一夜が明けて 2
キッチンの調理場でお湯を沸かしていると、隣接している食事室から音がした。
(あ、フレディさんも起きたんだな。あの人もなんだかんだ早いなあ)
シリルは変身すると基本的に夜中ずっと起きているので、朝は弱いらしい。呪いのせいで動物になったり別人になったりするから、おちおち寝ていられないというのがその理由だ。
(だから、子どもの侯爵様が深夜に起きていたんだな)
誘拐騒動の晩はさすがに疲れたのと、雷の夜はローラの「とにかく早く寝させなければ」という勢いに流されて眠ったのだろう。
昨夜はちゃんと休めただろうか、などと思いながら、ローラは作業の手を止めて食事室に顔を出した。
「フレディさん、おはようございま……って、あれ、侯爵様?」
ところが、そこにいたのはシリルだった。思い切り人違いをしたローラに、不満そうな視線が向けられる。
「俺で悪かったな」
「悪くないです! すみません、まだお休みになってるとばかり!」
「それはこっちのセリフだ。なんでここにいる? 今朝の食事は用意しなくていいとフレディから聞かなかったか?」
「聞きましたけど、目が覚めたので……」
たしかにそう言われていた。
一昨日の晩からいろいろありすぎたから、ローラを休ませようとしてくれたことは分かっているのだが。
「あと、この本のレシピも試したいなあって思って、それで――」
普段通りの時間に起きてキッチンに立っている言い訳をするローラに、シリルは呆れたようにため息を吐いた。
「……すみません」
「謝らせたいわけじゃない。どうしてそう無理をする?」
「無理なんてしてませんけど……」
少し気まずそうに、でも苛立たしさを隠せない様子でシリルがローラに問いかける。
だが、無理と言われても心当たりがない。困惑していると、テーブルを挟んだ位置にいたシリルはローラに向かって足を進めた。
一歩ずつ歩きながら、確かめるように話す。
「昨夜も諦めただろう」
「諦めた?」
「あの男たちが店に来たときだ。フレディが逸らそうとしていたのに、お前は自分からあいつらのところに行こうとした」
「!」
――男の暴力を止めるために、ローラは男について行こうとした。
実際にはフレディが男を倒してその場を切り抜けたが、一度でも従おうとしたのは本当だ。離れたところにいても、シリルはそんなローラに気づいたのだろう。
たしかに自分はあの時、逃げることを諦めた。
どうやらシリルは、ローラがちゃんと休まなかったことよりも、そっちを怒っているようだ。
(勝手なことをして、って思われた?)
訳ありの自分を雇って匿ってくれて、なにかと気を回してくれているシリルたちにしてみれば、面白くないに違いない。
自分たちの好意や労力を、ローラが「いらない」と捨てたも同じことだから。
「あの時は、そうするしかないかなって……いったん従ったふりをして、隙を見て逃げようって、思って……」
尻すぼみに答えるローラに、シリルはますます態度を硬化させる。
「無理だな。あいつらは通り向こうに馬車を用意していた。そのまま連れ込まれて終わりだ」
「馬車……そうでしたか」
店の外で待っていたシリルには、男たちがどうやって来たのかも見えていたようだ。しかし、馬車とは。フレディも知っていたか、勘が働いたかしたのだろう。どうりで逃げるときに細道ばかりを選んだわけだ。
咎めるようにじっと見つめられて、ローラは訥々とあの時の心情を語る。
「あの……フレディさんが怪我をしたら嫌だったんです。フレディさんでなくても、女将さんでも、店に来ていたお客さんでも同じですけど。誰かが殴られたりするの、見るのも本当に嫌で……侯爵様たちが強いって知らなかったですし」
知っていたとしても、落ち着いて傍観できる自信はないけれど。そう打ち明けたローラをじっと眺めて、シリルは長く息を吐く。そこには呆れではなく、後悔が込められているように思えた。
(後悔……どうして? 逆でしょう)
その理由が分からなくて、ローラは戸惑う。
呪いを解く鍵を探すために歌を聴きに行ったのに、中途半端になってしまった。元凶であるローラに怒って当然なのに、そうではなくて負い目を感じているのはどうしてだろうか。
「あの程度のもめ事、珍しくもない。話していなかったから、ローラが俺たちを信用できなかったのは仕方ないが」
「信用してますよ!? でも、咄嗟にそう思っちゃったんです!」
「自分が殴られるのは平気なのに、他人が同じ事をされるのが嫌なのか」
「私は慣れてます」
「慣れるな、馬鹿。それにお前が殴られるのを見て、同じように思う奴がいるとは考えないのか」
「え……」
思いもよらない言葉にローラは固まった。
(同じように? 私が殴られるのを見て、嫌だって思う人がいるっていうこと?)
それは、正直に言って。
「……考えたこと、なかったです」
呆然と答えるローラに、シリルが目を見張る。その紫の瞳の色が深くなったように見えた。
(だって、私……)
リドル家で殴られるのはいつもローラで、そこに止める人はいない。
外から見えるところをぶたれたときは、さすがに女将たちが気づいてくれたが、全部「終わってから」だ。
「やけに自分の扱いが雑だと思っていたが、庇ってくれる相手はいなかったか」
どこか寂しげに言われて息を呑む。シリルの言葉を受け入れるのは抵抗がある――でも、事実そういうことだ。
(ずっと一人で)
あの家でローラに味方などいたことがなかった。
助けを呼ぼうとも思ったこともなかった。
ローラ、と呼ばれて小さく返事をする。なんと答えればいいのか分からない。
「……もう、ああいうことはしないでくれ。自己犠牲は見飽きた」
苦しげに言われて、今度はローラのほうが罪悪感に襲われる。そうだ、この人は。
(侯爵様のお祖父様とお父様は、呪いで……)
亡くなったときの詳細は聞いていない。けれど、理不尽な死であったことは間違いない。それを、シリルは二度も目の当たりにしている。
他人が害されることを嫌うには十分だ。
自分のしようとしたことは、シリルが最も厭うことだったかもしれない。
(私……考えなしだった)
自分のせいで誰かが傷つくのは嫌だ、と思うこと自体はおかしくない。けれど反射的に自分を犠牲にして済ませようとするのは間違っているのだと、シリルは言いたいのだと思う。
そうしないで解決する方法を探すべきだった、と。
ローラが気づけないできた新しい考え方を示してくれたシリルが眩しく見えるのは、明るい日差しのせいだけではないと思う。
きゅ、と手を握り込み、まっすぐシリルと目を合わせた。
「……はい。約束します、もうしません。それにですね」
「なんだ」
「今朝、この家で起きて思ったんです。私、ここにいたいです」
一度は伯父のところに戻るしかないと決心したけれど、やっぱりここにいたいと思ってしまった。立前や妥協ではなく、本音で。
「侯爵様、私はこの家にいてもいいですか?」
なるべく軽く訊いたつもりだったが、心の声は乗ってしまった。シリルは気まずそうに髪を掻き上げてそっぽを向く。
「……当たり前だ。俺の呪いを解くんだろう」
「はい!」
ぼそりと零された了承に、ローラは元気に答える。
(できればその後もいたいけど……)
それは、その時にまた考えよう。
まずは今、自分のせいで余計な迷惑を掛けそうな気しかしないが、それでもいていいとシリルが言ってくれたことが、泣きたいほど嬉しかった。




