泉 鏡花「楊柳歌」現代語勝手訳 一
泉鏡花の「楊柳歌」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
ここに出てくる、「京ことば」は、すべてではありませんが、できる限り原文のままにしています。その上で、分かりにくいと思われる部分は(*)において、注釈を加えました。誤っている箇所があるかも知れません、お教え頂ければ幸いです。
また、文中、(*)での注釈が長すぎたりする場合は、読みやすさを考えて、(*注)として、各章の後に記載しています。
浅学非才、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたり、「鏡花全集 第十三巻」(岩波書店)を底本としました。
全29回。
一
松原小橋の停留場で、当日二人が電車を下りたのは黄昏時だった。
「ここ、ここ」
と、清之助は外套の下で腕組みをして、あの、通りの西側を颯と流れる浅葱色(*青色に近い藍色)した京の水が風で波立っている岸を覗き、
「着いた晩です。……知っているような顔をして、翻然と威勢よく飛び下りたは可いけれど……もう一足で危うく、川に踏み込もうとしたんだよ。暗いところへ、勝手も分からず、いや、おのぼりは、のっけから吃驚さ。……確かにここだっけ」(*注1及び「後書き」参照)
こんな時分、一時でも、上る下る人通りの、混雑している中に立ち止まっていれば、自分が名告らないでも、その風采で「おのぼりさん」だとよく分かる。……名所図会(*江戸時代、旅行者などのために作られた絵図入りの案内書)以来、祇園の前の二軒茶屋では、赤前垂れの姉さんが、ずらりと揃って、とんとととと、とんとんとんと豆腐を切る……と、その様子を和蘭陀の唐人が長い煙管をだらしなく咥えて、ぼぅっとその顔に見惚れている(*注2)、そんな風なのが「おのぼりさん」で、今の自分がそういう状態にあるのだというのは自覚している。
それに付き合ってくれるのは……この地では何も珍しくはないだろう、木の葉一枚流れぬ水に、同じく袖を映した、襟直し(*舞妓が芸子になること)して二、三年、舞妓上がりの今若手で、花の都に紫の俤を見るような(*注3)、お桐という祇園の芸子、薬湯の町(*現在の花見小路)の名取りである。
しかし、決して派手ではない。こう、俯向きがちの、襟を深くして、細りした姿に引き締めて着ているので、その二枚小袖の下着の褄も捌かないが、それも上着と同じ大島を襲ねたらしい。白羽二重の裏細く、たよたよとした八ッ口の、帯腰に掛かるのが、白無垢のようで清らかで、雪の膚には冷たそう。紋は八重の桔梗の花らしいが、ちょっと白桃に見える。その三ッ紋(*背紋と袖紋2カ所に入っていることから)の羽織の黒縮緬が、――生え際の濃やかな鬢の毛のやや曇った中に、星の簪の珠と共に、――この女の色香に栄えて、濃い紫に視められる。
身動きをすると、菫の薫りで、
「あんたなあ、暗夜でも覚えてお居やすか」
と、清しい眉をして優しく言う。
「驚いたから覚えていますとも。だが、何だねえ、夜見たよりは町の幅が広いようだね」
「あのな、」
と袖を合わせたまま、顔だけを振り向けて、
「電車が往きやはる、来やはるよって(*往き来するから)、家が引っ込みはったんえ」
と露が今にも垂れそうな黒目がちな瞳で教える。
清之助は真面目な顔をして
「はてな……ははは」
と笑い出した。
「そうかい、いや、家が引っ込みなすったら、人間は、さあ、お出かけなさろうってものか」
お桐は襟もきちんと澄まして、
「何を笑やはる、私可厭え」
と人懐っこそうな表情で斜めに見て、
「頬に何ぞ着いてやへんの(*何か付いてるの?)」
「何の、頬辺にもしか着いているとすれば、笑窪の他はないだろうがね、口が些と可笑しいぜ」
「えっ」と、袖口を口に当てる。紋が揺らいで、含まれた呼吸がその真っ白な花片に触った。
「嘘だよ。お前さんと私が二人で居るだけで、紅は外れはしないがね。……だって変だもの。家が引っ込みやはるって言うからさ」
やっと分かって、莞爾した。切れの長い目を伏せて、
「憎体(*意地悪)やな。そない毒なこと言いやはるなら、私もう清水様へ連れてっては上げへんえ」
と肩を細く、衝と伸び上がるようにして横を向く。
「ああ、謝るよ。今日のところは杖柱(*一番頼りにしている人)とお頼み申す。何分にも宜しく」
「それな、貴下やかて、そない言いやはる。私のこと杖やって、おかし。ちょっと、もしな、お爺はんでいやすかえ」
柄のない所へ柄を箝げて切り返したのも、うら若い。――今日は昼頃から一緒に歩行いた。その途すがら、心づくしの案内ぶりで、電車がただ通るのさえ、あれ往きやはると、言い教える。――蒼い焔で飛ぶ車(*火花を散らすパンタグラフで走る路面電車)もこの人の語に乗ると、真綿の上をすらすらと辷るように見えて、清之助はおかしいどころか、本当のところを言えば、その口調は柔らかに懐かしく身に染むのだった。
注1:この川は高瀬川である。当時、京都には路面電車が走っており(京都電鉄)、その路線は現在市バスが走っている河原町ではなく、高瀬川に沿う狭い木屋町を走っていた。そのため、電車から降りる際に、高瀬川に落ちるという危険性があった。実際落ちた人もあったという。
注2:それと思われる図が、都名所図会 拾遺 巻2の「祇園 二軒茶屋」にある。検索すれば見られます。
注3:紫の俤……お桐という名前で、桐の花が紫であること、実際は白抜きの紋ではあろうが、桔梗の花も紫のイメージであること、黒縮緬が濃い紫に見えること、菫という言葉からも紫が連想させられることなど、この作品においては、紫に関するイメージが彷彿とさせられている。
やはり、鏡花の文章は一筋縄ではいかず、細かい部分では、意味を取るのが難しい箇所がある。
また、冒頭の文章を読んだ時、まるきり解らない箇所があった。清之助が思わず足を踏み込もうとした川の部分である。この作品が発表された当時は、読めばすぐピンときたのかも知れないが、時代を経ると、この文章だけではその川が高瀬川だとは気づかない。少なくとも私には分からなかった。
田中励儀氏の「関西の鉄道と泉鏡花」の『五「楊柳歌」と京都の路面電車』にはこうある。
鏡花は南座出演中の新派俳優喜多村緑郎に招かれて京都に遊んだ。その時の体験を基に生まれたのが「楊柳歌」である。「南座で電報を受け取った喜多村は、京都駅まで番頭と弟子の二人を、鏡花迎え役に出した。(略)当時電車は河原町を通っていず、高瀬川に添う狭い通りを走っていた。泉先生は案外の慌てん坊で眼が近いから、川へでも落ちたら大変、夜行で到着とて丁寧に手を引いて案内するようにと、彼は出迎えの二人に注意した」(大江良太郎「喜多村緑郎聞書」『新派 百年への前進』昭53・10・1、大手町出版社)。
……略……
つまり、鏡花は喜多村が心配したとおり、路面電車から下りた途端、実際に高瀬川に落っこちそうになったという訳である。
……略……
路面電車が全廃された現在では分かりにくいが、今の市バス路線はおおむね廃止時の市電路線を踏襲している。したがって、市電は河原町を走るものというのが、私たち昭和世代の感覚だろう。ところが、創業時の京電路線は河原町ではなく木屋町を走っていた。
……略……
明治二十八年に京電木屋町線が開通、明治四十五年には市電となり、昭和二年に河原町線の全面開通によって廃止されるまで、狭い木屋町を路面電車が走っていた。
(鉄道――関西近代のマトリクス 日本近代文学会関西支部編 P.24-25)
なお、鏡花が実際京都を訪れた際、喜多村が推した祇園の子持ちの芸者が案内役として、鏡花と一緒に京都見物をしているが、この辺のもう少し詳しい事情が、弦巻克二氏の「『楊柳歌』私注」(「ことばとことのは 第七集」あめつち会)に書かれているので、興味のある方はご参照ください。




