第10話
「熱の訳なんて知らないわよ」
「嘘つけ」
自覚がないなら嘘じゃない。
でも、蒼は唇をぐっと噛んだ。
不満げだ。
私は、知らないは嘘だと判断した。
だったらこじ開けるしかない。
蒼の腕を掴んだまま、もう片方の手で唇の下をくいっと持ち上げる。
すると蒼も負けじと、同じように私の口元を掴んできた。
――その構図を、もし第三者が見たら。
「「「鬱姫様が、公衆の面前で熱い口付けをなさるおつもりよー!!」」」
「は?」
きゃーきゃーと黄色い歓声が四方八方から飛ぶ。
花びらまみれの傘が、花嫁のブーケみたいに見えた。
頭から熱湯と氷水を同時に浴びせられたみたいな衝撃。
しかも実際、蒼の唇の近くは腕よりもっと温かい。
柔らかそうな唇なんて、きっともっと熱い。
こんな大勢の前で、初対面の相手とキスなんてしたら沸騰して死ぬ。
……いや。
実際には寒さの方が圧倒的に勝っていた。
本当は男の子なのに鬱姫様と連呼されて、初対面の相手と公衆の面前でキスとか、常識外にもほどがある。
「鬱い……」
手が滑り落ちる。
猛吹雪みたいなため息が漏れる。
しかもそれが、二つ重なった。
「って、蒼もため息?」
「初めてのキスは綺麗な夜景が見える公園がいいの」
「…………」
場所の問題かよ。
相手は誰でもいいのかよ、このエセ鬱人め。
と、私が思ったのとは裏腹に、周囲の反応はさらに加速していた。
「きゃ――! 鬱姫様のお相手もまさかの鬱姫様よー!」
「史上最強のカップルだー!」
「三角関係でいいから俺とも結婚してくれ――!」
「嫌よ!?」
思わず知らない誰かに返してしまう。
するとそいつは振られたことすら喜んで万歳し、蒼はお腹を抱えて笑い出した。
「あはははははっ! まさか、あたしも鬱い子になれていたなんて!」
「鬱い子になれて喜ぶなんて、おかしいんだからね!?」
「何言ってるの? この世で一番の魅力は、鬱、よ」
そう言った蒼の表情が、急速に曇る。
もともと雪みたいに儚い雰囲気だったのに、今にも溶けて消えそうだった。
その瞬間、私は初めて強く意識した。
蒼も、自分と同じ“鬱人”なのだと。
「きゅん!」
謎の音がした。
「……は?」
目を丸くする。
ぎゅるん、と勢いよく一回転して辺りを見回す。
でも周囲は拍手と歓声と好きの連呼ばかり。
恋を予感させるような音なんて、どこにもない。
「その反応、とっても可愛い鬱姫ちゃんね!」
「か、可愛い鬱姫ちゃん!?」
「ふりふりセーラー服の女の子が、本当はアレだと思うと余計に可愛いわ!」
蒼が間近で、にんまり笑う。
やばい。
こいつ本当にやばい。
本当の性別も、罪も知っている、最悪にいたずらな死神だ。
「えいっ」
「きゃっ!」
脇腹を指で突かれた瞬間、私の口から誰が聞いても乙女みたいな声が飛び出した。
「あはははははっ!」
「ふぬぬぬぬぬっ! 蒼も幽霊ならもっと危機感を持ちなさいよ!」
「信じちゃうなんて、どれだけ純粋なのよ! 嘘に決まってるじゃない!」
「はあ!? 嘘って――」
そんなはずがない。
この世で二番目の罪は虚言じゃなくて、幽霊だ。
それに蒼はさっき、確かに“鬱い顔”をしていた。
あれは罪を抱えている者にしかできない顔だと、私は自分の罪をもって知っている。
「玲音ちゃんは、とってもいい子よね。どの女の子よりも女の子かもしれないし!」
「人目! 人目があるから仕方ないでしょ!?」
私はあちこちを指さそうとして、途中で手を止める。
激しく動いて揺れたスカートを慌てて押さえる。
首元の隙間もぎゅっと閉じる。
実際には上下ともちゃんと着ているし、見える危険なんてほぼない。
なのに、体が勝手に過剰防衛に走っていた。
「きゃふ」
蒼が笑いを噛み殺す。
片手で口を押さえながら、もう片方の手はしっかり私の“恥じらいポイント”を指していた。
「ち、違う! 絶対違うから!」
慌てて手を離す。
そして余計に墓穴を掘る。
自然な動作を装って髪をかき上げたつもりが、まさかの小指だけぴんと立っていた。
「あはっ、あはははははははっ!」
私だって笑って済ませられるなら笑いたい。
でも、純な鬱人には無理だった。
「って、純な鬱人って何なのよ……」
目は死んでいた。
心もほとんど闇色だ。
だから、もう仕方ない。
「きゃああ!?」
悲鳴を上げたのは蒼だった。
私は両腕で、無理やり蒼を抱き上げていた。
「ええ!? お、お姫様抱っこ!?」
「それをする者は男! される者は女! それが世の理よ!」
なぜか確信があった。
別にお姫様抱っこに憧れるような女の子じゃない。
絶対に違う。
……たぶん。
「あたしの人生で初めての……きゅん!」
またあの音がした。
やっぱり出所は蒼なのだろうか。
でも、それより大事なのは別だ。
もし抱えられているのが自分なら、胸元なんて絶対に掴めない。
首に腕を回して、ぎゅっとしがみついて、目だって閉じるはずだ。
つまり。
私は男の子だ。
そう思いたい。
強く。
必死に。
だから私は、祝福の歓声と拍手の中を駆け出した。
青と赤の贈り物なんて目にも入らない。
視線を落とせば、見えるのは大嫌いな青い瞳。
温かな霊温も嫌い。
胸元を遠慮なく掴むその手も嫌い。
――でも。
すぐに目を逸らしても。
体を離すことだけは、しなかった。
腕を掴んで逃げた時よりも、今の方が少しだけ近い。
ほんの少しだけ。
でも確かに、その距離は縮まっていた。




