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天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~MBAホルダー明智光秀の事業承継計画  作者: 東雲 諒杏
第十五章 敵は本能寺にあらず

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エピローグ 連続国家再生家


 文禄五年、十月十五日。坂本城。

 俺は、目を閉じた。

 ――そして、視界に、文字が出た。

 二十年ぶりである。

 いや。

 ――板は、毎日見ていた。誰かの数字が、視界の隅で動いていた。

 そうではない。

 あの声が、文字になって出たのは、二十年ぶりだった。

 【国家経営目標 達成状況を確定します】

  対象組織 織田家

  最終目標 天正十年六月二日の本能寺の変を回避する

  結果 達成

 俺は、その二文字を、長いこと見ていた。

 ――達成。

 二十年、一度も出なかった。

 丸を四角に変えるたびに、数字が二つか三つ動くだけだった。


    ◇


 文字が、続いた。

  副次結果

   救えた者    九名

   救えなかった者 四名

   記録した名   二千八百六十一名

   うち、名の不明な者 十七村ほか

 ――俺は、その最後の行で、目を閉じた。

 十七村。

 詫び状の十一番だ。

 名を数えると言って、数えられなかった。

 上様が「わしがやる」と言われた。

 あの人も、たぶん、途中で死ぬ。

 ――それでも、二千八百六十一は、書いた。


    ◇


   一人依存度 最終値 二十二%

 俺は、その数字を見て、少し笑った。

 ――二十年前は、八十九だった。

 あの日、俺は坂本の床で、円を描いた。

 中心に点を一つ。

 線が全部、そこへ集まっていた。

 二十二である。

 まだ、二割は上様に集まっている。

 ――それでよい。

 零にはならない。

 ならなくてよい。

 あの人がいなくなっても、家が三日で割れなければ、それで足りる。


    ◇


 文字が、続いた。

  本能寺の形 七項目

   崩したる数 七

 ――七。

 説明されぬまま動かされる。

 疲れを言えない。

 約束が記録されていない。

 方針の変更を当人が最後に知る。

 誰が何を決めてよいか書いていない。

 主君と後継者が同じ場所で無防備になる。

 諸将が互いを知らない。

 全部、崩した。

 二十年かかった。

 ――そして、六年で終わると思っていた。


    ◇


 そして、最後の一行が出た。

 【終了しますか】

   はい

   いいえ

 俺は、その二つを、しばらく見ていた。

 ――終了。

 前の世で、俺はこの言葉を何度も書いた。

 『本案件は、これをもって終了とする』

 『引き継ぎ完了後、担当を解く』

 そして、俺は一度も、引き継ぎ資料を作らなかった。

 深夜二時四十七分に、床へ倒れた。

 三十七ページの資料は、誰にも読まれなかった。

 ――今度は、ある。

 百八十七枚。

 総論が一枚。

 目録が、困りごとの順に四十項目。

 そして、いちばん上に、七条目が書いてある。

 ――右の全部を、疑うべし。

 俺は、「はい」を押した。


    ◇


 押した、という感覚はなかった。

 ただ、視界が静かになった。

 二十年、俺の目の隅では、いつも数字が動いていた。

 誰かの疲労。

 誰かの忠誠。

 誰かの限界の申告。

 全部、消えた。

 二十年前の朝、坂本の床で見たあの空白と、同じだった。


    ◇


 そして、声がした。

 ――お疲れさまでした。

 俺は、答えた。

 ――遅い。

 ――申し訳ございません。

 ――二十年だ。

 ――はい。

 ――前も、同じことを言った。

 ――六十四年でございました。

 俺は、少し笑った。

 ――一つ、聞いていいか。

 ――どうぞ。

 俺は、聞いた。

 ――間に合ったか。

 声は、少し黙った。

 そして、答えた。

 ――全部には、間に合っておられませぬ。

 ――知っている。

 ――ですが、幾つかには。

 ――幾つだ。

 ――数え切れませぬ。

 俺は、そこで、笑った。

 ――利三と、同じことを言うな。


    ◇


 文字が、また出た。

 【肩書を更新します】

   一度目 企業再生家    (未達)

   二度目 国家再生家

   三度目 連続国家再生家

 ――俺は、その三行を、長いこと見ていた。

 一度目。

 企業再生家。

 ――未達、と書いてある。

 三十七ページを四度書いて、四度目の途中で死んだ。

 あの十七年は、そう記録されている。

 二度目。

 国家再生家。

 ――蜀だ。

 六十四年で、四角を一つ作った。

 三度目。

 ――連続国家再生家。

 俺は、その言葉を、口の中で転がした。

 (――連続、か)

 前の世で、俺はこういう肩書を何度も見た。

 名刺に刷ってある、意味のよく分からない横文字だ。

 連続起業家、というのもあった。

 会社を作っては売り、また作る。

 俺は、あれを少し馬鹿にしていた。

 ――一つも、続けられない者の言い訳だと思っていた。

 だが、今、俺に貼られているのは、それだ。

 二つの国を通り過ぎた。

 どちらにも、最後まではいなかった。

 蜀は俺が死んだ後も動いた。

 織田家も、たぶん動く。

 (――俺は、どこにも根を張らなかった)

 ――そう考えて、首を振った。

 違う。

 根を張らなかったのではない。

 ――張った根を、置いてきたのだ。

 蜀に、名簿を置いてきた。

 織田家に、百八十七枚を置いてきた。

 どちらも、俺の名では呼ばれない。

 俺は、その三行に、満足した。

 (――悪くない肩書だ)


    ◇


 ――黒瀬直人さま。

 声が、言った。

 ――八十四年前、私はあなたに、こう伺いました。

 ――「あなたは、英雄に依存しない組織を作れますか」

 ――そして、あなたは「当たり前だ」と答えられました。

 ――今は、いかがでしょう。

 俺は、答えた。

 ――一人では、無理だ。

 ――はい。

 ――蜀では十一人でやって、四角一つ分だった。

 ――はい。

 ――織田家では、数えていない。

 ――なにゆえでございますか。

 俺は、答えた。

 ――多すぎた。


    ◇


 少し、間があった。

 声が、言った。

 ――黒瀬さま。

 ――なんだ。

 ――もう一つ、お伝えしなければならないことがございます。

 ――何だ。

 ――二十年前のことです。

 俺は、黙った。

 ――あなたが、この身体で目覚める直前のことです。

 ――……。

 声は、続けた。

 ――明智光秀は、死んではおりませんでした。

 俺は、眉を寄せた。

 ――どういうことだ。

 ――生きることを、放棄しかけておられました。

 湖の音だけがした。

 ――家を背負い。

 妻を背負い。

 子を背負い。

 家臣を背負い。

 主君を背負い。

 戦を背負い。

 己が正しくあらねばならぬという思いまで、背負っておられました。

 そして。

 誰にも弱音を吐けぬまま。

 誰にも助けを求められぬまま。

 とうとう、こう思われた。

 ――もう、自分では、生きられない、と。

 俺は、何も言わなかった。

 声が続いた。

 ――その夜。

 明智光秀は、神に祈られました。

 ――何と。

 ――「もう、私には無理です」と。

 胸の奥が、妙に痛んだ。

 ――そして。

 「誰でもよい。どうか、助けてください」

 ――「妻を」

 ――「子らを」

 ――「家臣を」

 声が、一度、止まった。

 ――「そして、上様を」

 俺は、目を開いた。


    ◇


 夕日の向こうに、琵琶湖があった。

 赤かった。

 俺は、しばらく、その湖を見ていた。

 ――それで。

 俺は聞いた。

 ――俺が選ばれたのか。

 ――はい。

 ――なぜ俺だ。

 ――あなたが、すでに二度、壊れた組織を見ていたからです。

 ――もっと優秀な奴はいなかったのか。

 ――おりました。

 ――いたのか。

 ――はい。

 少し腹が立った。

 ――なら、そいつを寄越せ。

 声は、淡々と答えた。

 ――ですが。

 あなたほど、「一人で何とかしようとして、失敗した者」はおりませんでした。

 俺は黙った。

 それから。

 少し笑った。

 ――なるほど。

 ――はい。

 ――人選としては、正しい。


    ◇


 俺は、ふと聞いた。

 ――では。

 ――はい。

 ――光秀は、どこへ行った。

 声は答えなかった。

 代わりに。

 別の声がした。

 ――ここに、おる。


    ◇


 俺は、動けなかった。

 その声を。

 知っていた。

 知らないはずなのに。

 ずっと、知っていたような気がした。

 煕子を見るとき。

 娘たちを見るとき。

 光慶を見るとき。

 利三を見るとき。

 上様に腹を立てながら。

 それでも見捨てられなかったとき。

 胸の底に。

 いつも何かがあった。

 ――黒瀬殿。

 声が言った。

 俺は、ようやく答えた。

 ――明智……光秀か。

 小さく笑う声がした。

 ――二十年も同じ身体におって、今さらずいぶん他人行儀であるな。


    ◇


 俺は、何も言えなかった。

 光秀が続けた。

 ――私は、ずっと見ておった。

 ――二十年間。

 ――うむ。

 ――最初からか。

 ――最初からだ。

 ――なぜ、何も言わなかった。

 少し間があった。

 ――言えなかった。

 身体を動かすことも。

 声にすることもできなかった。

 ただ。

 見ていた。

 聞いていた。

 感じていた。

 お前が怒れば、私も怒った。

 お前が悲しめば、私も悲しかった。

 お前が迷えば。

 時には、私の迷いも、その中へ混じった。

 俺は、眉を寄せた。

 ――待て。

 ――何だ。

 ――では。

 この二十年、俺が妙に生真面目だったのは。

 光秀が黙った。

 ――……。

 ――お前か。

 ――全部を私のせいにするな。

 俺は、声を上げて笑った。

 二十年で。

 たぶん、一番おかしく笑った。


    ◇


 ――だが。

 光秀は言った。

 ――少しは、私であったと思う。

 ――だろうな。

 ――お前は、もっと割り切る男であった。

 ――自覚はある。

 ――数字で人を見ながら。

 数字の向こうにいる顔を、どうしても忘れなかった。

 ――それは、お前か。

 ――たぶん。

 ――厄介なものを混ぜたな。

 ――すまぬ。

 ――二十年遅い。

 ――そうだな。


    ◇


 しばらく。

 俺たちは笑った。

 同じ身体の中で。

 二十年間。

 一度も言葉を交わせなかった二人が。

 最後になって。

 初めて話した。


    ◇


 そして。

 光秀が言った。

 ――黒瀬殿。

 ――何だ。

 ――礼を言わせてほしい。

 俺は黙った。

 ――まず。

 煕子を。

 声が、少し震えた。

 ――妻を、救ってくれた。


    ◇


 煕子の顔が浮かんだ。

 二十年前より、皺が増えた。

 髪も白くなった。

 怒ると怖い。

 俺が仕事を持ち帰ると、もっと怖い。

 それでも。

 笑う。

 光秀が言った。

 ――私は、あの者と。

 本来なら持てなかった時間を、持つことができた。

 朝、同じ膳を囲んだ。

 夜、どうでもよいことを話した。

 喧嘩もした。

 病めば、手を握った。

 孫の話もした。

 ――それだけで。

 私は、十分であった。

 ――ありがとう。


    ◇


 ――娘たちも。

 光秀は続けた。

 ――ただ、家と家を結ぶ駒として扱わなかった。

 嫁がせるとき。

 相手を見た。

 家を見た。

 そして。

 あの子ら自身に、どうしたいかを聞いた。

 ――戦国の姫に、「嫌なら嫌と言え」と申す父親がおるか。

 ――いたな。

 ――お前だ。

 ――お前でもある。

 少し間があって。

 光秀が笑った。

 ――そうであったな。


    ◇


 ――上の娘も。

 光秀が言った。

 ――左馬助に嫁いだ、あの子か。

 ――うむ。

 明智秀満。

 左馬助。

 明智の一門であり。

 俺の婿であり。

 決めたことを、決めた通りに守ろうとする男だった。

 光秀は、静かに言った。

 ――あの子は。

 玉ほど名を知られることはないかもしれぬ。

 だが。

 名が世に残ることだけが、幸せではない。

 ――秀満の隣で。

 自分の家を持ち。

 自分の暮らしを持ち。

 父の決断によって、すべてを焼かれずに済んだ。

 俺は黙って聞いた。

 ――本来なら。

 私が道を誤れば。

 あの子は、夫と父の間に置かれていた。

 明智の娘として。

 明智の婿の妻として。

 逃げても。

 残っても。

 何かを失うことになった。

 光秀は、少し間を置いた。

 ――その道を。

 お前は、消してくれた。

 ――あの子が。

 ただ一人の娘として。

 一人の妻として。

 生きられる時間を残してくれた。

 ――ありがとう。


    ◇


 ――玉も。

 その名前を言うと。

 光秀の声が、少し細くなった。

 ――あの子を、炎から遠ざけてくれた。

 俺は黙った。

 ――あの子は強い。

 強すぎる。

 だから。

 誰かが、「強くなくてもよい」と言ってやらねばならなかった。

 私は。

 言えなかった。

 お前は、言った。

 ――俺だけじゃない。

 ――分かっておる。

 だが。

 最初に言ったのは、お前だ。


    ◇


 ――息子も。

 ――光慶か。

 ――うむ。

 ――あれは、お前に似て真面目すぎる。

 ――お前にも似ている。

 ――最悪だな。

 ――まったくだ。

 二人で笑った。

 光秀は、続けた。

 ――私は。

 あの子に、背中しか見せぬ父になるところであった。

 だが。

 お前は、座った。

 そして。

 「お前は、どうしたい」と聞いた。

 ――私は。

 自分の息子が何を考えておるのかを。

 知ることができた。

 ――ありがとう。


    ◇


 ――利三も。

 その名前で。

 胸が少し痛んだ。

 斎藤利三。

 二十年間。

 俺の横で、書き続けた男。

 光秀が言った。

 ――本来なら。

 私は、あの男を道連れにしておった。

 私が誤れば。

 利三は、止めなかった。

 止められなかった。

 私が地獄へ行くと言えば。

 黙って馬を用意したであろう。

 ――そういう男だ。

 ――だから。

 怖かった。

 忠義とは。

 時に、人を殺す。

 だが。

 お前は、利三に「止めろ」と命じた。

 私を止めることを。

 忠義にした。

 俺は少し笑った。

 ――あいつ、最初は嫌そうだったぞ。

 ――二十年間、嫌そうであった。

 ――知っている。

 ――だが、嬉しそうでもあった。

 ――それも知っている。


    ◇


 ――家臣たちも。

 光秀は言った。

 ――明智の家臣であるというだけで。

 謀反人の家臣として死なずに済んだ。

 妻子が逃げずに済んだ。

 家が焼かれずに済んだ。

 名を捨てずに済んだ。

 ――私一人の決断で。

 何百人もの人生を終わらせるところであった。

 俺は、目を閉じた。

 ――だから。

 ありがとう。


    ◇


 ――婿たちも。

 俺は少し笑った。

 ――そこまで入るのか。

 ――入る。

 光秀も笑った。

 ――明智の娘を娶ったというだけで。

 父を取るか。

 妻を取るか。

 主君を取るか。

 己を取るか。

 そのような選択をさせずに済んだ。

 ――人は。

 選択肢が多いことを、自由と思うことがある。

 だが。

 選ばなくてよい地獄もある。

 ――それを。

 お前は消してくれた。


    ◇


 そして。

 長い沈黙があった。

 光秀が。

 最後の名前を言った。

 ――上様も。


    ◇


 俺は。

 何も言わなかった。

 織田信長。

 二十年間。

 最も面倒で。

 最も危険で。

 最も話を聞かず。

 そして。

 少しずつ、人の話を聞くようになった男。

 光秀が言った。

 ――私は。

 上様を、憎んでいたわけではない。

 俺は黙っていた。

 ――怖かった。

 疲れていた。

 悔しかった。

 分かってほしかった。

 時には。

 消えてしまえばよいと思ったこともあった。

 だが。

 ――殺したかったわけではない。

 ――分かっている。

 ――いや。

 私は。

 自分でも、分かっていなかった。

 光秀の声が震えた。

 ――あの方に。

 一度だけでも。

 「つらい」と言えばよかった。

 「今は無理です」と。

 「説明してください」と。

 「私は怒っています」と。

 言えばよかった。

 だが。

 私は、言えなかった。

 そして。

 二十年前。

 私は。

 死ぬ代わりに、神へ祈った。


    ◇


 ――助けてください、と。

 光秀が言った。

 ――そうしたら。

 お前が来た。

 俺は苦笑した。

 ――神も、変な奴を寄越したものだ。

 ――まことにな。

 ――そこは否定しろ。

 ――二十年、見ておったからな。

 俺は笑った。

 光秀も笑った。


    ◇


 そして。

 光秀が言った。

 ――黒瀬殿。

 ――うむ。

 ――上様を。

 殺させないでくれて。

 ありがとう。


    ◇


 俺は。

 すぐには返事ができなかった。

 二十年。

 そのために来た。

 本能寺を起こさない。

 ただ、それだけだった。

 だが。

 今になって、分かった。

 俺が救おうとしたのは。

 織田信長一人ではなかった。

 明智光秀一人でもなかった。

 ――その間にいる者たちだった。


    ◇


 俺は言った。

 ――一つ、謝らせろ。

 ――何を。

 ――お前の人生を、勝手に使った。

 光秀は。

 すぐには答えなかった。

 そして。

 静かに言った。

 ――違う。

 ――何が。

 ――私が、頼んだ。

 俺は黙った。

 ――神に。

 誰でもよいから助けてくれ、と。

 ――だから。

 お前は、私の人生を奪ったのではない。

 光秀は言った。

 ――返してくれたのだ。

 私の人生を。


    ◇


 胸の奥で。

 何かが、ほどけた。

 黒瀬直人として。

 蜀で生きた者として。

 そして。

 明智光秀として。

 俺は。

 いつも組織を直そうとしてきた。

 だが。

 ここで初めて。

 一人の男から。

 人生を返してもらった、と言われた。


    ◇


 ――ありがとう。

 光秀が言った。

 ――黒瀬直人殿。

 二十年間。

 私の人生を、生きてくれて。

 ――ありがとう。


    ◇


 俺は。

 しばらく何も言わなかった。

 それから。

 答えた。

 ――こちらこそ。

 ――何がだ。

 ――二十年間。

 一人じゃなかったんだな。

 光秀は笑った。

 ――うむ。

 ――なら、もっと早く言え。

 ――言えなかったのだ。

 ――使えない同居人だ。

 ――お前ほどではない。

 ――何だと。

 二十年目にして。

 俺たちは。

 初めて喧嘩をした。


    ◇


 文字が、出た。

 【次の任を、お引き受けになりますか】

   はい

   いいえ

 ――俺は、その二つを見た。

 そして、一つ確かめた。

 ――これは、選べるのか。

 声は、答えた。

 ――選べます。

 ――前は、選べなかった。

 ――さようでございます。

 声は、続けた。

 ――あのとき、あなたは仰せられました。

 「次は、選ばせろ」と。

 ――そして、私は「善処いたします」と申し上げました。

 俺は、そこで、しばらく黙っていた。

 (――やったのか)

 前の世で、俺は善処と言って、一度もやらなかった。

 ――やったのだな。

 ――八十四年、かかりました。

 俺は、笑った。

 喉が痛んだ。

 もう感覚はないはずだが、痛んだ気がした。

 ――遅い。

 ――申し訳ございません。

 ――だが、やった。

 ――はい。

 俺は、言った。

 ――ならば、こちらも、答える。


    ◇


 俺は、「いいえ」を押した。

 ――何も、起きなかった。

 文字は、二度出なかった。

 ――終わった。

 俺は、そのことに、少し驚いた。

 (――押せるのか)

 声が、言った。

 ――理由を、伺ってよろしいですか。

 俺は、少し考えた。

 そして、答えた。

 ――足りたからだ。


    ◇


 ――前の世で、俺は足りなかった。

 三十七ページを書いて、誰にも読まれず、四度目の途中で倒れた。

 あのとき俺は、足りないまま終わった。

 蜀でも、足りなかった。

 長安は取れなかった。

 天下も統一しなかった。

 だが、朝議は俺が死んだ翌日も開かれた。

 ――そして、今度だ。

 本能寺は、燃えなかった。

 煕子は、本来なら持てなかった時間を生きた。

 上の娘は、秀満とともに、自分の家と暮らしを守ることができた。

 玉は、父の謀反によって人生を焼かれずに済んだ。

 光慶は、自分の言葉で、自分の人生を選ぶ男になった。

 利三は、俺の横で二十年間、書き続けた。

 明智の家臣たちは、謀反人の家臣にならずに済んだ。

 婿たちは、妻と主君と義父のどれを取るのかという地獄を、選ばずに済んだ。

 官兵衛どのは、牢から出た。

 佐久間様は、教える側に立った。

 宮内少輔どのは、兵を止めた。

 仁科盛信は、二千を助けた。

 筑前殿は、八十七を数えた。

 中将様は、失敗を書き取った。

 そして。

 上様は。

 詫び状を書いた。

 ――織田信長が。

 自分で。

 「すまなかった」と書いた。

 全部、俺一人でやったことではない。

 ――一つも、俺一人でやったことではない。

 だから、足りた。

 ――足りるというのは、そういうことだったのか。

 俺は、そこで、初めて理解した。

 足りるとは、全部やり終えることではない。

 ――自分がいなくても続く、と分かることだ。


    ◇


 声が、言った。

 ――黒瀬さま。

 ――うむ。

 ――一つだけ、申し上げてよろしいですか。

 ――言え。

 声は、こう言った。

 ――あなたは、三度とも、同じことをなさいました。

 俺は、聞いた。

 ――何をした。

 ――聞いて、書いて、渡された。

 ――それだけか。

 ――それだけでございます。

 俺は、しばらく黙っていた。

 そして、こう言った。

 ――ならば、肩書は、要らぬな。


    ◇


 視界が、静かになった。

 湖の匂いがした。

 十月の湖だ。

 障子が開いている。

 ――利三が、書いている音がする。

 筆が紙を擦る音。

 二十年、いちばん近くで聞いてきた音だ。

 光慶が、そばにいる。

 何も話さない。

 ただ、いる。

 ――良い日だ。

 俺は、そう思った。

 そして、それが、そのまま帳面に書かれることを、知っていた。


    ◇


 ――今日、誰が来たか。

 書いておかねばならない。

 字は書けない。

 利三が書く。

 それでよい。

 書く者と、残す者は、別でよい。


    ◇


 遠くで、誰かが呼んだ。

 「殿」である。

 ――二十年で、最後に呼ばれたのは、諱ではなかった。

 それで、よかった。

 名は、たぶん、呼ばれないほうが長く残る。


    ◇


 ――そして、俺は、こう思った。

 (――今度は、引き継ぎ資料がある)

 百八十七枚。

 総論が一枚。

 目録が、四十項目。

 誰が読むかは、知らない。

 読まれない年もあるだろう。

 蔵にしまわれる年もあるだろう。

 だが、いつか、誰かが困る。

 困った者は、探す。

 探せば、見つかる。

 見つかれば、読む。

 ――そして、直す。

 直した者は、理由を書き足す。

 そこから先は、俺の仕事ではない。


    ◇


 声が、最後に、こう言った。

 ――黒瀬さま。

 ――うむ。

 ――お名前を、伺ってよろしいですか。

 ――俺は、少し驚いた。

 ――八十四年、おぬしは俺の名を呼んでおる。

 ――さようでございます。

 声は、言った。

 ――ですが、一度も、ご自分で名乗られたことがございませぬ。

 俺は、そこで、しばらく黙っていた。

 (――そうか)

 三つの世を生きた。

 皇帝と呼ばれ、殿と呼ばれ、日向守と呼ばれた。

 名乗ったのは、たぶん、前の世の名刺が最後だ。

 俺は、答えた。

 ――名乗るほどのものでは、ない。

 ――さようでございますか。

 ――だが、一つだけ書いておけ。

 ――なんでございましょう。

 俺は、言った。

 ――「よく聞く男であった」と。

 ――それだけでよろしいですか。

 ――それだけでよい。

 ――四つの字より、多いくらいだ。


    ◇


 すると。

 胸の奥で。

 光秀が言った。

 ――黒瀬殿。

 ――何だ。

 ――私も、一つだけ。

 ――何を。

 ――残してほしい言葉がある。

 俺は聞いた。

 ――言え。

 光秀は。

 静かに言った。

 ――「助けを求めることのできなかった男が、最後には助けられた」と。

 俺は、少し笑った。

 ――長いな。

 ――お前の「よく聞く男」よりは長い。

 ――記録する側の身にもなれ。

 ――利三が書く。

 ――そうだったな。


    ◇


 夕日が、琵琶湖へ落ちていた。

 赤い光が。

 水の上に、一本の長い道を作っていた。

 ――黒瀬殿。

 光秀が呼んだ。

 ――何だ。

 ――もう一度だけ。

 ――うむ。

 ――ありがとう。

 俺は答えた。

 ――こちらこそ。

 光秀。

 二十年目にして。

 初めて。

 俺は、彼の名を呼んだ。


    ◇


 そのとき。

 俺には、ようやく分かった。

 二十年前。

 一人の男が。

 生きることを諦めかけた。

 神に。

 「助けてください」と願った。

 そして。

 もう一人の男が来た。

 だが。

 救ったのは。

 黒瀬だけではなかった。

 光秀も。

 二十年間。

 俺の中にいた。

 その生真面目さで。

 その情で。

 その不器用さで。

 俺が数字だけの人間になることを。

 ずっと。

 止めていた。

 だから。

 これは。

 黒瀬直人が、明智光秀を救っただけの話ではない。

 明智光秀もまた。

 黒瀬直人を救ったのである。


    ◇


 湖が、赤かった。

 日が、暮れる。

 ――明日も、来る。

 俺は、そう思った。

 そして。

 胸の奥で。

 光秀も、同じことを思ったような気がした。

 二十年間。

 たぶん。

 俺たちは何度も。

 同じものを見て。

 同じことを考えていたのだ。


    ◇


 俺は、目を閉じた。

 もう。

 数字は出なかった。

 それで、よかった。

『MBAホルダー明智光秀の事業承継計画』

~天才創業者・織田信長の下で潰れる前に、本能寺が起きない組織を作ります~

 完


 ――付記。

 この書付は、明智日向守光秀の遺したるもの、およびその周辺の記録より、編みたるものなり。

 誤りあらば、直すべし。

 直したる者は、その理由を、書き足すべし。

 ――そして、問うた答えを、また書き足すべし。



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


本能寺の変は、防げました。

ですが、私はこの物語を書きながら、もう一つ考えていました。

もし本能寺だけを防いだとしても。

信長公だけを救ったとしても。

その後の織田家が何も変わらなかったなら。

いずれ光秀ではない誰かが、同じことを起こしたのではないか。

そう思っています。


天才創業者に全てが集まり。

権限が集中し。

意思決定も集中し。

後継者が育たず。

仕組みより個人が優先される。

そんな組織は、たとえ本能寺を防いでも、また別の場所で同じ危機を迎えます。

そして、天才創業者の下では、部下は大きな負担を抱えることになります。

創業者は、自分でやった方が早い。

説明するより、自分で決めた方が上手くいく。

そう考えます。


実際、多くの場合、それは間違っていません。

だからこそ仕事は創業者に集まります。

そして、その周囲の優秀な人材にも集まります。

説明が足りないまま。

権限が曖昧なまま。

期待だけが積み上がったまま。

優秀な人ほど仕事が集まる。

それは戦国時代も現代も変わりません。

やがて人は限界に達します。


過労で倒れる者もいます。

燃え尽きる者もいます。

不満が爆発する者もいます。

歴史はそれを、

裏切り。

離反。

反逆。

謀反。

という言葉で記録します。

ですが、その裏には、長い年月をかけて積み上がった疲労や孤独があったのかもしれません。

創業期には、天才が必要です。

誰か一人が決断し。

誰か一人が責任を負い。

誰か一人が周囲を引っ張らなければ。

組織そのものが生まれないからです。

ですが、組織はいつまでも創業期ではいられません。

売上が増え。

人が増え。

拠点が増え。

事業が増え。

やがて創業者一人では見切れない規模になります。

そのとき必要になるのは、さらに優秀な創業者ではありません。

権限移譲です。

役割分担です。

権力分散です。


たとえば、

一人しか決裁できない状態から、

複数人が決裁できる状態へ。

一人しか知らない情報を、

組織全体で共有できる状態へ。

一人しか後継者がいない状態から、

複数人が組織を支えられる状態へ。

変わらなければなりません。

国でも。

会社でも。

家庭でも。

そうです。

跡取り問題とは、人を選ぶ問題ではありません。

組織を作り替える問題です。

そして、それはおそらく人類が何千年も解決できていない問題でもあります。


この物語は、

本能寺の変を防ぐ物語ではなく、

「本能寺の変を起こさなくても済む組織」を作ろうとした物語

でした。

光秀が守りたかったのは、信長公の命だけではありません。

信長公亡き後も続く織田家。

そして織田家亡き後も続く国。

そうした未来だったのだと思います。


本能寺だけが歴史ではありません。

その後も人は生きます。

組織は続きます。

朝は来ます。

仕事は始まります。

帳簿は開かれます。

そして誰かが、また次の日を生きます。

この物語で描いた問題は、戦国時代だけのものではありません。

いつの時代にもあり。

どの組織にもあり。

そして、おそらく私たち自身の周りにもあります。

歴史を変えた英雄の話ではなく。

英雄がいなくなっても続く組織を作ろうとした。

一人の光秀の話。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

またどこか別の物語でお会いできれば幸いです。


東雲 諒杏

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― 新着の感想 ―
完結、お疲れ様でした。 愚直と言っていいのか、冗漫と言うべきか、中の人はこういう人だよねって思いながら読んできました。 過去作と引き比べるのは良くないかもしれませんが、こちらの上様はこういう生涯を辿…
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