第三十三話【ハジメテ泥棒】
「…………うぅ?」
目が覚めて最初に見えたのは真っ暗闇と風に揺れる草木だった。
「私、どうなって……あぐっ!?」
ほんの少し身体を動かそうとしただけで全身に激痛が走る。
痛みに耐えながらなんとか首だけ動かして辺り確認した。
「……そっか。手すりが壊れて、落ちたんだ」
あの高台から落ちたのに意外と平気だ、なんてのんきな事を考えられるぐらいは余裕があった。
身体の方に全く余裕はないが。
「……痛いけど右手は動かせる。左は……っつぅ!?」
自分の身体の状態を順番に確認する。
右腕は痛みこそあるものの動かすのに支障はない。打撲程度で済んでいるのだろう。
反対に左腕はダメそうだ、ほんの少し動かしただけでも激痛で泣きそうになる。最低でも骨は折れていると思う。
両足も似たようなものだった。左腕程ではないが、とてもじゃないが動かせそうにない。
「スマホは…………どっか行っちゃった」
ポケットの中を探ってみるもすでにそこにスマホは入っていなかった。衝撃でどこか近くに転がっているのかもしれないが、暗いし動けないしで探しようがない。
助けを呼びたくてもどうしようもない。私は半ば諦めムードで天を仰いだ。
視界には不自然に折れた枝が何本も風に揺られていた。
木がクッションになってくれたおかげで助かったのかもしれないが、雑木林になっているせいで誰にも見つかっていないとも言える。
大声を出せば誰か気付いてくれるかもしれない。少し動けば骨が軋むこの身体で大声が出せればだが。
「…………酷い外傷が無さそうなのは救いかな」
素人目に見ても今の私は重傷だが、それでも落下地点に尖ったものが無かったおかげで出血だけはほとんどなかった。精々擦りむいた程度だろうか。
妙に落ち着いているのも、出血による失血死の危険だけはないからだろうか。
「…………でも、怖いなぁ」
いくら目の前に危険が無いと言ったって、やっぱり私はただの子供だった。
考えるべきことが片付いてしまったら、ただ目の前の闇と孤独、痛みだけが思考を満たしていった。
「カイト……いつもみたいに助けに来てよ……」
そんな理不尽な願いを天に放つ。
いつもカイトが私を探し出してくれるのは、私がいつも同じ場所に逃げ込むからだ。今回とは状況が違う。
知らない土地で居なくなった幼馴染を見付ける方法なんて、普通の高校生にある訳ない。
「カイト……」
それでも願ってしまった。
いつも私が大変な時にはそばに居てくれた、絵本の王子様みたいな幼馴染に。
大好きなカイトに。
「ガサガサガサッ!!」
「っ……!?」
突如として周囲の木がざわめき始めた。
強い風が吹いた訳でも無く、ただ枝と葉だけが大きくざわついた。
「な、なんなの……?」
素早い何かが木の間を飛び回っている様な気配を感じていた。
明らかに人の物ではない音に段々と不安が広がっていく。
観光地の近くに危険な野生動物が出没するなんて事は無いと思うけれど、万が一って事もある。
怖くて震えているのに、動かない腕では満足に身体を庇う事も出来ない。
「ガサガサ……ガサガサガサッ!!」
音がだんだん私に近付いてくる。
恐怖に涙すら流せなかった。
「かいと……かいとぉ……っ」
ただ縋るように、大好きな人の名前を呟く事しか出来なかった。
「…………ヒナタさんッ!!」
「……へっ?」
想定外の人物の声が辺りに響き、思わずパッと目を見開く。
「はぁ、はぁ……よかった、やっと見つけた!!」
私の視界の中心には、大きな月を背に宙に浮かぶ桜色の大きな翼が広がっていた。
いや、よく見れば翼に見えたそれは声の主の長い髪だ。
何度も目にした、今朝私の網膜に焼き付いた、会いたい様で会いたくなかった人物の髪の色。
そして、闇夜で輝く深紅の瞳。
「…………なによ」
それも、たった今会いたくないと言う感情は消え去った。
彼女の姿を見れば、どうでも良くなってしまった。
「髪も服もそんなボロボロにして、必死な顔しちゃってさ……」
がむしゃらにこの辺りを飛び回った痕跡を見せられてしまったら。
気まずさよりも安心の方が勝ってしまったのだ。
だって、私を見つけ出した時の彼女の表情が、必死な顔が、記憶の中のカイトと重なってしまったから。
◇
「ヒナタさん、大丈夫!?」
桜色の王子様は、すぐさま私に手を伸ばした。
やめてほしかった。
「痛ったい!!」
「あっ!? ご、ごめんなさい!!」
レイカさんの手が私の身体に、よりによって左腕に触れ、あまりの痛さに飛び上がりそうになる。
反射的に身体を動かしてしまい、他の部位からも激痛の電気信号が全身を駆け巡った。
「……右腕以外はすごく痛いの。多分折れてる」
「そうなんだ……でも、連れて帰るならどうにかして動かさないとだし……」
レイカさんの言う事ももっともだった。
もし本当に全身バキバキに折れていたら、骨折は一日二日で治る怪我じゃない。それまでここで放置される訳にもいかない。
ここは歯を食いしばってレイカさんに運んでもらうしかないのだろうか。
「うぅ、いやでも……やっぱり、でもでも……」
「……ん?」
覚悟を決めようと歯を食いしばっていると、レイカさんがチラチラを私を見ながら何かに葛藤している。
「何悩んでるのよ。何かいい方法でもあるの?」
「えっ!? あー、えーっと、あると言うかなんと言うか……」
レイカさんはなんだか気まずそう……と言うより、恥ずかしそう?
私相手にもじもじしていた。
「……緊急事態だもん、仕方ないよね」
レイカさんは何かを決めたのか、じっと私を見つめてきた。
「ねえヒナタさん。痛いのと恥ずかしいの、どっちがいい?」
「は!?」
突然の質問につい大声が出てしまう。
また身体がピシッていった。本当に痛い。
「……痛いのと恥ずかしいの」
そう、本当に痛いのだ。声の大きさですら痛みを感じる程に。
レイカさんの言う恥ずかしさって言うのがどのレベルなのかも気になる所だが、全裸で街中を振り回されると言う訳でも無いだろうし、耐えがたい事を要求されそうになったら止める事も出来る。
今確かな事は、大抵の恥ずかしさよりは上回っているであろう全身の激痛だ。
「……恥ずかしい方がいい」
どう恥ずかしいのかはわからないが、この痛みよりはマシだろう。そう思った。
「ぅ……」
私がそう答えると、レイカさんは一瞬たじろいで小さく鳴いた。
レイカさん的にも選んでほしくなかったのだろうか。それかレイカさんも恥ずかしいとか。
「……わかった。ぷらんBで行くね」
どこで覚えたんだろう、そんな言葉。ちゃんとプランAもあったんでしょうね。
「あ、でもその前にちょっと……ちゃんと謝っておくね?」
「……は?」
「ヒナタさん、本当にごめんなさい……」
レイカさんは私に深く頭を下げると、私の上にふよふよと浮きながら両頬に手を当てた。
「……………………っ!!?!?!?!?」
そこでようやく私はレイカさんの全ての言動を理解した。
「まっ、まってレイカさん!? 本気なの!?」
レイカさんは痛いのと恥ずかしいの、どっちがマシかと聞いてきた。
それはつまり、恥ずかしさを耐えれば痛みが無くなる、もしくは楽になると言う事。
それはつまり、レイカさんには人の痛みをどうにかする方法があると言う事。
それはつまり、その方法を私に施そうと言う事。
「う、うごかないで……」
「い、いや……動きたくても動けなっ……!?」
私は吸血霊鬼について人よりは知識を持っているつもりだ。
だから知っている、吸血霊鬼の唾液には麻酔・鎮痛・治癒効果がある事を。
そう、唾液には。
「ほらヒナタさん、口あけて……」
「いやいやいや!! 待ってよちょっ、本当に!?」
「じゃないと痛いよ……?」
「そうだけど……そうなんだけどっ!!」
「だ、だいじょーぶ! やり方はさっきわかったから!!」
「最悪! 最悪過ぎる宣言!! どうして私の周りには言葉選びのセンスが終わってる人しか居ないのよ!!」
「だ、だからヒナタさんも口と……し、舌もだして……」
「いやぁ……私、初めてなのにぃ……」
「やさしくするからね……」
「あっ、やっ……まっ……」
「…………ちゅっ」
「あ………………っ♡」
「んむぅ………………」
「…………」
「……」
◇
「しくしく……しくしく……」
レイカさんの「治療」を受けた私はたちまち身体の感覚が弱まり、ほとんど痛みを感じなくなった。
そんな私を背負って運んでくれているレイカさんの背中で、私はしくしくと涙を流していた。
「私の初めての相手……女の子になっちゃった……」
「あ、あはは…………」
気まずそうに笑うレイカさん。
しかもただ初めてを奪われただけじゃない、動けない所を一方的に押さえられ、唇だけじゃなく舌まで捻じ込まれて、あまつさえ結構な量の唾液を流し込まれてしまった。
「もう、カイトの所にしかお嫁に行けない……」
「…………!? さらっとなんか言ってる!!」
ちっ、気付かれたか。気まずさにつけ込んでカイトの事を頂こうとしたのに失敗してしまった。
「ふん…………」
レイカさんの背に揺られながら、私の制御を離れてぶらぶらと揺れる右手をじっと見つめる。
さっきまで手にあった無数の切り傷が軒並み治っていた。
今は感覚が無くて確認できないが、もしかしたら骨もくっついているかもしれない。
酷い目には遭ったが、その分の収穫はあったかもしれない。
(……それに)
動けない所に無理やり口の中をめちゃくちゃにされる感覚。
ちょっとだけ、良かった。
(……忘れろ!!)
私の考えなんて関係なしに、レイカさんは歩を進める。
「……そう言えば」
それが気になって、つい訊ねてしまった。
「なんでわざわざ歩いてるのよ。私を探してた時は飛び回ってたんでしょ?」
「えっ……」
レイカさんの肌に傷は無い。当然だ、ちょっとやそっとの傷、吸血霊鬼ならたちまち完治してしまうだろう。
一方髪は枝や葉っぱが絡み、服は所々破れて穴があいている。気にせず木の間を飛び回っていた証拠だ。
それなのに今私を背負っているレイカさんは地に足をついて歩いている。飛んだ方が早いだろうに。
「いやぁ……あはは」
レイカさんは愛想笑いを返すだけ。
私にはそれが返答に困って言葉を濁しているのだと一目でわかった。この子は本当に嘘をつくのが下手だから。
「なんなのよ、何か飛べない理由でも……」
そこで私は、肝心な事を忘れていた事に気が付く。
レイカさんは吸血霊鬼、そして私は退魔師である事。
「そうだ……十字架!?」
私は退魔師として、過去複数回吸血霊鬼に襲われた事のある被害者として、いつでも身を守れるように純銀の十字架を首から下げている。
純銀、そして十字架はその存在が吸血霊鬼の一定範囲にあるだけで対象の身体能力を著しく低下させる。布や服越しだとしても、間接的にでも触れていればそれは多大な影響を及ぼす。
今私はレイカさんに背負われている。
「お、降ろしなさいよ!」
「えぇっ!? そんなの無理だよ!! ヒナタさん大怪我してるんだよ!?」
「十字架外すくらい出来る……」
「無理だよ、今身体動かせないでしょ!」
「くっ、でも……」
レイカさんは私が十字架を身に付けている事をカイト経由で知っていたはず。
それなのに私に麻酔をかけて、身体に負担が少ない様背負ったって言うの?
自分の身体には相当な負担がかかるって言うのに。
「……いいんだ、このままで」
「何がいいって言うのよ」
「……あたしにも、何か罰がないとって思ってたから」
さもそれが当然であるかのように。
自分は罰せられることをしたと、レイカさんは認識していた。
「……何の事よ」
「えぇ~? ヒナタさん絶対怒ってると思ってたのに」
「怒ってないわよ。ただ……その……怖くて逃げただけ」
「うぅ、余計申し訳ないよ……」
きっと自分の心を奥深くまで掘り起こせば、レイカさんに対する怒りも見つかるとは思う。
それでもやっぱり一番大きかったのは恐怖だと思った。
カイトが他の女性とキスしている恐怖。
レイカさんが私にそれを見せつけてきた恐怖。
「……怖かったのよ」
「ご、ごめんなさ……」
「大切な人が、二人同時に離れて行くみたいで……」
「……えっ?」
緊張の糸が解けて、私もしおらしくなったか。
昼間考えていた事をそのまま口にしてしまった。
「……私ね、レイカさんの事好きよ」
「ふぇっ!?」
「あっ……ちちち違うわよ!? キスされて頭おかしくなったみたいに聞こえるかもしれないけど、違うからね!?」
言ってから後悔した。さっきのアレの後で好きだなんて言われたら私にそっちの趣味が目覚めたみたいではないか。
違います、カイト一筋ですから。
「……あなたの事、勝手に妹みたいに思ってたの」
「っ…………!!」
「言う事聞かないし、すぐ突っかかって来るし、カイトの事も私と取り合ってるし、全っ然可愛くないけど」
「あぅ……」
「それでも……いつの間にか目が離せなくなってた。カイトの世話を焼くついでだったのに、最近はレイカさんの事だけを考える事も増えた」
混じりけの無い本音を伝える。
変に勘ぐり合ってすれ違うのはもうこりごりだったから。
「だけど、レイカさんの事が大切になればなる程、苦しくもなったの。私とレイカさん、どっちかがカイトと結ばれた時、この関係はどうなるのかなって」
「…………ヒナタさんもそう思ってたんだ」
「私もって……レイカさんも?」
「えへへ…………」
想定外の返答だ。まさかレイカさんも私と同じ様に思っていただなんて。
レイカさんに好かれているだろうって思っていたのが自意識過剰でなくてよかった。
「あたしね、もしカイトがヒナタさんを選んだなら、二人の前から居なくなろうって思ってたの」
「なっ……!?」
「だってさぁ、カイトは優しすぎるから、ヒナタさんが彼女になってもきっと同じくらいあたしにも優しくしちゃうと思うの」
そう語ったレイカさんの言葉を想像してみた。
なるほど。確かに私のイメージの中のカイトも、同じ行動をとる気がする。
「そうなったら申し訳ないな、カイトの好きは勝った人が独り占めできないと悪いなって思ったんだ」
「レイカさん、あなたそんな事を……」
「……でもね、勝手にそう決めておいて、本当にそうなるかもって思ったら……本当に怖くて、怖くて……」
「…………」
「きっとあたしも、大切な家族が二人も居なくなっちゃうような気がしたんだ」
「……それで自分が抑えられなくなったと」
「……うん」
人見知りの吸血霊鬼と、吸血霊鬼嫌いの退魔師。
あんな最悪の出会いから、どうしたらここまで同じ考えを持った友人になれるのだろうか。
どうしたらここまで失いたくないと思える相手になれたのだろうか。なってしまったのだろうか。
「……めんどくさい」
「え!?」
気付けば口に出していた。
「もう、めんどくさすぎるのよ!! あなたも私も!!」
「わーっ!」
急に耳元で私が叫ぶものだから、レイカさんから綺麗な悲鳴があがる。
それでも叫びたくなってしまった。面倒くさすぎたから、お互いに。
「……もうやめましょうよ、そう言うの」
「やめるって……?」
「だって私達、一応恋敵なのよ? そんな相手に気を遣い過ぎよ」
「それはそうだと思うけど……」
「だからここでキッパリ決めちゃいましょ!!」
私達がお互いを思って本気を出せないのは、お互いに対して失礼だ。カイトに対しても。
そうだ、毎回私達の面倒くさい感情に一番振り回されるのはカイトなのだから。
「宣言しておくわ。私がカイトと付き合っても、レイカさんごと面倒見てあげるわ」
「えぇ!?」
「その代わり、もしレイカさんと付き合っても私一切諦める気無いから!」
レイカさんは私に気を遣って身を退く必要は無い。
ただし私もカイトが取られたって諦めるつもりは無い。
生きている限り、死ぬまでカイトの事を狙い続けてやる。
その代わり私が勝ったら死ぬまでレイカさんの面倒を見てあげようじゃないか。
「……お互い、相手の事が大切って気持ちに蓋をする必要は無い。その代わり、カイトが好きって気持ちにも全力を出す。それでいいと思わない?」
「……ヒナタさんは良いの?」
「別にいいわよ。あなた達二人の面倒見るなんて今と何も変わらないじゃない」
「そうじゃなくて、一生独身になるよ?」
「はあああぁぁあぁあああぁぁぁあああぁぁぁ!!?!?!?」
めちゃくちゃ大きい声が出た。自分の喉からこんな声が出せるなんて生まれて初めて知った。
このクソ生意気な女、もう勝った気で居る。
「…………ふふっ」
「ぷっ……あっはははは!!!」
なんだかんだ言って、お互いにカイトを譲る気は一切ないみたいだ。
それを理解した私達は盛大に笑い合った。
「……ありがと、ヒナタさん」
「…………ヒナでいいわよ」
「へ!?」
そう言えばこの子、私の事いまだにさん付けで呼んでいたな。
他人行儀にも程がある。そう呼ぶように躾けたのは私だけど。
「で、でもでも、ヒナって呼ぶのはカイトだけの特別だって……」
「もう……察しが悪いわね……レイカ」
「ひゃ!?」
「あなたももう……特別って事よ」
あれ、私なんでこんな恥ずかしくなってるんだろう。
これも全部さっきの「治療」のせいだ間違いない。
「……わかった。ヒナさ……ヒナちゃん」
「……ん」
「ヒナちゃん」
「なによ」
「呼んだだけ……えへへ」
「……あっそ」
何だと言うのか。
お互い腹を割って話しただけだと言うのに、なんだか胸の奥がじんわりと熱くなってきた。
それだけじゃない、指先もかあっと熱くなってくるような、そんな感覚。
「…………」
「ヒナちゃんかぁ……ヒナちゃん……」
「レイカ」
「えへへへへ、なぁにヒナちゃん?」
「ちなみに旅館まであとどのくらいかしら」
「もうちょっとかかりそうだけど……?」
「そう……困ったわね」
私は今、猛烈に嫌な予感がしていた。
いや、予感と言うか確信と言うか。
「私もね、吸血霊鬼の唾液の麻酔が長時間効かないのは知ってるのよ」
「そうだね……あ!?!?」
「指先がね、チリチリ熱くなってきたの」
この指先の熱さ、精神面でのものじゃない。
そう言えば私の身体は今、満身創痍と言っても差し支えない程にズタボロだったのだ。
「心なしか一歩進む度に足から何かが響くような感覚もあってね」
「わ、わ~~~っ!! 急ぐから!! もうちょっと我慢して!!」
「十字架あるのに申し訳ないけど、頑張ってちょうだい……!!」
このままだと麻酔の掛け直しになる可能性が出てくる。
それだけは何としてでも避けなければならない。
レイカもそれは避けたいのか、私を背負って旅館に向かって急いで駆け出した。
いや、本当にお願い。
あんなの何度もやって、癖になったら取り返しがつかないから。
◇
「白銀生徒の方は大丈夫そうだね」
月明かりの下、ひとつの影が外灯の上で周囲を見渡していた。
「白銀生徒の血の匂いに誘われて危険な同族が寄ってくるかもと思っていたけど、杞憂だったか」
彼女はそう呟くと、自らの深紅の髪を一束つまんで眺めた。
「久しぶりにこっちになったけど、何事も無いに越したことはないね」
彼女は自分の髪を風に乗せる様になびかせると、赫黒く輝いていた長い髪はたちまち根元から癖のある金色の髪へ変化していった。
「別にやりたくてやる事でもないしね。この辺りに居るのは全員おりこうさんか、誰も居ないか。ともあれ助かったさ」
彼女は顔を手で覆い、彼女を慕う生徒達の見慣れたメガネと不健康そうな顔へ戻る。
「さ~て、レイカ君じゃちゃんとした処置は出来ないだろうし、早く戻ってあげるとしよう。んふふ……治療の最中にちょろっと血を誤飲してしまっても不可抗力って事で……」
口ではそう言うが、彼女の口からは透明な唾液が零れ光を反射していた。
「あれほど上質な血を合法的に飲めるなんて、実に何十年ぶりだろうか……いやはや! だからこの仕事はやめられないねぇ!!」
月に向かってそう叫ぶと、彼女は瞬きの内にその姿を消した。




