十章 Yumi
戸神としてSAへ戻ってから数日が経った夕方、滝本は社長室のデスクに置かれたタブレットを閉じた。
目を通していたのは《Second Life Connect》の月次報告だった。利用者数、継続率、課金額、イベント参加率。数字そのものに見覚えはない。それでも、どこを見ればサービスの状態を把握できるのかは、なぜか分かった。
会社へ戻ってから、そんなことが増えている。深煎りのコーヒーが好きだったこと。書類を見るとき、まず全体を眺めてから必要な箇所へ目を移す癖。14階で開発中の画面を見ても専門用語のすべてを理解できるわけではないのに、説明されれば内容を追うことができる。そして昨日は、下山という開発者の仕事を横から見ただけで、調べる場所が違うと思った。記憶はない。それでも、何も残っていないわけではない。その境界がどこにあるのか、滝本には分からなかった。
「まだ見てたんですか?」
声に顔を上げると、遥が社長室へ入ってきた。会社では井川沙織として振る舞っているため、手には秘書らしく書類を抱えている。
「暇なんだよ。社長ってのは、もっと忙しいものだと思ってた」
「九条さんが仕事を回してないんでしょうね」
「だろうな」
3か月も会社を離れていた人間が突然戻り、今日から以前と同じように会社を動かすと言われても困るのだろう。まして滝本は、仕事をしているふりはできても、実際にSAの経営判断などできない。九条からすれば、今は余計なことをさせずに様子を見たいというところなのかもしれなかった。
遥は扉を閉め、抱えていた書類をデスクへ置いた。
「少し、見てもらいたいものがあります」
「何だ?」
「《Second Life Connect》です」
「昨日見ただろ」
「サービスそのものじゃありません。気になるユーザーがいるんです」
滝本は椅子にもたれた。ふと、遥に対して敬語を使わなくなっていることに気づいた。会社で社長を演じることに少し慣れ、そのままの流れで話してしまっている。遥はそれを気に留めている様子もない。
「ユーザー?」
「はい。少し前から、一部の利用者の間で話題になっています。私も最初は関係ないと思っていたんですが、調べているうちに気になって」
「何が?」
「説明するより、見てもらった方が早いです」
遥はそう言って社長室の時計を確認した。
「ここではやめておきましょう」
「会社のサービスだぞ?」
「だからです」
その答えだけで、滝本にも意味は分かった。誰がどこまで自分たちの動きを把握しているのか分からない以上、会社のネットワークや端末を使って余計な履歴を残す必要はない。
仕事を早めに終え、お互い家に戻って着替えを済ませた後にお馴染みになりつつある喫茶店へ場所を移した。
夕方の店内には数人の客がいるだけで、二人はいつもの奥の席に腰を下ろした。マスターがコーヒーを置いてカウンターへ戻るのを待ってから、遥はバッグから薄型のノートPCを取り出した。
「それで、見せたいものって?」
遥がPCを起動し、サービスへアクセスした。
《Second Life Connect》は2008年に始まった仮想空間型のコミュニケーションサービスで、開始当初から何度も大規模な更新を繰り返し、2026年の現在も運営が続いている。
ログインが完了すると、画面に遥のアバターが現れた。
頭上に表示された名前は《Saori》。井川沙織から取ったのだろう。
「そのままだな」
「考えるのが面倒だったので」
「その割には、ずいぶん作り込んでないか?」
「会社で使うこともあるんです。最低限ですよ」
遥はそう言ったが、アバターは髪型から服装まで現実の彼女にどことなく似ていた。本人に言えば否定しそうなので、滝本は黙っておくことにした。
《Second Life Connect》はPCだけでなく、スマートフォンやVR機器からも利用できる。利用者はアバターを作り、街を歩き、他の利用者と話し、コミュニティへ参加する。プロフィールや投稿、メッセージ、フレンド、フォローといった一般的なSNS機能も統合されていた。それだけなら、今となっては特別珍しいサービスではない。特徴的なのは、18年という時間をかけて蓄積された仮想空間そのものだった。街には利用者が所有する住宅や店舗があり、企業が運営する施設もある。イベント会場ではライブや展示、交流会が開かれ、古くから利用している者の中には、現実とはまったく別の人間関係や生活圏を《Second Life Connect》の中に築いている者もいる。
「この前14階で説明を聞いたときにも思ったけど、よく18年も続いてるな」
「途中でかなり形を変えてますからね。始まった頃とは別物だと思います。今はSNSとゲームと仮想空間を全部まとめたようなサービスです」
基本利用は無料だが、アバターの衣服や装飾品、住宅、家具、イベント用アイテムなどには有料のものがある。企業とのコラボレーションも多く、現実の商品やイベントと連動して限定アイテムが配布されることもあるらしい。
遥は慣れた操作でSaoriを街の中へ進ませた。夕方ということもあり、広場にはかなりの数の利用者がいる。何人かが輪になって話し、その横を別のアバターが走り抜ける。少し離れた場所では、企業が開催しているらしいイベントの告知映像が巨大なスクリーンに流れていた。
「それで、気になるユーザーって?」
「Yumiです」
遥が検索画面を開き、名前を入力した。複数のアカウントが表示され、その中から一つを選ぶと、女性型のアバターと簡素なプロフィールが現れた。
表示名は《Yumi》。
自己紹介はほとんど書かれていない。公開されている投稿も極端に少なく、フォローやフレンドの数も皆無だった。
「何が気になるんだ?」
遥はプロフィールの別の項目を開いた。アバターが所有している衣装やアクセサリー、住宅、家具など、本人が公開設定にしている一部のアイテムが表示される。
「かなり持ってるな」
「ほとんど有料です。それも、高額なものが多いんです」
「金持ちなんじゃないのか?」
「私も最初はそう思いました」
遥は画面をスクロールさせた。仮想空間内の住宅も一つではない。複数のエリアに物件を所有し、それぞれに家具や装飾が揃えられている。アバターの衣装も大量にあり、かなりの金額を使っていることが窺えた。
「14階で村越さんにも確認しました。個人の利用情報までは教えてもらえませんでしたけど、このアカウントが運営側のものなのかだけは聞きました」
「違った?」
「普通の一般ユーザーだそうです。運営用の権限もありません」
「じゃあ、金を使ってる一般ユーザーだろ」
「そうなんです。それだけなら、何もおかしくないんです」
遥は別の画面を開いた。そこにはYumiの公開されている最近の活動が並んでいた。ログインそのものは珍しくない。しかし、他の利用者とのやり取りがほとんどない。投稿に反応を付けることもなければ、自分から誰かをフォローすることもない。コミュニティへの参加も少なかった。金を使い、仮想空間には頻繁にいる。それなのに、人との関係を作っていない。
「ゲームみたいに、物を集めるのが好きなだけじゃないのか?」
「そういう人もいます。でも、この人の場合、少し違うんです」
遥はSaoriを再び動かした。街を抜け、住宅が並ぶ区域へ入る。整備された道路の両側には大小さまざまな建物が並び、その前を何人ものアバターが行き交っていた。遥は迷うことなく一軒の住宅へ向かった。
「ここがYumiの家?」
「所有しているうちの一つです」
「勝手に入っていいのか?」
「公開設定になっているので」
玄関を通り抜けると、広い室内が現れた。現実なら相当な金額がかかりそうな家具が配置され、壁には絵画、窓際には観葉植物が置かれている。仮想空間なのだから本物ではない。それでも照明や素材の質感まで細かく作り込まれ、モデルルームのように整っていた。
その中央に、一人のアバターが立っていた。
《Yumi》
「いるじゃないか」
「ええ。ログインしています」
女性型のアバターだった。派手な外見ではない。むしろ周囲の豪華な家具と比べれば、驚くほど普通に見える。ただ、まったく動かなかった。遥がSaoriを近づけても反応はない。
「放置してるんじゃないのか?」
「かもしれません」
遥はメッセージを入力した。
《こんにちは》
送信してから数十秒待ったが、返事はなかった。Yumiは同じ場所に立ったままで、顔の向きすら変わらない。
しばらくして、チャット欄に新しい文字が現れた。Yumiからだった。
《Words fly away, the written remains.》
遥は画面に表示された文字を見ながら言った。
「『言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる』という意味の格言です」
滝本はもう1度、その文章を読んだ。Yumiは動いていない。遥が送った挨拶に対する返事としては、明らかにおかしかった。
「これを前にも?」
「はい。私だけじゃありません。話しかけた別のユーザーにも、同じ言葉を返したことがあるみたいです」
「それで話題になってるのか」
「何を聞いてもほとんど答えないのに、突然これだけを残す。今では意味を推測している人たちまでいます。運営が仕掛けたイベントじゃないかって話も出てます」
「村越は違うって言ったんだろ?」
「はい。少なくとも会社が用意した公式アカウントではないそうです」
滝本は画面へ顔を近づけた。
《Words fly away, the written remains.》
言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる。
意味そのものは難しくない。口にした言葉は消えても、書かれたものは残る。それだけの格言にも思える。
遥が新たなメッセージを入力した。
《どういう意味?》
返事はない。
「……まあ、行動は良くわからないが、これが何か俺たちと関係があるのか」
遥はすぐには答えなかった。カップを手に取り、少し冷めたコーヒーに口をつけてから画面へ視線を戻す。
「兄は、《Second Life Connect》についても調べていました」
滝本は遥を見る。
「SAが運営しているサービスだから調べていたんだと思っていました。兄の残した資料にも《Second Life Connect》に関するものがいくつかあったんです。ただ、サービスそのものに何があるのかまでは分からなかった」
「このYumiが関係している証拠は?」
「ありません。このYumiのアカウントが作られたのもここ最近です」
「なら偶然かもしれない」
「そうです」
即答だった。
「ずいぶん素直だな」
「無理に結びつけたら、何でも証拠に見えてしまいますから」
滝本はカップを持ち上げながら、わずかに笑った。
「それは正しい」
遥は画面を見たまま、少し眉を寄せた。
「ただ、気になるんです」
「この言葉が?」
「それもあります」
遥はYumiのプロフィールへ戻った。
「この人、《Second Life Connect》を使い始めたばかりなのにかなりのお金も使っています。それなのに、人との交流にはほとんど興味がない。投稿も少ない。自分のことも書かない。何のためにここにいるのか分からないんです」
「現実だって、SNSを眺めるだけの人間はいくらでもいるだろ」
「います。でも、この人は眺めているだけでもない。家を買って、家具を揃えて、服を買って、とにかくサービスに浪費しています。サービスの中にはかなり深く入り込んでいるのに、自分自身については何も残していない。まるで自分を目立たせて何かを伝えようとしているような、何かの情報を提供しているような」
「考えすぎな気もするがな。俺からしたら君は何かしらの情報を求めて、急いで解釈しているようにも思える」
そう言いながら滝本はプロフィールを眺めた。確かに奇妙ではある。だが、奇妙であることと、自分たちが探しているものがそこにあることは別だ。
「確かに、……そうですね」
遥は視線を落とした。
兄がこのサービスを調べていたことと、Yumiがそこにいること。その間にあるものが、まだ見えなかった。
「しばらく見ておくしかないな」
遥は少し考えてから頷いた。
「そうですね。何か分かるかもしれませんし」
遥がノートPCを閉じようとしたとき、滝本はもう一度だけ画面へ目を向けた。
豪華な家具に囲まれた部屋の中央で、Yumiは相変わらず動かずに立っていた。こちらから話しかけなければ、何も起こらない。ただそこにいるだけの、見知らぬ利用者だった。
滝本には、その姿が何を意味するのか分からなかった。そもそも、意味などないのかもしれない。
「帰るか」
「はい」
遥がログアウトし、ノートPCを閉じた。
Yumiという名前だけが、滝本の頭に残った。
明日になれば忘れてしまうかもしれない。それほど曖昧で、取るに足らない違和感だった。
だが、今はまだ、忘れる気にはなれなかった。




