第20話 隣国へ
サラとギルバートはまだ婚約関係ではない。だが、あの一件以来、サラからは頻繁に手紙が届くようになった。届けられる手紙にユリの紋章が入っていれば、それは彼女からの手紙なのだ。
いつも不機嫌そうな顔をして睨みつけるように手紙を読んでいたギルバートが、サラからの手紙には時折ふっと笑いながら目を通しているのもエレオノーラの心を波立たせた。ギルバートが幸せになることはエレオノーラにとっても嬉しいことであるはずなのに、素直に喜べない自分が恥ずかしかった。
そんな日が続いたある日、ギルバートに呼び出され、書斎で彼の話を聞いたエレオノーラは目を丸くした。
「隣国に行く為の船に私も乗るの?」
「そうだ。そしてこれは殿下のご意思でもある。お前は嵐の兆候を読むことができるだろう? その力を殿下の為に使ってくれないか」
「エドワルド様と一緒にいられるのね? ええ、もちろんよ。でも海の変化を読み取ればいいのよね? そんな簡単なことだけでいいの?」
「普通の人間には簡単なことではないからな」
キョトンとした顔でたやすく言ってのけるエレオノーラに、ギルバートが苦笑する。この国の情勢も少なからず知っておいた方が良いと判断したギルバートは、エレオノーラに経緯を簡単に説明することにした。
今、エレオノーラ達が住む国は隣国と繋がりを持とうと画策している。海を向こうの文化や産業を取り入れ、国としてさらなる発展を目指そうとしているわけだ。
両国の国交を結ぶ正式な儀式を行う為に、国を代表としてエドワルド第一王子が選ばれたのだが、それを拒むのが両国を隔てる海だった。特に荒れやすいと言われているこの海への航海は、先日の嵐のように急な悪天候に見舞われて頓挫することも多く、隣国への渡航はなかなか困難を極めていた。
「今回は国交を結ぶ為の儀式だが、うまく事が進めばこれからも船を出す機会は格段に増える。その度にお前がうまく嵐を回避してくれれば、他の者達からの覚えも良くなり、お前も王宮に出入りしやすくなるかもしれん」
「本当に? そうすればもっとエドワルド様にお会いできる機会も多くなるわね」
エレオノーラが声を弾ませるが、反対にギルバートは少しだけ硬い表情をしていた。口を一文字に引き結び、エレオノーラに気遣うような視線を送っている。
「ギル? そんな顔をしてどうしたの?」
「いや……何でもない。航海に出るのは一週間後だ。それまでしっかり体を休めておくんだな」
そう言って部屋を出ていく後ろ姿をエレオノーラは不思議に思いながら眺めていた。
日は飛ぶように過ぎ、あっと言う間に出港の日になった。エレオノーラも動きやすいながらも王族の前で失礼にならないように正装をし、馬車に乗って船着き場へ行く。馬車を降りると、船着き場に王家の紋章が入った大きな船が停まっており、エドワルドとギルバート、そして多くの従者達が船に乗り込む所だった。
事前に言われた通りにエドワルドの元へ向かい、ハンナに叩き込まれたお辞儀を披露する。特訓のかいあって、特に笑われることもなく挨拶は終了した。
ギルバートの指示に従って船に乗り込み、エレオノーラはどこまでも続く青い世界を見つめた。
海に出るのは久しぶりだ。エレオノーラは甲板に出て、夏の風に海の色をした髪をたなびかせる。この海から地上に出てきて随分経つが、シェルは元気にしているだろうか。彼は突然海から消えたエレオノーラを心配しているに違いない。せめて一言別れを告げたかったとぼんやり思っているうちに、船は静かに陸を離れ始めた。
海を眺めていると、ふと誰かの気配を感じてエレオノーラは振り向いた。そこにはマントを羽織り、きっちりと正装をしたギルバートとエドワルドが立っていた。
「エドワルド様!」
「やあ。見違えるようだね、エレオノーラ」
深青の目を見開いて駆け寄ると、王族の服に身を包んだエドワルドがエレオノーラの手をとって優しく微笑んだ。
「君を船に乗せることについて僕が許可を出したんだ。エレオノーラは海の変化を読むことができるとギルから聞いたよ。何か異変があったらすぐに教えてくれるかい?」
「はい。もちろんです。お任せください」
「はは、これは頼もしい航海士だ。期待しているよ。でも船旅は長いんだ。少し船内をゆっくり見回っておいで」
エドワルドに頼られて嬉しそうに顔をほころばせるエレオノーラに、エドワルドがニコリと笑みを返す。エドワルドに言われた通り、エレオノーラは久方ぶりの海を堪能することにした。
甲板の上は大勢の人でにぎわっていた。船を先導する船乗りはもちろん、きらびやかな服を着た貴族たちも大勢乗っており、船の上はたくさんの色に満ちていた。今回の渡航は隣国の王族に会うと聞いているので、貴族たちの付き添いも多いのだろう。
(なんだかちょっとしたパーティみたいね)
思わずのんきなことを考えてしまい、エレオノーラはふふっと笑った。海でずっと独りぼっちだったエレオノーラにとっては、このような賑やかな空気も新鮮で楽しいものだ。
海風にあたりながら甲板を歩いていると、見慣れた大きな背中が視界に入った。マントを羽織り、きちんと正装したギルバートが船乗りに指示を出している。彼との付き合いも長いが、こうやって近衛騎士の職に携わっているギルバートを見るのは初めてだ。海にいた頃は意地悪で愛想のない男だと思っていたが、最近では彼の実直で勤勉な態度を好ましく感じるようになっていた。
「ギル、お仕事お疲れ様。あなたも少し休んだらどうかしら」
船乗りや貴族たちとの会話が終わったころを見計らって声をかけに行くと、ギルバートが少しだけ堅い表情を和らげた。
「心遣いには感謝するが、これも職務のうちだからな。渡航までの間殿下の安全を守るのも俺の務めだ。お前も久しぶりの海を楽しむといい」
「ええ、まさか船の上から海を見ることになるとは思っていなかったわ。こんな日が来るなんて今も信じられない気持ちよ」
そう言いながらエレオノーラは広大な海へと視線を向けた。海の中にいた頃には見ることができなかった景色が目の前に広がっている。エドワルドやギルバートと同じ場所で過ごせることにも喜びを感じていたが、同時に自身の体に課せられた薬の期限が脳裏をよぎった。
人間の世界での生活は楽しい。だが次に海に花の匂いが混じるようになるまでに思い人であるエドワルドと結ばれなければ泡となって消えてしまうのだ。思わず首元のダイヤの首飾りに触れ、エレオノーラは切なげにうつむいた。
(エドワルド様とお会いできる機会は増えたけど、彼が私の気持ちに答えてくれることはないのかしら)
もちろん、エドワルドを諦めて他の貴族と恋をする選択肢も残っている。だがあの日、洞窟でキスをされた時からずっと抱いていた甘い熱は、エレオノーラの初恋そのものだった。そう簡単にあきらめきれるものではない。
エレオノーラの表情に陰りがさしたことに気づき、ギルバートがけげんな面持ちでエレオノーラを見やる。
「どうしたんだ。気分でも悪いのか」
「あ、違うのギル。心配かけてごめんなさい。少しエドワルド様のことを考えてしまって……」
素直な気持ちを口にするとギルバートが痛ましそうに目を細める。無意識のうちにダイヤの首飾りに触れるエレオノーラを見て、その灰色の瞳が陰った。
「エレオノーラ、そのことなんだが……」
ギルバートが何かを伝えようとして口を開きかけた時だった。
エレオノーラの肌をざらりとした風が撫でた。突然潮の匂いが濃くなり、ザワザワと海が何かを語りかけてくる。身に染みつくほどに何度も経験してきたその感覚の意味をエレオノーラは瞬時に理解した。
嵐の兆候だ。
エレオノーラは慌てて空を見上げ、雲の動きを確認した。今はまだ白い小さな雲が点々と青空に散っているだけだが、この雲が一瞬のうちに雷鳴を伴う灰色の雷雲になることはこの海に住む者の常識だ。おまけに風の向きと船の進行方向から考えると、このまま行けば嵐の中に突撃するのは避けられない。
「ギル、嵐が来るわ。このまま行けばこの船は大波に巻き込まれることになる」
手短に伝えると、ギルバートの灰色の瞳が大きく開く。
「わかった、船長に行って進路を変えよう」
そう言って足早に操舵室へ向かっていくギルバートの背中を、エレオノーラも慌てて追いかけていった。




