第三話 不可解の混じり合い
巫女装束に着替えを終えた結月は、叔母から渡された絶縁状を広げ、静かに目を落としていた。
墨が滲んでいるそれを見て、ただ淡々と思う。
──今更こんなもの、いらないのに……。
両親を亡くしてからの五年間。
その暮らしの中に家族の温もりなど、とうに存在していなかった。
必要以上に蔑まれ、時には空気のように扱われる日々。
だからこそ、絶縁状を手にしたところで驚きも悲しみもない。
ただ、形として残したかったのだろう。
『忌み子とはこの先何があっても何の関係もありません。責任取りません。赤の他人です』という、何よりの証拠になるのだから。
そんな現実を叩きつけられても、もう涙さえ出なかった。
悲しいとか、苦しいとか、そんな感情はもうすでに枯れていたのだ。
ふと、式神の気配を感じ取った。
思わず顔を上げ、その気配がする方へと視線を向ける。
そこには、青白く輝く蝶がひらひらと舞っていた。
──誰の式神? 紫明野家にこんなに綺麗な式神を使う人、いた?
音もなく羽ばたいている蝶に一瞬見入ってしまったが、どこかでじっと見られているような気がして、次第に不安が膨らんでいった。
──私を見ないで……。
そんな思いが強く心に浮かんだ瞬間、蝶はまるで泡が弾けるように消えてしまった。
──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──
暁生は目を閉じたまま、式神越しに景色を見つめていた。
辿り着いた先は、辺鄙な場所に建っている小屋の前だった。
──こんなところに巫女が?
不思議に思いながらも、式神はそのまま小屋の壁を抜ける。
そして、目の前に現れた女性に、思わず視線を奪われた。
絹のように絡みのない銀髪。空を映したかのように透き通っている蒼玉色の瞳に、憂いを帯びている横顔。
どこか儚げで、美しい女性だと素直に感じた。
ただ、疑問も過ぎる。
──この巫女が婚約者? 黒髪じゃないのか?
更に目を凝らし、彼女が手にしている文を覗き込む。
──絶縁状?
そこまで見えた瞬間、彼女がこちらに目を合わせてきた。
心臓が一度、跳ね上がった。
式神が見破られたこと以上に、彼女が顔を上げた瞬間になびいた銀色の髪と、見上げた瞳の綺麗さに、思わず心を奪われてしまったのだ。
その瞬間、式神が消えてしまった。消された、と言った方がいいかもしれない。
瞬時に式神を消すなんて、相当な神力の持ち主だろう。
それに、婚約を迎える日に絶縁状とは不可解すぎる。彼女の苦しげで泣きそうな顔には、何か深い理由があるはずだ。
その理由を、知りたくなった。
「藤仁、俺はこの銀髪の巫女と結婚するぞ」
「銀髪? 巫女なのに、ですか?」
目を開けた暁生が意気揚々と言うと、藤仁は怪訝そうな表情で暁生の方をちらりと覗き込こんだ。
「そうだ。綺麗な女性だった。一目惚れした」
「左様ですか。暁生様の一目惚れはこれで何度目ですかね。しかし銀髪の巫女だなんて、聞いたことがありませんよ?」
「俺もない。だから、興味が湧いた」
暁生がそう言い終わった瞬間、正門が開かれた。
ちょうど正午の時刻だった。
「霧生院家の方々、長らくお待ち申し上げておりました。本日は遠路はるばるお越しいただき、心より深く感謝申し上げます」
正門の前で腰を折ったのは、この屋敷の当主、宗一郎。
五十代半ばにして、風格と威厳がにじみ出ている人物だ。
白髪交じりの髪を後ろでしっかりとまとめ上げ、黒い着物を身にまとったその姿は、まさに当主としての風格を漂わせていた。
襟元には、金の糸で緻密に刺繍された家紋が輝いている。
三つ巴紋の上に、菊の花。その家紋が紫明野家の象徴であった。
「とんでもないです。こちらこそ、本日はこのような機会を設けていただき、誠にありがとうございます。素晴らしいご縁に、心より感謝を申し上げます」
宗一郎よりもさらに深く腰を折ったのは藤仁だった。
その挨拶の言葉に無駄なものは一切なく、相手を敬う気持ちがひしひしと伝わってきた。
「そちらにお見えされておりますのが、暁生様でいらっしゃいますか?」
「はい、わたくしが霧生院暁生でございます。この日を待ち望んでおりました。不束者ではございますが、どうぞ本日は何卒よろしくお願い申し上げます」
暁生は胸に手を当て軽く会釈をした。
その所作に乱れはなく、気品ある美しさが感じられる。
彼の顔の横に垂れた髪がさらりと揺れた。
その洗練された立ち振る舞いに、宗一郎と出迎えにいた数人の侍女たちは息を呑み、ため息を漏らす。
「さすがは霧生院家のご嫡男。滅妖師としてのご活躍、予々耳にしております。立ち話もなんですな。どうぞ、お中へお入りください」
暁生は一人の護衛に「馬を見ていてくれ」と指示を出し、見合いの場へは男五人で向かうこととなった。
侍女たちが見合いの場へ案内してくれるとのことだったので、彼女たちの後を追うように暁生は屋敷の中へと歩みを進めた。
「さすがは暁生様。外面の良さは完璧ですね」
手本のように紳士的だった暁生の姿を思い出した藤仁がくすくすと笑い出す。
「だろう? 完璧主義者だからな」
皮肉に乗るように口角を上げながら言い、藤仁を横目で見る。そしてすぐに一息ついた。
「まあ、巫女に会うまでの我慢だ。名はなんというのだろう。あの綺麗な髪、一度触れてみたいものだ」
「珍しいですね。ただの一目惚れで、暁生様がそこまで入れ込んでしまうなんて」
「こんなに胸が騒ぐなんて初めてかもしれん」
「ああ、それはもう五十回くらい耳にしていますから、珍しくともなんともなかったですね」
藤仁は眼鏡を押し上げながら、ふうとため息をついた。
確かに、これまで何度も言ってきた気もするが、今回は本当に初めてだと思った。
銀髪に、たった一瞬で自分の式神を消すほどの力を持つ巫女。そして、どこか孤独を感じさせるその佇まい。
気にならない方が、おかしいだろう。
石畳の道が続いていた。
左右には手入れの行き届いた広大な庭園が広がっている。池の中では鯉が自由に泳ぎ回り、その景色は優雅な美しさを放っていた。
庭園を越え、屋敷の中に足を踏み入れる。
塵一つ見当たらない長い廊下を歩き、いくつもの部屋を通り過ぎた先に辿り着いたのが、見合いの場となる和室だった。
「お待たせいたしました。こちらの中でお待ちになられております」
案内してくれた侍女が襖を静かに開ける。
庭が一望できるその和室は、二十畳ほどの広さを誇り、無駄に広い空間が特別感を漂わせていた。
テーブルは色とりどりの料理で埋め尽くされている。小鉢がいくつも並んでいて、箸をつつくのも一苦労しそうだ。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
襖の前で正座し、頭を下げたのは黒髪をまとめた女性だった。上品な菊の模様が一面に刺繍された赤い着物を着ている。
その後ろでは黒留袖を着た四十代くらいの女性が同じように頭を下げている。おそらく母親だろう。
頭を上げた母親らしき女性は手のひらを綺麗に揃えて上座を示し、「どうぞ、こちらへ」と促した。
暁生は見合い相手の女性と向かい合い、テーブルの中心で正座した。
横には藤仁、対面には母親が座る。護衛たち三人は、後ろで正座をしている。
「お父様も、まもなくお見えになられます。お待たせしてしまい申し訳ございません」
目の前の女性が軽く頭を下げる。
父親、おそらく正門で出迎えてくれたあの男性のことだろう。
「とんでもない。こちらもなにせ父は不在なもので、不躾で申し訳ない」
「いえ、暁生様のお父様も滅妖師を仕切る当主、さぞお忙しいことでしょう。暁生様におかれましても、こうしてお越しいただき誠にありがとうございます」
そう言って、にこりと笑う見合い相手。
赤褐色の瞳が落ち着いた輝きを放ち、十五歳にしては大人びた印象を与える。
それなりに整った顔立ちは、決して悪くはない、が。
──あの銀髪の巫女はどこだ?
周囲を見回してみたが、彼女の気配さえも感じられない。
──彼女が見合い相手、婚約者ではなかったのか?
再び式神を飛ばそうと考えたが、それを察した藤仁が「今はお戯れをする時ではない」と、凄まじい形相で睨んできたため、仕方なく肩を落とした。
ほどなくして、父親が現れる。
「暁生様、遅れてしまい申し訳ない。歳のせいか、最近腰の調子が悪くて。薬を飲んできましたので、もう大丈夫かと」
「お父様! 待ちくたびれましたわ! 早くこちらへ座って!」
圧さえ感じる娘の言い方に、父親は少し戸惑いながらおずおずと空いている座布団に正座をした。
正門での堂々とした姿からは想像もつかないその変化。
ほんの一瞬のやり取りで、紗和が家の中でどれほどの優位を占めているのかが、はっきりと伝わった。
暁生はそれを一目で理解した。
紫明野家は、女性が中心である家系なのだ、と。
役者が揃ったという空気が漂った中、暁生は一切の気負いもなく屈託のない笑顔を浮かべ、口を開く。
「銀髪の巫女は今、どこにいらっしゃいますか?」
その言葉に、三人の顔が一瞬だけ硬直した。
暁生はその微妙な変化を見逃さなかった。