一夜が明けて 1
走りはしたが、そこまで体力を使ったわけではない。だが、久しぶりに屋敷の「外」に出たことと、実家に連れ戻されるところだったということで精神的な疲労があったのだろう。
普段よりずっと早くベッドに入ったのに、ローラはあっという間に眠りに落ちた。夢も見ずに熟睡し、目が覚めたのはいつも通りの時間である。
(……朝……)
窓の外はいい天気だ。壁のハンガーに紺色のワンピースが掛けてあり、チェストの上には図書室で見つけたレシピブックが置いてある。
平和そのものの使用人室は、見慣れたローラの部屋である。
シリルの秘密を知り、図書室で本を探し、変装して歌を聴きに行き走って逃げるという盛りだくさんだった昨日をぼんやりと思い出す。
(女将さん、元気そうでよかったな……でも)
もっと歌が聴けたはずなのに、というもどかしさは寝て起きた今も薄れていない。
それに、伯父があんな男たちを使ってまで本気でローラを探していたとはおもわなかった。
伯父の行動原理は金銭だ。ローラが姿を消したことでホイストン卿から結婚支度金が入らなかっただけではなく、逆に違約金を請求されたのかもしれない。
自分が損をすることは決して許さないし、金のためなら他人を欺くことも厭わない伯父だ。
義理の姪を引き取ったのも働かせることだけが目的ではなく、いつか売るためだったのなら、ローラを取り戻そうと躍起になっておかしくない。
「うぅ……嫌すぎる」
お金は大事だ。生きていくのに必要なものであることは否定しない。
けれど、困窮しているわけでもないのに、ああも強欲な伯父を好きにはなれない。
そもそも、金があったって伯父が幸せそうにしていたことなど一度もない。どこからか大金を得ても、追い立てられるようにまたすぐ金を求め出す。
伯母も性格に難があるが、あんな伯父とずっと一緒にいたら当然のような気もする。
(……なんに使っていたのかなあ)
そういえば、伯父が吝嗇家なのは身をもって知っていたが、なにに使っていたのかはまるで知らない。
リドル家にご大層な金庫はなく、伯父が毎夜金貨や宝石を数えてほくそ笑む……ということもなかった。
溜めていないのならどこかで使っているはずだ。しかし伯父は買い物や旅行を好まない。女遊びなどは金がかかるだけでくだらないと唾棄しているから、そういう線もないだろう。
(物が残らない浪費といえば、賭博? あとは投資で負け続けているとか)
そんなことのために自分が売られようとしていると思うと、ますます気が塞ぐ。せめてもう少し世のため人のため……でなくても、前向きに受け取れる理由であれば、少しは救われたかもしれないのに。
ため息を吐いてベッドの上で膝を抱えると、窓の外から鳥の囀りが聞こえた。
「……静かだな……」
――ここではローラを怒鳴る声も、苛立った足音もしない。
窓から明るい光が入る部屋、安心して眠れる場所と、存分に腕を振るえるキッチン、それに作ったものを喜んで食べてくれる人がいる。
行く当てのなかった自分を拾ってくれたフレディや、ずっとひた隠しにしていた秘密を明かしてくれたシリルが。
(伯母様がわたしを引き取ってくれた恩はあるけれど)
孤児にならないで済んだ分の借りは労働で返したと思う。女将もずっと「もう十分だから、早く家を出ろ」と言っていた。客観的に見てもそうなのだろう。
(私は、このままここにいたい)
リドル家に戻ることもだが、ホイストン卿と結婚するのも拒否したい。
そもそも、父親に見捨てられた私生児として生まれ、不満だらけの政略結婚夫婦に引き取られたローラは結婚願望がない。
自分が心を許した相手と結婚するならともかく、ホイストン卿に対しては初対面から背筋が冷えるような悪印象を持ったのだ。そんな人と一緒に暮らせるわけがない。
うん、と頷いて顔を上げる。
「決めた。リドルの家にも、ホイストン卿の元へも行かない」
声に出したら、胸がすっとした。
シリルが置いてくれる限りローラはここで働くし、解雇されたら今度こそ王都を出て、伯父たちの手の届かない遠くへ行こう。
「よし! 動こう」
さっとベッドから下りると、チェストへ向かった。
次に伯父がどう動いてくるのかは分からないが、じっとしていると考えが暗い方向へ行ってよくない。考え込んだところで他人の心は知り得ないのだから、今の自分にできることをしよう。
手早くいつものメイド服へ着替えると、鏡を覗く。髪をブラシで梳き始め、そこでふとローラの手が止まった。
(昨日の、ウィッグの髪のほうが綺麗……だね?)
手触りの違いに驚いて自分の髪を摘まみ上げると、見事にパサパサだった。
これなら、犬になったシリルの毛並みのほうが艶やかだろうし、この髪のまま昨日のワンピースを着たらきっと不釣り合いだ。
「最後に切ったの……いつだっけ」
侯爵家に来て健康になった自覚はあるが、長い間ろくに手入れもできなかった髪は痛んだままだった。
ローラがダンフォード侯爵家で会った人はフレディとシリル、それに出入りの業者が一人。人数の多い少いは関係なく、彼らは他人で上司で取引先だ。こんな髪でそんな人たちの前にいたのかと急に恥ずかしくなる。
「……髪も手入れしたほうがいいかな」
思わず口に出た自分の言葉に驚いた。
(あれ?)
清潔であれば身なりはどうでもいいと思っていた。でも今は、それではいけない気がする。
(で、でも、身だしなみを整えるのは悪いことではないし、ワンピースだって綺麗な髪のほうがきっと似合うし……っ)
などと言い訳のように焦って理由を付けるが、こんなこと、リドル家にいて思ったことがなかった。
鏡に映った自分の頬は見て分かるほど赤くなっている。直視できずに視線を逸らすと、チェストの上に載せたレシピブックが目に入った。
(あ、あの本)
昨日、下町に行く前に軽く眺めただけでも、作ってみたいレシピがいくつかあった。今日、なにか作れないだろうか。
普段の仕事に気持ちを戻すと、ようやく心も落ち着いた。
(この本の料理を作ったら、侯爵様も喜んでくれるかな)
フレディは美味しかったとかこっちが好きだとか感想を言ってくれるが、シリルからはまだちゃんと聞けていない。ローラの食事に文句はなさそうだが、好物のひとつくらいあるだろう。
(どうせ作るなら、食べたいもののほうがいいよね)
今日は、昨日録音した女将の歌を文字に起こして内容を調べる予定だ。頭を使うだろうから、甘いものでも用意しよう。
らしくなく取り乱した原因である髪をぎゅっと後ろでひとつに結ぶと、ローラはレシピブックを持って部屋を出た。




