、なんだというんだ。
その占いの結果通り、生き残った者たちは散り散りになり、流浪の民になってしまった。あのとき、もっと強く運命にあらがっていれば、あるいはちがう結果が出ていたかもしれない。故郷の運命よりも占い師のプライドを守った師匠。ヴィスはそんな師匠の対極にいたかった。同じ占いの世界に身を置くにせよ、ちがう道を歩みたかった。
突然、相部屋の宿泊客が大きく寝返りを打った。ヴィスは大袈裟に反応し、反射的に身構えた。相部屋の男は、むにゃむにゃと寝言にならない呪文を唱え、また深い眠りの世界へと戻っていった。ヴィスはゆっくりとため息をついた。それから、すぐに骨をかき集め、羊皮紙を折りたたんだ。物音を立てないよう気を遣い、そして、そのまま宿を出た。
隣国といっても、ケーナバルトまではかなり遠い。いまから急いだところで、はたして間に合うのかどうかさえ、疑問だった。
だが、ヴィスは足早に歩きだしていた。