第21話 上陸
だが、案の定船長は進路の変更について良い顔をしなかった。
「ギルバート様。ワシはもう何十年も海に出て何百と航海をしております。それをこんな若い娘さんのおままごとにつきあわされるのじゃ立つ瀬がありませんぜ」
「お前の言うことは最もだ。だが、この海は他の海と違って荒れやすい。先の嵐で船が転覆したのはお前も知っているだろう? 先方との国交を強固なものにするためにも我々はもう同じ轍を踏むことはできない」
「そうは言われましても……」
船長が口ごもり、顔をあげて空を見る。頭上に広がるのは雲ひとつない晴天で、雨風の気配は皆無だ。
だがエレオノーラにはわかっていた。海自身がこの後荒れることをエレオノーラに教えてくれている。このままいけば突如現れた雷雲が風によってこちらに流され、嵐のど真ん中に突入することは明白だった。
「船長さん。もうすぐ嵐が来ます。早くここを離れないと」
エレオノーラが焦燥感に駆られながら言うと、船長が胡散臭げな顔でエレオノーラを見る。
「お嬢さん、良いですか。これは命がかかっているんですよ。少し風や波が読めるからってそう簡単に進路は曲げられません」
「違うんです。私にはわかるんです、信じてください」
「いんや。ここは真っ直ぐに行かせてもらいます。良いですね?」
船長の言葉にエレオノーラはぐっと拳を握った。このままでは先日のように船はまた嵐に巻き込まれて転覆してしまうだろう。おまけに今の人間の姿では前回のように彼らを助けることもできない。懇願するようにギルバートを仰ぎ見ると、彼は意を決したように腰から剣を鞘ごと引き抜いた。
「この船の意思決定権は私にある。もしも殿下の御身を危険に晒すようなことがあれば、私はこの剣を返上しよう」
そう言って彼の目の前の机にごとりと剣を置く。その硬質な響きに船長はびくりと肩を震わせた。
「ギルバート様。何のご冗談ですか。剣は騎士の命でしょうに」
「私はそれ程本気だと言うことだ。すべての責任は私がとろう。彼女の言うとおりにしてくれるか?」
「し、しかし……」
船長は口ごもりながらギルバートの顔を仰ぎ見る。だが、その灰色の鋭い視線は一点の曇りもなく真っ直ぐに自分を見返していた。
「わかりましたよ! もうどうなってもワシは知りませんからね!」
声と共に船長がぐいと右に舵を切る。豪奢な船はゆっくりと進行方向から外れ、大きく曲がっていった。
その時、青い空を引き裂くように雷鳴が轟き、ポツリポツリと水滴が頬をうつ。降り始めた雨はみるみるうちに大粒の雨になり、白い高波があちこちで目に見えるようになった。
ギルバートが操舵室を出て指示を出す声が聞こえる。エレオノーラは船長の隣で冷静に海の様子を見ていた。
先程まで静かに広がっていた空が一瞬で真っ黒な雲に覆われる。波が船を殴りつけ、今にも倒れてしまいそうなほどに大きく揺れた。だが嵐の中心は避けられたようで、船が転覆するほどの衝撃ではない。
ふと視線をそらすと、遥か遠くで黒い雲を引き裂くように稲妻が何本も海に落ちている様子が見えた。先程までエレオノーラ達が進んでいた航路だ。隣にいる船長が息を飲む音が聞こえる。
再びドオンと波が船を殴りつけ、エレオノーラの体が宙に放り出される。だがすぐに逞しい腕がエレオノーラを包み込み、床に叩きつけられる衝撃から守ってくれた。
「ギル……!」
「俺はお前の言うことを信じている。だからお前の思うままに指示を出せ」
力強い抱擁と言葉がエレオノーラに勇気をくれる。激しい雨と暴力的な風がエレオノーラをなぎ倒そうと殴りつけてくるが、ギルバートがエレオノーラを抱きしめながら踏ん張ってくれているので吹き飛ばされることはなかった。
ギルバートの腕の中で海の声を聞き続ける。その後も船は嵐の直撃を免れながら進んでいき、やがて収まりゆく波と共に船はまた晴天の中に戻った。
「はー……命拾いしました」
舵輪から手を離した船長がぐったりと椅子に背を預ける。彼は椅子に沈み込みながらちらりと隣のエレオノーラに視線を送った。
「お嬢さんは一体何者なんです。長年海に出ているワシですら予測できなかったというのに」
「小さな頃からここで暮らしているからこの海のクセがわかるの。それだけよ」
話をはぐらかしながら答えると、彼はどうやら信じてくれたようでそれ以降は素直に意見を聞いてくれるようになった。
その後もエレオノーラは何度か海の声を聞き、船の進路を決めていった。度々悪天候に見舞われることはあったが、いずれも直撃は免れた為に大きな被害はなかった。
嵐の海域を抜けた後は順調に進んでいき、幾日か経った後にやっと陸地を確認することができた。船が近づくと共に色鮮やかな建物群や建造物を確認できるようになり、港で出迎える人々の姿も肉眼でハッキリわかるようになった。
甲板に出て町の様子を眺めていると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。
「エレオノーラ。君のおかげで無事に着くことができたよ、ありがとう」
声の主はエドワルドだった。その澄んだ瞳は真っ直ぐに自分を捉えていて、エレオノーラはにこやかな笑みでそれに答える。声をかけられた嬉しさと、役に立てたという誇らしい気持ちで胸が熱くなった。
エドワルドが自身の襟元に手を入れ、中から金細工のペンダントを取り出した。凝った意匠のペンダントの中央に澄んだ海色の石がはまっている。それはかつてエレオノーラがエドワルドに贈ったあのアクアマリンだった。
「そのペンダント、持っていてくれたんですね」
「ギルバートが馴染みの武器店に持って行ってくれてね、僕が公務の場にも持って行けるように作り直してくれたんだ。これを持っているとなんだかいつも君が側にいてくれているみたいで胸が温かくなるよ」
そう言ってエドワルドが目を細める。静かな森のように優しい新緑色の瞳が愛おしげにエレオノーラを見つめ、その甘い視線にエレオノーラの心臓がきゅっと心地良く締め付けられた。
幼い頃からずっと夢見ていた光景だ。人間の体を手に入れて地上に上がり、こうやって恋をした相手と向かい合わせになっているのだから。
どきまぎとして俯いていると、エドワルドの長い指が伸びてきて肩にかかったエレオノーラの髪をそっと背中に流した。首元があらわになり、首にはめられたダイヤの首飾りが日の光を受けてキラリと輝く。
「君も僕が贈った首飾りをつけていてくれているんだね。嬉しいよ」
「え、ええ……だってエドワルド様がくださった物ですもの。私にとっては何よりも大切なものだわ」
「はは、君は可愛いことを言ってくれるんだね」
そう言いながらエドワルドが切なげに目を伏せた。その悲しげな表情にエレオノーラの胸がなぜかざわざわと不穏に騒ぐ。もう一度目を開き、エレオノーラの目を正面から真っすぐに見つめるエドワルドの顔には決意の表情があった。
「エレオノーラ、僕には婚約者がいる」
突如耳元でささやかれた言葉は残酷な響きを伴っていた。咄嗟にその言葉の意味が理解できずに呆然としていると、エドワルドが寂しそうに微笑む。
「君の気持ちは嬉しかった。とても。でも僕が君のことを妹以上の存在に思うことができなかったのは、僕にはもう添い遂げる相手が決まっていたからなんだ」
「婚約者……エドワルド様の王妃となる方ということですか」
「そうだ。でも正式にはまだ僕たちは婚約をしていない。だが今回の航海でこの婚約は正式なものになるだろう」
「エドワルド様はその方をお慕いしているのですか」
「ろくに会ったことのない婚姻相手だ。恋心を抱くという方が難しいよ。僕にとっては君の方が好ましいくらいだ。だからもし君が頷いてくれるなら、僕は君を迎えに行くことができるよ。君の本意ではない形かもしれないけど」
「それは……どういうことですか」
「僕の第二夫人になれば君の想いを叶えられるということだ」
エドワルドの言葉に、エレオノーラは咄嗟に返事ができなかった。
第二夫人。それはエドワルドの愛人になるということ。
驚いて彼の顔を見返すと、エドワルドがそっとエレオノーラの頬に手を添える。
「僕も君のことがずっと大切だったんだよ、エレオノーラ。実の兄弟とは心を通わせることができなかった僕にとって、妹みたいに僕を慕ってくれる君との時間は何よりも大切なものだった。時折抜け出してはギルに怒られてしまったけどね。だからもし、君が僕のもとに来てくれるというのであれば、僕は君を心から大切にするよ」
「エドワルド様、私……」
だがエレオノーラが返答する前にカツカツと靴音が聞こえ、ギルバートが現れた。彼は真っ直ぐにエドワルドの元へ行くと静かに頭を下げる。
「殿下、もうすぐ隣国へ到着いたします。下船のご用意を」
「わかった、この話の続きはまたしよう。ギル、準備をしてくれ」
「仰せのままに」
顔をあげたギルバートがちらりと視線を横に流してエレオノーラを見やる。口をつぐんでしまったエレオノーラに痛ましそうな一瞥を送ると、ギルバートは静かに船を降りていった。




