泉 鏡花「楊柳歌」現代語勝手訳 二十九
二十九
色のない柳がさらさらと揺れ、長い廻廊に十、十五の燈籠が一列にすっと灯を潜めている。音もしない風が流れれば、女の黒髪が颯と濃く見える。舞台はこの時、暗くなっていた。
「白粉つけたしゃくんだ(*塗りたくった)面で、毛むくじゃらの胡座かいて、アイ来た、まだ出る、まだ出る言うて、弟子や男衆の見る前で、姉はんのその文を、チャンカチャンカと囃しもうて、文箱からずるずると長う引っ張って出しやはったえ。……
私な、姉はんのために、毒を飲む気で、俳優が前歯噛んだまま吐き出いたその臭い嗅いだ。……悪い酒も敵わんくらい……黴びた干瓢の味がしたえ」
と、手巾を口に当てたが、吐くと言うより、身を絞って、血を濯ぐかとも思えるほど切なげに、肩を絞るのがあわれに見えた。
「でもな、姉はんは死なはった。相手が黴びた干瓢やかて、私がそうしたに違いはない。――済む、済まんは別にしても、懐かして、恋してな、早う傍に行きとうおす。……」
たとえ、そうしないまでも、私は容易く覚悟が出来る。一息にただ、目を瞑りさえすれば、そのまま氷の下へ行けそうなことも毎々で。
幼い時、すぐ隣家から火が燃えたことがある。私を負ぶって、裏木戸の水門で、川原で釣りをするのを見ていた子守が、狼狽えたあまり、煙の舞い込む縁側へ駆け込んで、何を慌てたのか、私を押入の中へ入れた。そして、閉めた。……幸いに自分の家は焼けなかったが、半壊しで、床の間の壁を鳶口で突き落とす音を聞きながら、入ったきりで、出もしないで、震えてばかり居たとお桐は言う。
近年のこと、円山の他阿弥楼(*ホテルの名)とかで、白昼火を出したことがある。……その時は、お偉いお客さんに呼ばれて、ちょうど一さし『山姥』を舞っていた。ソレ火事だ、と言うと、蜂の巣を突いたように湧き立って、羽を真赤に、客も芸妓もわっと遁げた。が、どれほど急でも、芸の最中、そうまでには取り乱されず、さす手を控えて、捲袖の扇子をかざして、峰(*前上方)を見れば、欄間を覗く煙の端、黒雲が颯と吹き下ろす。小褄もあげず、裳裾を曳き、舞扇を小脇に締めて、畳廊下を落ちる身が、遁げ後れてただ一人。矢を射るような炎に追われて、式台(*玄関先の一段低くなった板敷き)際まで走って出ると、水も人も渦巻く中、通りかかった兵士が一人、火を見て救おうと駆け込んだ出会い頭、躍り上がる足の発奮に、この膝頭をはたと蹴った。あっと脛も萎え、帯を乱し、崩れたように腰を落とすと、その場面に驚いて、兵士は立ち竦んでしまい、熟と見るばかり。火よりもその顔の恐ろしさに、あれ、と廊下へ駆け戻って、煙の下を座敷へ抜け、広縁から庭へ遁げたが、炎はたちまち廂を嘗めて、濁朱が烈しく流れ、松に浴び、葉尖から火花が散る。……火の勢いに、もうどうしようもなく、藤の花が見る見る色を変える棚の下に、べったりと諸膝組んで、舞扇を開いて敷きつつ、覚悟の口に袂を銜えて、薔薇の薫る手巾に、息を吐き、気も遠くなりながら、つい、別に焦って悲しくもなかったところを、お参りに来ていた信者で、東京の火消しが、彫物をした裸体の肩に引担いで出たと言う。
火は当日、別室で婚礼の披露目があって、まだ媒酌人も来ない先に、桜炭(*佐倉炭。クヌギからつくる上質の炭)が蒲団に刎ねて、花輪桜(*注1)の梢を揺すった折からの風に煽られて燃え始めた、と後で聞く。……(*注2)
今日の話のついでに思えば、その火事は思わぬ男に添わねばならぬ仔細があって、嫁になるべき振袖が、焼滅ぼした火かも知れない。
「焚かれて死ねば可うおしたな。けど、藤の房では、じっとして、掴まって死ぬには頼りないのえ。もしも同じ色の紫の振袖やったら、助けよう、言やはっても、火の中を出るのやなかった。
記念のお召縮緬や、裾模様をな、二階の部屋の衣桁(*着物などを掛けておくもの)に掛けて、夜さりなどな、姉はんにもの言うて、一人で泣いているところは、その昔の江戸の、そのな、娘はんと変わらんけれど、弱いえ、迚も火になって、振袖に燃え立って、天へ上る力はおへん。思う的がないゆえどす。恋しい人を知らんゆえ。
氷の下の水がのうては、炎の上の煙にもなれん。何やかて(*どうやっても)、私なぞ、露玉はおろか、小糠雨にもなれんやろ。
そしたら、東京の女子衆にも恥ずかしいやないか。私口惜しいもの。あんた、途中でも頼んだ通り、児ヶ淵へ連れて行て、せめて、一雫、袖の涙に、……私を水にして欲しい! 京の人やったら頼みやへん」
と、復び縋った袖を引かせたまま、清之助はすっくと立って、息も吐かず、お桐を凝視めた。
瀧の響きも途絶えるように、もくもく、もくもくという音が聞こえる。それに交じって、衝と閃いて、あいあいという声が、幽かに、綺麗に、音羽山の奥の淵の水底から、山を貫き、地を潜って、大爺が蹲る頭巾よりむくと堆い、大いなる蒲団の上の木魚の下にでも籠もっているように、凄く美しく聞こえるのである。
「お桐さん」
と、清之助は力ある声を沈めて言った。
「…………」
目と目が熟と合った時、
「行こうよ」
「え?」
「児ヶ淵へ」
「あ、行かはるか」
と……珍しいまでに、少し燥いだ。そして、飛び立つような身のこなしで、
「もう、こんなもンな、放かって」と、かなぐるように手を放す……その護謨風船の影は見えずに、山の襞襀がばらばらと、漆黒の木の葉を映して、音羽の梢を倒に、つつと糸を曳いて真蒼な星が流れた……児ヶ淵へ落ちたのだろう。
と、晃然と飛んだ筋を辿って、そこへ山を越す路筋の、落葉、枯葉が散り埋まる、松の下、谷、藤蔓、桂、薄の切株、木の根も白けた骨の中に、底澄んだ淵の藍のようなものが幽かに風も添いながら、すべての草がおどろおどろと動いて見えるような気がして、そことも区別できず、湿った薫りが颯と来た。
お桐の裾は、居ながらにして、その乱れ敷いた常磐木の枯葉の上に乗っているように見えた。
途端に、清之助は手早く外套を脱いで投げたが、下へ捲き落ちるはずの勢いが、重量で留まって、舞台の欄干に翻然と掛かる。
清之助は、痩せぎすな中背の、羽織の袖をぐいと締めながら、お桐の手を確乎と取って、
「顔をご覧」
と言う。……調子が変わった。
「顔をご覧、私の、私の顔を」
と、お桐を屹と見据えて、
「袖を、袂を、帯を。……二階の居間に掛けておく、記念のその小紋にも、裾模様にも見えるだろう――それ、襦袢も紅い花がこぼれる。菖蒲、おもだか、岸の白菊、水の中を今出たような、振袖を着ているよ。可哀相にお前、お桐さん。可愛い人を、淵に沈めて可いものかね。
私が殺しはしないから」
肩を胸に抱き込んで、
「さあ、よく顔を見せておくれ、可懐しかった、可懐しかった。清之助じゃないよ、お桐さん、顔をご覧、私の顔を」
と言う。色が白く、鼻筋が通り、眉は鮮やかに浮き出るよう。舞台の空に星を透かした影のない楊柳が緑を籠めて……ああ、観音の御功徳が、額に鬢にはらはらと滴るばかりに、肩に余って、同じくらいの長さの黒髪。
「ああ、姉はん」
と、恍惚したお桐は、ぶるぶると戦いて縋った。
「あい」と清之助は優しく答えた。
その時学んだ不思議な声は、もくもく、もくもくとして、暗にふっくりと湧くその木魚の底に沈んで聞こえた、と思える声音であった。
で、この時ほど、心のまま、思いの丈、骨髄を徹して婦人に扮し得たことはない。――と清之助は人に語る。……
この人、姓を簔山と言い、当時若手の立女形である。祇園の芝居に約束が出来て、初めての京上りに、それとなく、土地の名所を見に、一度先んじて潜に旅をした。……これはその時のことであった。
こうして、お桐の心をやや宥め得た時、清之助は自分の生命も助かったように思った。淵へ行く女の力は断つことのできない絆であったと言う。なお、清之助が慄とするまで、また凄く、そして美しく、潔く感じたのは――更めて手を取った時、力を無くしたお桐の腕を辷って、手尖から外れて冷たく光った、淵の水で拵えた、露のような一連水晶の数珠であった。
昼間からずっと、思うように肩の上へも手を上げなかったのは、京の女の、つつましく優婉なためだけではない。腕にその数珠が秘されてあったためであった。
注1:花輪桜……弦巻克二氏の『楊柳歌』私注の中に、円山公園内にある枝垂桜を鏡花が<花輪桜>と命名したとある。
「ことばとことのは 第七集」P.106
注2:実際に、他阿弥楼は明治39年4月17日、失火している。ただし、ここに書かれているような白昼ではなく、夜中の出来事であった。また、その失火原因も煙草の不始末であるとされている。
(了)
今回で「楊柳歌」は終了しました。
拙い日本語を辛抱強く、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
浅学のため、分かりよい現代語に置き換えるのに、困難な箇所がいくつかありました。
もし、ご専門の方で(もちろん、それ以外の方でも)、お解りになる方がおられれば、お教え下されば幸いです。
また、大きな誤訳があれば、ご教示下さい。
随分久しぶりになりましたが、「楊柳歌」を勝手訳するのに当たり、実際清水寺に足を運びました。
この作品と同じように、松原橋を起点にして、清水寺までずっと、坂を上り、石段を前にし、狛犬を眺め、二体の仁王様を覗き込み、仁王門の腰貫を探し、廻廊を巡って、音羽の滝まで歩きました。
ただ、明るい時間に訪れたので、作品に描かれているような趣のある風景ではありませんでしたが。それでも、この光景が黄昏から夕闇に変わる姿を想像していました。
しかし、こうしても、鏡花が描く清水寺を自分のものとして、その情景を上手く現代語に置き換えるのはできませんでした。
「四」の後書きに生島遼一氏の文章を載せておきました。
明治生まれの彼のお母様が鏡花の小説をどんな風に読んでいるのだろうかと、興味を持って見ていたところ、そんなに苦労もせずに平気で読んでいるのが不思議に思われたとして、
「私の母の若かったころ、明治二十年三年年代ころには小説の文体などというものは現今よりももっと自由だったのでないか」と書かれています。
文体もそうですが、読み手にしても、細かいことにこだわらず、もっと自由に自分で想像しながら読んでいたのではないかと、私などは思ったりします。
そんな文章を現代の言葉に置き換えるのは、そもそも無理なのではないか。自分の文才を棚に上げて、そんな言い訳がつい、口から出そうになります。
2 参考、引用文献
「楊柳歌」の勝手訳に際し、いくつかの著述を参考としました。
ここにまとめて書き上げておきます。
○ 『楊柳歌』の京都、あるいは清水寺 ――<観音功徳>の顕現をめぐって―― 西尾元伸 「論集 泉鏡花 第五集」 和泉書院 2011年9月
○ 『楊柳歌』私注 弦巻克二 「ことばとことのは 第七集」あめつち会
○ 泉鏡花の『楊柳歌』――柳の歌と鏡花の原風景―― 横田 忍 国文学年次別論文集 近代1平成21年
○ 清水寺楊柳観音説話覚書 中前正志 女子大国文 平成11年6月20日
○ 関西の鉄道と泉鏡花 田中励儀「鉄道――関西近代のマトリクス」 和泉書院 2007年11月
○ 「祇園物語」の成立過程――泉鏡花と京都―― 田中励儀 論集 泉鏡花第二集 泉鏡花研究会編 和泉書院 1999年10月
○ 京 暮らしの彩り 大村しげ 佼成出版 昭和63年9月
3 お桐はどうなったか?
さて、最後に読者の皆さまに質問です。
清之助と会った後、お桐はどうなったとお思いでしょうか?
(1)自死の決意は強く、児ヶ淵に身を投げた。
(2)清之助に諭され、自死はしなかった。
結論はこの作品の中には描かれていません。
上に挙げた論文の中にも、自死したというものと、しなかったとするもの、二つの意見があります。
弦巻氏は
『お桐の入水は宿命であった』と読み、
横田氏は
『夕暮れが闇夜に変わる時刻に、死に引き込まれそうな極限の場、古い歴史を背景にした始原の場で清之助はお桐の姉に変身する。そのような時空でこそ芸能の力はお桐の自殺を思いとどまらせ得たのである』として、思いとどまったと読んでいます。
また、西尾氏は次のように書いて、自死はしなかったと考えています。
『ところで、本作の結末をめぐっては先行論において意見が分かれている。清之助が姉に扮するこの場面の後、お桐は児ヶ淵へ沈んだのか、否かである。もう一度、後日談の部分を引用しておきたい。
恁くて、やゝお桐の心を宥め得た時、清之助は、自分の生命も助かったやうに思ふ。淵へ行く女の力は、断たれぬ絆であったと言ふ。尚清之助が、悚とするまで。且つ凄く、且つ美しく、潔く感じたのは、――さて更めて手を取った時、淵の水をつらぬき留めた露のやうに、力なきお桐の腕を辷り、手尖にはづれて、冷たく光った、一聯水晶の数珠で。(二十九)
まず、ここにはお桐が児の淵へ行ったとは書かれていないように思われる。書かれていないことを判断するのは困難だが、作品の展開に従えば、観音功徳の顕現によって清之助はお桐の姉に姿を変え、お桐は姉の姿を目の当たりにして、姉の口から「私が殺しはしないから」(二十九)と伝えられたのである。お桐が再度、児ヶ淵へ向かう必然性はないのではなかろうか。なおかつ、清之助は「自分の命も」助かったと言っているのだから、お桐も命を落とすことなく、同じように救われたと考えるのが自然だと思われる』
ただ、私が気になっているのは、
作中の「淵へ行く女の力は、断たれぬ絆であったと言う」という文章です。
この一文がなければ、私もお桐が思い留まったと想像する(想像したい)のですが、これがどうも気になっています。
皆さまはどう思われたでしょうか。




