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1話 擦り切れ

記憶の買取は、だいたい現金即日。


売った瞬間、客の目から光が一つ消える。

それがこの仕事の、一番わかりやすい部分だ。


「……これで、いいんですか」


カウンターの向こうで、女が震える手を引っ込めた。

四十代。安いコート。爪の先が少し割れている。


「査定、終わりました。四万八千円です」


「よんまん……」


「はい。娘さんの記憶、十歳のフィギュアスケートですね」


女はうつむいた。

売る前に、何度も確認した。「本当にいいんですか」と。

女は毎回うなずいた。

そして今、売ったあとに、初めて泣きそうな顔をしている。


順番が逆だ、といつも思う。


「……あの、一つ聞いてもいいですか」


「はい」


「私、何を売ったんでしたっけ」


「娘さんが、初めてジャンプを成功させた日の記憶です」


「……そう」


女は立ち上がった。

財布を握りしめて、店を出ていく。

ドアベルが鳴って、あとは静かになった。


俺はカウンターの下から、査定済みの瓶を取り出した。

親指ほどのガラス瓶の中に、淡い光が渦を巻いている。


記憶の瓶。

これが、この世界の商品だ。


俺——縫坂綴は、記憶買取店「継ぎ目堂」の店員をしている。

売られてくる記憶を査定して、値段をつける。

資格も免許もいらない。特別な技術もいらない。


ただ、一つだけ。


「……継ぎ目、一本だな」


瓶の中の光に、細い線が見える。

ギザギザに、縫い合わされた跡。


ジグザグの継ぎ目。


後から誰かが、この記憶に別の記憶を縫い足している。


本物の記憶なら、継ぎ目はない。

一本の光が、まっすぐ流れているだけだ。


でもこの瓶は違う。

女が売った「娘の初ジャンプ」の記憶に、別の誰かの記憶が混ざっている。


しかも、縫い方が雑だ。

端がほつれている。素人の手口。


「……これ、言った方がよかったかな」


言わなかった。

言えば、女は売るのをやめたかもしれない。

そしたら、今日の家賃が払えなかったかもしれない。


それに——どう説明する?


「すみません、この記憶、誰かに縫い足されてます」


そんなこと、言われた女は何と思うだろう。

意味がわからない。

だって、この世界で、記憶を縫い足せるなんて、誰も知らない。


知らないことになっている。


俺は瓶にラベルを貼った。


品名:娘の初ジャンプ

状態:擦り切れ・継ぎ目あり

買取:四万八千円

売値:未定


「お疲れさまです」


奥から、店主が出てきた。

白髪混じりの、年齢不詳の男。

いつも同じ古いカーディガンを着ている。


「今日は三人か」


「四人です。さっきの女で」


「ふうん」


店主は俺の手元を一瞥した。

瓶を見る目が、少しだけ止まる。


「……継ぎ目、あったろ」


「え」


「顔に書いてある」


店主はカウンターの奥の椅子に座った。

湯呑みを両手で包んで、湯気を眺めている。


「で、どうする」


「どうするって」


「言うか、言わないか」


「……言いませんよ。買取は成立してます」


「そうか」


店主はそれ以上、何も言わなかった。

この人は、そういう人だ。

聞くけど、詮索しない。知ってるけど、教えない。


俺は瓶を棚に並べた。

棚には、今日の分の記憶が並んでいる。


技術:料理・包丁捌き(中級)

経験値:接客・クレーム対応

記憶:初恋の別れ話

記憶:娘の初ジャンプ(継ぎ目あり)


どれも、誰かが「いらない」と決めた人生の断片だ。


時々、思う。

この棚に並んでいる記憶の中に、俺の記憶はないのか、と。


……いや、ない。

俺の記憶は、俺の中にある。

幼少期のことも、学校のことも、覚えている。

全部、まっすぐだ。継ぎ目なんて、一つもない。


だから、問題ない。


「綴」


「はい」


「裏のジャンク、整理しといてくれ」


「また溜まったんですか」


「溜まった」


ジャンク品。

擦り切れすぎて、もう商品価値のない記憶。

映像もぼやけて、感情も残っていない。

安くても誰も買わない。

うちの店では、引き取ったはいいけど捌けずに溜まるやつだ。


俺は裏の棚に向かった。

段ボールに詰められた瓶が、山になっている。

ラベルはどれも、読みにくい。


品名:不明

状態:ジャンク

買取:百円


百円。

誰かの人生の断片が、百円。


「……で、これが今月の分か」


しゃがんで、瓶を一つずつ確認していく。

ジャンクは継ぎ目だらけだ。

何度も何度も売り買いされて、縫い直されて、擦り切れて、もう原型がない。

ジグザグが重なって、網目みたいになっている。


判別不能。

これが一番、見ていて疲れる。


三箱目。

俺は手を止めた。


瓶の中に、光があった。


ジャンクなのに、光がある。

擦り切れていない。

感情も、温度も、匂いも、残っている。


しかも、継ぎ目がない。


まっすぐな、一本の光。


ラベルを見る。


品名:不明

状態:ジャンク

買取:百円


……いや、違う。


この記憶、見たことがある。


古い家。土間。縁側。

夏の匂い。蝉の声。

障子の向こうで、誰かが俺を呼んでいる。


「つづり」


——俺の名前だ。


俺は瓶を握った。

手が震えている。

自分の手が震えているのが、どこか遠くでわかる。


覚えていない。

こんな風景、覚えていない。

俺の幼少期は、もっと——もっと、違うはずだ。


なのに。


なのに、この記憶は、まっすぐだ。


継ぎ目がない。

本物だ。


「……なんで」


声が出た。


「なんで、俺の過去が、ジャンクで売られてるんだ」


裏の棚の上。

段ボールの中。

百円の値札。


誰かの人生の断片として、俺の幼少期が、ここにある。


しかも——継ぎ目がない。


偽物じゃない。

縫い足されてもいない。

本物の、俺の記憶。


なのに、俺は覚えていない。


「綴」


奥から、店主の声がした。


「どうした」


俺は瓶を握ったまま、振り返った。


店主は、カウンターの奥で、湯呑みを持ったまま俺を見ていた。

その目が、いつもと、少しだけ違った。


何かを、知っている目だった。


「……店長」


「なんだ」


「これ、いつ入ったんですか」


店主は、答えなかった。


湯呑みを、ゆっくり置いた。


「……さあな」


「店長」


「査定、続けろ」


店主は、奥に引っ込んだ。


俺は、瓶を握ったまま、裏の棚に立ち尽くしていた。


蝉の声が、聞こえる。

夏の匂いがする。

障子の向こうで、誰かが俺を呼んでいる。


「つづり」


——俺は、この記憶を知らない。


なのに、この記憶は、俺を知っている。


---


翌日。

俺は、開店前に店に来た。


昨日のジャンク箱を、もう一度開けた。

同じ瓶を探した。


ない。


どこにも、ない。


棚を全部ひっくり返して、段ボールを全部開けて、それでも、ない。


「……は?」


俺は店主を探した。

奥の部屋。いない。

二階。いない。

裏口。鍵が開いている。


カウンターの上に、メモが一枚。


「今日は休み。査定は明日から」


達筆な字で、それだけ。


「……おい」


俺はメモを握りしめた。


あの瓶は、どこに行った。


誰が、持って行った。


なんで、店長は——


ドアベルが鳴った。


「すみませーん、記憶、売りに来たんですけど」


客だ。

二十代の男。

眠そうな顔で、スマホをいじっている。


「……あ、やってますか」


「やってます」


俺はメモをポケットに突っ込んだ。


仕事だ。

査定して、値段をつけて、買い取る。

それが俺の仕事だ。


男はカウンターに座った。

瓶を一つ、置いた。


「これ、いくらになります?」


俺は瓶を受け取った。


光を、見る。


……継ぎ目があった。


ジグザグに、縫い合わされている。

しかも、この縫い方。


「……は?」


俺は瓶をまじまじと見た。


雑だ。

端がほつれている。

素人の手口。


昨日の、女の記憶と同じ縫い方だ。


「あの、どうですか」


「……あの、これ」


俺は顔を上げた。


「どこで手に入れたんですか」


男は、笑った。


「え、自分で売ったんですけど」


「……自分で?」


「はい。昨日、別の店で」


男は、あっけらかんと言った。


「記憶を売って、また買い戻して、また売って。

そうすると、ちょっとずつ増えるんですよ」


「……増える?」


「はい」


男は、首をかしげた。


「……え、なんか、変ですか?」


「いや、これ、継ぎ目が——」


「つぎめ?」


男は、首をかしげた。


「なんですか、それ」


——知らない。


この男は、自分が売った記憶に継ぎ目があることを、知らない。


「……いや、なんでもないです」


「そうですか」


男は、査定を待っている。


俺は瓶を見た。


ジグザグの継ぎ目。

昨日の女の記憶と同じ縫い方。

同じ手口。

同じ雑さ。


誰かが、意図的に、記憶を縫い足している。


でも、この世界の誰も、それを知らない。


知らないことになっている。


「……三千円です」


「安っ」


「擦り切れですから」


「マジか」


男は不満そうに金を受け取って、店を出ていった。


俺は、瓶を握ったまま、カウンターに立ち尽くしていた。


縫い足し。

偽造。

抜き取り。


そんな言葉も、概念も、この世界にはない。


なのに、現実に起きている。


俺だけが、見てしまう。


ジグザグの継ぎ目を。

縫い合わされた痕跡を。

偽物の記憶を。


「……なんで、俺だけなんだ」


誰も答えない。


店主はいない。

あの瓶も、ない。

蝉の声だけが、どこか遠くで聞こえる。


俺は、カウンターの下にしまってあった、昨日の女の瓶を取り出した。


品名:娘の初ジャンプ

状態:擦り切れ・継ぎ目あり


ジグザグが、一本。


そして、今日の男の瓶。


品名:不明

状態:擦り切れ・継ぎ目あり


ジグザグが、一本。


同じ縫い方。

同じ手口。

同じ人間が、縫っている。


「……誰だよ」


その日から、俺はジャンク品ばかり査定するようになった。


「仕事です」と言いながら。


——自分の過去を、まだ知りたくないと、思っている。

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