□後編
ズブズブと平成不況のようなネガティブスパイラルに陥っているうちに蛍の光が流れ、窓口のシャッターが閉まってからは、一種のピリピリとした緊張感の中で頭を切り替え、現金や証券の数が記録に合うかどうかの確認を急いだ。
一銭を笑う者は一銭に泣くという言葉が似合うのは、おそらくこの時間だろう。誰かが一円でも勘定違いを起こせば、ミスの原因が判明するまで誰も帰ることが出来ない決まりになっているので、みんな必死だ。過去には、重ねたカルトンの隙間や、キャスター付き引き出しの下から見つかったケースもあり、空腹を抱えて帰宅した記憶がある。
「お疲れ、中越」
「あっ、サブちゃん」
「その名で呼ぶな。先輩だぞ」
「はいはい、長崎大先生様」
膝下丸出しのタイトスカートの制服から、大根足が隠れるパンツルックに着替え、バス停へ向かおうとした矢先に、後ろから白い乗用車を運転する先輩に声を掛けられた。
この先輩は、わたしより一つ年上で、今は主に渉外業務を担当しているが、入庫した当時は窓口業務担当で、高校を卒業したばかりで右も左も分からないわたしに、一から丁寧に社会人としてのイロハを教えてくれた。
ちなみにサブちゃんというのは、よく長話にいらっしゃる地主さんが先輩に付けたあだ名で、本名は三郎という。ネアカで面倒見が良いので、年上からは可愛がられ、年下からは慕われている。ただ、見た目がザ・農家のオジサンといった芋臭さ全開なので、恋愛対象としては見られておらず、また、名前の通り三男で家を継ぐ必要もないため、悠々と独身貴族を続けている。
「送ってくれなくてもいいのに」
「夕方とはいえ、梅雨明けの暑さの中でバスを待つより快適だろうが」
「隣に座るのが、脂ギッシュで汗臭い人物でなければね」
「ケッ。相変わらず、可愛げないな。誕生日だから、夕飯を奢ってやろうと思ったんだけどなぁ」
「えっ、ウソでしょ?」
「いや、ホントだよ。でも、俺が隣にいるのが不快なら、取りやめにしよっかなぁ」
「誰も不快だとは言ってないわよ。連れてって」
「もの足りないな。もっと甘えた感じで懇願してみろよ」
「ぐっ……。おねがい、ながさきせんぱい」
「ぶはっ」
「ちょっと! わたしが恥を忍んでやったっていうのに、なに笑ってんのよ」
「悪い悪い。まさか、ベタなブリッ子ちゃんが来るとは思わなかったものだから、つい。あぁ、苦しい」
朝夕の通勤時間ですら渋滞しないというのに、バブル期に就任した県知事の力量アピールで作られた無駄に広い片側二車線の国道を快走しつつ、車内でフランクな会話を楽しんでいると、県下では有名な和食レストランの看板が見えてきた。隣接している駐車場には、軽トラックやワンボックスカーが何台かと、地元タクシー会社の行灯があるセダンが一台止まっている。
「ようこそ、四十代の世界へ」
「お料理が不味くなるようなことを言わないでよ」
「カカッ。ここまで来たら、もう若くないと認めろよ。楽になるぞ?」
「デリカシーが無いわね。そういうところ、気を付けなさいよ。いくら片田舎だからって……」
「はーい、はいはい。お説教は、そのくらいにしてくれ。俺だって、気の置けない仲でなかったら、そこまでギリギリの冗談を言わないさ」
見た目や所作は洗練さの欠片も無いが、話してみれば引き出しが多くて面白いし、世代も育った地域も近いことから、共通点も多い。だから、長時間お喋りしていても、まったく苦にならない相手ではある。気の置けない仲という主張に、大きな齟齬や誤謬は無い。それに、日々外回りで東奔西走しているせいか、こうしてワイシャツ一枚になると、メタボとは無縁のイイ身体をしていることが見て取れる。
ここまで言うと、そんなに相性が良いのなら、早く結婚すれば良かったのにと思うかもしれない。たしかに、二十年くらい前、ダメンズに逃げられて傷心しているわたしに、今日のように食事をご馳走してくれたことがあって、ほんの一瞬だけ、恋愛対象としてどうかという考えがよぎったことがある。ただ、当時は異性への理想が高かったこともあり、すぐにその考えは打ち消してしまった。我ながら、白馬の王子様を待つシンデレラ気分だったことは、痛々しい限りだ。もしもタイムマシンがあったなら、過去の自分にひとこと「鏡を見ろ」と言ってやりたい。
まぁ、いくら過去を嘆いて、ああしてれば、こうしてたらと言ったところで、別の選択肢の先に居るのは、今ここにいるわたしとは異なる時空軸にいる似て非なるわたしであって、物理学上、時の流れを遡れないことが証明されている以上、現実的に入れ替わることは不可能だから、スッパリ諦めるしかない。おおかた、異性に恵まれない星の子なのだろう。そういうことにしておこう。あぁ。エーティーエムの取り扱いには失敗しないのに、どうして男選びは失敗してしまうのだろう。
「どうした? 小骨でも刺さったか?」
「ううん、ちょっと考え事してただけ」
「なんで男運が無いんだろうってところか?」
「あのね。そういうことは、思ってても口にしないものよ?」
「図星なんだな。シャレオツなカフェひとつ無い片田舎に、そうそう俺みたいな伊達男は転がってないものだぞ」
「……あっ、小骨が刺さった」
「おい、渾身のジョークをスルーするな。あと、そっちの茶碗蒸しに魚は入ってない」
そろそろ長い人生も往路が残り少なくなり、じきに折り返しポストだって見えてくるだろう。この辺で、身の丈に合った無理に背伸びしない恋を体験してみるのもまた一興かもしれない。
烏龍茶の氷が融けたカランという音色が、わたしには新たな恋のはじまりを告げる軽やかな合図に聞こえた。