第一話【鬼咲麗華(キサキ=レイカ)】
「ねえ、カイト……いいでしょ?」
「……ダメだ」
男の劣情を掻き立てる様な囁き声と、水音だけが響く浴室。
その狭い浴槽の中で俺の両肩に手を置き、僅かに火照った顔で俺を押し倒す女。
「大丈夫、ちゃあんと優しくしてあげるから、何も痛くないよ……?」
「だ、だからダメだって……」
互いの吐息がかかる程近くに、恐ろしい程に整った顔が迫る。
満開の桜の様な色の前髪が俺の鼻先をくすぐった。
「お願い……あたし、もう我慢できないの……♡」
徐々に息を荒げながら、獲物の味見をするかのようにゆっくりと俺の首筋に舌を這わせてくる。
そのくすぐったさに一瞬体が震えた。
「や、やめ……」
俺の制止もまるで聞かずに、何度も俺の首筋を舐め回す。
その焦らすような舌使いに、ついに俺の我慢も限界を迎えた。
「だからやめろっつってんだろうが!!!!!!」
「ゴチン!!」
「いったぁーーーい!!」
全身全霊を込めて目の前のお気楽な頭に額を叩きつけて、力ずくで引き剥がす。
「いつも風呂ン中で襲い掛かってくんのやめろって言ってんだろ!! ただでさえお前のせいで貧血なのに、ぶっ倒れたらどう責任取るつもりだ!! あァ!?」
「だってカイトいつもお風呂長いんだもん!! 出てくるまで待ってらんないよ~!!」
「仕方ねえだろ髪なげぇんだから!! 洗うにも乾かすにも時間かかんだよ!!」
涙目で頭を押さえながら抗議するレイを容赦なく叱りつける。
何故ならもう同じ様な内容で叱るのは一度や二度ではないからだ。
「ちょ、ちょっとだけ! ちょっとだけ血をくれたら我慢できるから……ね?」
自分の武器を理解しているレイは、その整った顔をあざとく変化させ、上目遣いで俺に血をねだった。
「…………却下」
「ひん!!」
対する俺の表情はあまりにも冷徹だった。
俺の無慈悲な一言に、すぐさま涙目に戻る。
「さあ、今すぐ風呂場から出ていくか、それとも俺につまみ出されるか。選ばせてやるよ」
レイの目の前で仁王立ちし、指をポキポキ鳴らしながらレイの出方を伺った。
「か、かいと~……顔こわいよぉ? 真っ赤な髪と相まって赤鬼さんみたい~! な~んて、えへへ……」
「…………そうか」
「ぷぇっ!!」
俺の慈悲を無碍にした哀れな女のこめかみをわしづかみ、浴槽から引きずり出す。
そのままガラガラと浴室の扉を開き、人一人通れる程度の隙間が開いた所で思い切り放り出した。
「出てけェッ!!!!!!」
「うえぇぇぇぇぇぇん!!!!!!」
全裸の美人を浴室からつまみ出し、ピシャリと扉を閉じる。
浴室にはようやく静寂が戻って来た。
「まったく……頼むから風呂ぐらい落ち着かせてくれよ……」
そして、やっとの思いで取り戻した安寧を噛み締める様に浴槽の縁に寄りかかり、天井を見上げた。
俺だって最初は喜んだ。
だってそうだろ? まるで作り物の様な絶世の美女が全裸で迫ってくるんだ、一般的な男子高校生からしたら夢の様なシチュエーションだ。
ならどうして俺はこんなにも悲しく変わってしまったのか。言ったはずだ、一度や二度ではないと。
下心まみれで奴の接近を許したが最後、湯船の中と言う血液の循環が良くなる場所で思い切り血を吸われた訳だ。
その後、満足したレイが後にした浴室でぶっ倒れ、部屋に戻るまで床を這いつくばる羽目になったのは言うまでもない。
その一件以来、レイがいつ浴室に突撃してくるかわからないため、下半身を隠すためのタオルの持参が必須となった。男一人の入浴に変な手荷物を増やさないでほしい。
「はぁ~あ……なんでこんな目に逢ってんだろうな、俺……」
天を仰ぎながら目を閉じ、暗くなった視界で俺は記憶を遡っていた。
俺がこんな目に逢うきっかけとなった日。
神上灰人と鬼咲麗華が出会ったあの日を。
◇
━━━━数か月前。
「最高のライブだった……やっぱBBBは神だ……」
電車から降りて最寄りの駅の改札を出た俺は、恍惚の表情を浮かべながら今日の体験を噛み締めていた。
今日は俺の愛するロックバンド「Burning Blast Beat」のライブだった。
「サプライズの新曲も良かったな……配信版も来たら即買いしねえと」
興奮を抑えきれず、人目も憚らずに紙袋から会場限定販売のCDを取り出し、眺めながらうっとりと余韻に浸る。
紙袋の中には他にもリストバンドやキャップ等様々なグッズが詰め込まれていた。
「チケット取れなかったアユの分も多めに買ったし、来週学校で渡してやらないと……ん?」
一人だけチケットが購入できた俺に散々恨み節を吐いた末に泣きながらグッズを頼んできた友人の顔を思い出していると、ふと何かが視界に入ったような気がして足が止まった。
路地裏の方から、一瞬だけ目の覚める様なピンク色が見えたような気がした。
「気のせいか……?」
何かの見間違いだ、早く帰宅してCDを聴こう。
そうしたい欲求を押さえつけたのは、かつて父親から教わったとある知識だった。
「……一応、確かめるか。なんかあったら寝覚めが悪いし……」
妙にざわついている胸を押さえながら、俺は買ったグッズが汚れるのも気に留めず路地裏へを足を進めた。
「……………………」
一歩ずつ慎重に、決して走ったりせず足を動かす。
俺の懸念が現実だった場合、その一歩が悲劇を招きかねないから。
「この辺りだったっけ……」
一歩、また一歩と足を進めて、目的の場所まで辿り着いた。
俺はその場でしゃがみ込むと、暗闇を進むかのように両手で辺りを探った。
「……っ!?」
手を動かす事数分、目に見えない何かを指先がとらえた。
「見付けた……やっぱり!」
俺は指先の感覚だけを頼りに、その見えない何かの輪郭を把握していく。
表面は柔らかく、すこしひんやりとしていて、布に包まれていて、そして人型。
俺の予感は正しかった。
「間違いない……吸血霊鬼!!」
俺は慌てて鞄から一冊の古びた手帳を取り出し、目的のページを探して乱暴にめくった。
急いだ甲斐もあって、そのページはすぐに見つかった。
「吸血霊鬼について……」
俺は欲しい情報を求めてそのページを詳しく読み込んだ。
吸血霊鬼。学名・レヴダンピール
・吸血霊鬼は創作の世界に登場する吸血鬼と幽霊、それぞれの特徴を持った現実に存在する種族である。
・生命活動に他者の血液を必要とし、身体能力が高い所は吸血鬼を、姿を消す事が出来たり、空中を漂う事が出来る所は幽霊を感じさせる。
「違う、これじゃない……」
・人と同じ食事も摂るが、吸血霊鬼はそれに加えて定期的な血液の摂取が必要。
「これでもない! これでも……っ!」
・吸血霊鬼は自在に姿を消す事が出来るが、弱った個体は逆に姿を保てなくなり、最終的には誰にも見えないまま息絶えてしまう。
「あった! ……やっぱ弱ってんだよな、これ」
そこまで読んで手帳を閉じようとした俺の視界に、次の一行も映り込む。
「げっ……」
・ただし、消えかけてもかろうじて息がある個体に近付いてはならない。悪意を持った個体が人間を誘い込む罠の危険性がある為だ。
「罠の可能性……」
求めていた情報と同時に余計な情報も得た俺は、僅かな苛立ちを込めて手帳を閉じた。
「クソッ、じゃあどうしろってんだよ……」
この手帳は俺の父親から譲り受けた物。
肌身離さず持っていろと言われ、素直に従って持ち歩いていた物だ。
親が子に与える情報だ、弱っているのも事実だろうし、罠の可能性も本当にあるのだろう。
だがなぜその情報を同時に与えた。この状況に直面した時に俺に何をさせたいんだ。
救わせたいのか、逃がしたいのか。
「…………ああもう!」
俺は紙袋の中を漁り、缶バッジをひとつ取り出して封を開けた。
「いってぇ!!」
その缶バッジの裏面のピンを開き、意を決して勢いよく指先に刺した。
乱暴に傷付けた指先からは、じんわりと血が滲み出る。
「……多分こいつは本当に弱ってる、そういう事にする」
自分に言い聞かせながら、もう片方の手で目の前に横たわる人物の輪郭を探り、顔の場所を探した。
「もしこいつが俺を罠に嵌めていたとしても、俺が血を飲ませる事で犠牲になるやつは居ねぇ……けど」
顔を見付け、口の位置を特定し、血の滴る指先を強引に捻じ込んだ。
「もし罠だと判断して逃げて、本当に死にかけてたとしたら、俺は救える命を見落とした事になる。そんなの……可能性があるだけでも嫌だからな!」
他の誰の為でもない、俺自身気持ちの良い朝を迎える為に。
悪夢に苛まれる夜を過ごさないために。
「…………んっ」
「はっ!?」
町の喧騒にかき消されそうな小さな音だったが、確かに聞こえた。
俺の与えた血をごくりと飲み込む喉の音が。
「姿が、だんだんはっきりとしてきた……え!?」
ほんの少ししか血を与えていないのに、今まで透明だった空間に色が着いていく。
抱き抱える腕に感じていた重さの正体もはっきりとしていき、同時に俺の口から驚愕の声が漏れる。
「お……女ぁ!?」
さっきまで何もない空間を抱き抱えていた俺の腕の中には、一人の華奢な女の子が眠っていた。
目の覚める様なピンク色。その正体は彼女の髪の色だった。
そりゃ人間と吸血霊鬼には生物学的に男と女しかない。単純に半分の確率で女なんだが。
瞬間、俺の脳内には様々な思考が巡る。
(ど、どうしよう……助けるのに必死で普通に口に指突っ込んじまったけど、これ誰がどう見ても痴漢だよな? いやこれは人命救助に必要な措置で……で、でも助けてくれた相手を普通に通報するやばい奴も居るって聞くし……俺の人生終わったか……?)
考えうる限り最悪の未来を想像して、冷や汗ダラダラのまま指だけは動かさなかった。
ここまでやったんだ、ここでやめようがもう変わらない。ならせめてこいつだけは、彼女だけはしっかりと助けて帰ろう。そう思っていた。
それにもうひとつ、この場に俺を縫い付けておく理由があって。
「…………可愛いな、こいつ」
正直、かなり好みの顔をしていた。
もし俺の人生を破滅させられても、この顔相手に痴漢をしてしまったのなら諦めもつくと思える程に、腕の中の寝顔は整っていた。
「……って、痴漢じゃねえんだってば!」
誰に何を言われたでもなく弁明する。
誰も何も聞いていないと言うのに。
「……ん、うぅん……」
「お! 起きたか!」
今まで眠ったまま俺の血を飲み込んでいた彼女は、俺の独り言に反応したのか非常に重たそうな瞼をゆっくりと開き、焦点の定まらない目で俺の方を見た。
「よかった、とりあえず助かったみたいで……」
安堵した俺はふうっと一息をついた。
色々な不安はあれど、目の前の命を救えた事だけは確かだから。
「……おとう、さん?」
目を覚ました彼女はまた意識が朦朧としているのか、目の前の俺をそう呼んだ。
「お、お父さん? いや俺はあんたの親父じゃ……うわっ!?」
冷静に彼女の言葉を訂正しようとしていると、急に背中と後頭部に鈍い痛みを感じた。
一瞬の隙に俺の身体は地面に組み伏せられていたのだ。
「いってぇ……って、やば……!」
「はぁっ……はぁっ……」
どうやら痴漢と誤解されて通報される心配はなさそうだ。
問題は、そもそも明日まで生きていられるかどうかで。
彼女のピンクの前髪に隠れた深紅の瞳と縦長の瞳孔が、まっすぐに俺の事を見下ろしていた。
「ま、待て待て! 血ならやるから、一旦落ち着け! な!?」
必死に説得を試みるも、俺の言葉はまるで届いている様子は無い。
ただ彼女の視線が俺の首筋に向いて、ゆっくりと口を開くのを眺める事しか出来なかった。
「……ガブゥッ!!」
「あっ……っぐ!?」
麻酔も何も無く、彼女の鋭い牙が首筋に突き刺さる感覚を歯をくいしばって耐える。
それだけならまだいい。その傷口から勢いよく流れ出る血を吸われている感覚も強制的に味わわされる。
血液と共に意識が遠ざかっていくような喪失感。
(……すまん親父、やっぱ罠だったかも)
薄れゆく意識の中、自分の判断が誤っていた事を認め、遠くの地に住む父に謝罪をした。
それでも、不思議と後悔はなかった。
相手が美少女だったからか、命を救えたからかはわからない。
(……死んだかなぁ)
命の危険を感じながら、驚くほどに冷静だった。
目の前の彼女から、生きる為の必死さを感じたからだろうか。
意識を手放す前に、俺の肩に食らいついている小さな頭をそっと撫でた。
◇
「……きて…………ねが……目を開け……」
誰かが俺に語り掛けている。
「……だ…………だよ……」
よかった、俺も生きてたみたいだ。
でも誰が俺に話しかけているんだろうか。
異常な重さの目蓋と格闘している間にも、耳元の声は大きく響いてくる。
「やだやだ……お願い、死なないで……ごめんなさい……ひとりにしないでぇ……」
切実に願う声が俺の意識を揺さぶる。
(……なんで泣いてんだよ)
俺は大丈夫だ。もうすぐ目も覚める。
だからそんな悲しそうな声、出さないでほしかった。
泣かないでほしかった。
「…………オイ」
「あっ……!」
目を閉じ、震えた手で祈る様に俺の手を握っていたそいつは、俺の声を聞くと驚いたように目を見開いた。
「……なぁんだ、血吸った本人じゃねえか」
「ビクッ……」
やはりと言うか、想像していた通り。
俺に呼び掛けていたのは、ピンクの髪に深紅の瞳、俺が助けた吸血霊鬼の女だった。
「ご、ごめんなさいっ……あたしそんなつもりじゃ……でも、でもっ……」
「あー……いや、責めてる訳じゃ……」
申し訳なさそうに身体を震わせる姿を見ていたら、怒る気になんてなれなかった。
それに父親の手帳にも記されていた事だ、覚悟はしていた。
・吸血霊鬼は死に瀕した状態で生物に近付くと、目の前の生物から血を奪おうとする飢餓状態に陥りやすくなる。これは本人のダメージにもよるが、大抵の場合本人の意思で抑える事は困難とされている。
「身体が勝手に動いちまったんだろ……? わかってるから大丈夫だ……もし負い目に感じてるんだったらさ……」
俺は涙目の彼女の前に指を指し、路地裏から出た先にあるコンビニを指差した。
「……俺の鞄から財布持ってって、チョコとコンビニスナック、適当に買ってきて……」
「っ……う、うん!!」
どれだけ効果があるかはわからない。
だが、とにかく身体が求めていたのだ。
脂、肉、糖分、エネルギー、強力なカロリー爆弾を。
「待ってて!」
俺の財布を手に持った彼女は、大急ぎでコンビニに向かって行った。
「…………」
そんな彼女の背中を見て、ぼーっと考えていた。
(あいつ、なんでこんな所で死にかけてたんだろ)
飢餓状態は、一日二日血が吸えない程度でなる状態ではない。
数週間から一ヶ月以上、そんな規模で一切血を摂取できなかった時に陥る状態だと手帳には記されていた。
家族と離ればなれになったか、共存してた人間に捨てられたか。
部屋で着るような薄着、裸足、ひとつも見当たらない荷物。ただ事でないのは確かか。
(それに、なんつーか……)
彼女の外見と言動にも違和感を感じていた。
ぱっと見た感じ俺と同じくらい身長はありそうで、下手したら俺の方が小さいかもしれない。
対して言動からは幼さを感じると言うか、娘や妹が父や兄に対する話し方と言うか。
(……考えても仕方ねえか)
回らない頭でいくら考えてもまともな答えなんて出てこない。
俺はすぐに思考を手放した。
それに吸血霊鬼は数百年から千年以上生きる個体も居ると聞く。彼女も外見通りの年齢ではないのだろう。
そんなレベルの違う生物の思考なんか、一般男子高校生に図れるわけも無かった。
俺は大の字に寝転びながら、路地裏のゴミ袋を枕に彼女の帰還を待った。
「あぁ~……ジャンクな脂が染みるぅ……」
彼女は十分程度で帰って来た。
よく考えたら自分の血を吸った相手に財布まで預けるなんてなりふり構わな過ぎだろと自分でも思ったが、なりふり構っていられなかったので仕方ない。
それに彼女の必死な顔を見て、裏切られると思う奴は根本的に人間不信だろう。
「助かったよ、ありがと」
「え……?」
礼を言うと、心底不思議そうな顔で返される。
「助けてくれたのはキミだし、気絶させちゃったのはあたしだよ……?」
「そりゃお前……ん? そう、だな……? まあいいじゃねえか細かい事は」
言われてみれば確かに礼を言うのも変な話なのだが、やって貰った事は変わりないから良いだろう。
「お前が吸血霊鬼な事も、飢餓状態の危険性も知ったうえで助けたんだ。そんな思い詰めるなって」
「う、うん……変なの」
「変なのかぁ……やっぱ変だったよなぁ」
確かに俺の行動は変だった。
だがそれ以上にこいつの現状も変だ。
「お前さ、行く所無いの?」
彼女の服装に視線を落とす。
かなり汚れてはいるが、ぱっと見でも高そうな生地の服だ。
少なくともこんな路地裏で行き倒れる様には見えない。
「…………無い、かな」
俺の問いかけに彼女はバツが悪そうに頷いた。
行く所も無いし理由もあるけど、その理由についてはあまり詮索されたく無さそうな。
いいさ、気にはなるけど無理に聞こうとは思わない。
「それじゃあさ、俺んち来るか?」
「へっ……?」
今にも死んでしまいそうな表情の彼女を見ていられず、そう申し出た。
正直に言えば心配と下心が半々だった。
家に帰ってこんな可愛い子が出迎えてくれたら幸せだろうなぁと。
それほどまでに目の前の彼女は可愛くて。
「俺の血でよかったらたまにやるし、俺も一人暮らしで寂しかったからちょうどいいよ。どうだ?」
「……いいの?」
不安そうな表情。しかし俺を嫌がっている感じじゃなくて。
自分なんかが良いのだろうか、そんな感じの自信がない様子だった。
自信がない? こんなに可愛いのに?
「あたし、絶対迷惑かけるよ? それでもいいの? あたしに居場所……くれるの?」
「何度も言わせんなって」
何度も確認し、不安そうな目で見つめる彼女に手を差し伸べた。
「お前が居てもいい場所、作ってやるって言ってんだ」
「っ……!!」
「神上灰人だ。お前は?」
彼女は躊躇いがちに俺の手を取り、力強く握った。
「レイカ…………鬼咲麗華」
そして、俺の前で初めて笑顔を見せた。
薄く儚い、月光のような笑顔だった。
◇
「ごめぇぇぇぇぇぇぇん!!!!!! ゆるしてかいとぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
「…………何でこうなっちゃったんだよ」
記憶の中の儚い笑顔のこめかみを掴んで放り投げた現実に引き戻される。
「ぶえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
「うるせぇ!! とっととリビングに戻ってろ!!」
脱衣所で泣き喚くレイに容赦なく怒鳴りつける。
しばらくはレイのボリュームが上がっていたが、次第に声が遠ざかって行き脱衣所を離れた事を静寂が物語っていた。
「はぁ…………」
再び静寂を取り戻した浴室で一息をつく。
リラックスした頭に思い浮かべるのはいつだって同じ、直前まで迫っていたレイの顔。
「同一人物なんだよな、本当に……」
あの夜、俺の手を取って儚く笑いかけた少女。
妖しく俺の血を求めた恐ろしい吸血霊鬼。
俺に叱られてみっともなく泣き喚いていたガキ。
それらすべてがレイなのだ。
「もう少し我慢を覚えてくれるだけで良いんだけどなぁ……」
俺だって血を吸われたくないわけじゃない。時間と場所をわきまえろと言っているだけだ。
だからたまには反省してもらう為にこのまま放っておいてもいいかもしれない。
「……ちょっと言い過ぎたかもな」
だと言うのに、俺もいつもこうだ。
後から急に申し訳なくなって、レイの事を甘やかしてしまうのもいけないんだろう。
元々人に強く言うことだってしてこなかったのだ、レイと暮らし始めるまでは。だから叱った後にどう接するのが正しいのかもわからない。
それに、レイの悲しそうな顔にも弱かった。
「……しょうがねぇなぁ」
俺は湯船から出ると、背中まで伸びた髪をよく乾かし、リビングでめそめそ泣いているであろうレイの元へ急いだ。
「しくしく、ぐずぐず」
リビングに戻ると、案の定ソファーで膝を抱えて涙を流すレイが見つかった。
はぁ、とため息をつきながらレイの背後に回り、まだ俺に気付いていないレイに声を掛けた。
「レイ」
「あ、かいとぉ……」
涙目で俺を見上げるレイ。腫れた目元に感じなくていい罪悪感を感じて少し気まずくなる。
「あー、あのさ……」
あちこちに視線をそらしながらレイの隣に座る。
なんて言えばいいのか、謝ればいいのか、悩んだ末に素直に伝える事にした。
「待たせて悪かったな。その……もういいぞ」
「……血もらっていいの?」
「ん……おう」
「…………うん!」
曇っていた表情は俺の許しを得た途端にパッと明るくなり、勢いよく俺の膝の上に飛び乗ってきた。
抱き着く様に腕を回される。
「ねぇ、カイト」
「なんだ?」
「もう怒ってない?」
「……説教しただけだ、怒ってはいねえよ」
本当はあの瞬間だけ本気でキレていたが、怒りなんてそういつまでも続かない。
今怒っていないなら怖がらせる必要もない。
「じゃあ、始めるよ……」
一言断りをいれると、レイは俺の首筋に唇を押し当てた。
「ちゅ……ちゅ……」
レイは念入りに首筋を舐めていた。
吸血霊鬼の唾液は麻酔になる。共存する生物に苦痛を与えない為に進化したのだろう。
最初だけくすぐったいが、その感覚も次第に遮断されていく。
「もういい?」
「ん、大丈夫そう」
「じゃ、いただきまーす……あむ」
麻酔の効きを確認すると、レイの鋭い歯が首に突き刺された。
うん、ちゃんと痛覚は消えている。ゆっくり準備すれば何も問題はないのだ。
となると、初めて血を吸われた時は本当に無意識だったんだな。
あれは本当に痛かった。
「んく、んく……」
肩に乗せられたピンクの毛玉を優しく撫でる。
初めての時に無意識にこうしていたのがレイはお気に入りらしく、頭を撫でられていると安心するらしい。
「ん……? なんだかカイト、ドキドキしてる?」
「風呂上がりだからな」
レイにはそう言ったが、本当は違った。
俺はレイに数え切れない程血を与えてきたが、この距離感だけはいまだに慣れていなかった。
レイは可愛い。と言うより吸血霊鬼は全員美形らしい。
きっとそれも、人間と共存するにあたってその方が都合が良かったからだろう。現にレイの可愛さが同居を申し出る理由になった事も否定出来なかった。
そんな美少女に抱き着かれて緊張しないなんて芸当、健全な男子高校生には無理な話だった。
レイにその自覚がない事だけは救いか。
レイは妙に情緒が幼く、貞操観念が甘い。性知識もあまり無いのだろう。
「ごちそーさま! ありがとうカイト!」
なんで考えていたらレイの吸血も終わったらしく、俺の膝上から離れていった。
気付けば傷口ももう塞がっている。吸血霊鬼の牙が刺さっていた場所はたちまち塞がると言うが、便利なもんだ。
「もういいのか?」
「あんまり飲みすぎると、カイト倒れちゃうからね」
「ほう? なんか俺が弱いみたいな言い方だな」
確かに、レイに血を与えた後何度か倒れた記憶はある。
というのも最近貧血気味なのだ。原因はもちろん目の前の食いしん坊。
本来何日か置きでいい吸血を毎日の様に迫ってくるこいつのせいで、俺は鉄分サプリと親友になってしまった。
夕食にレバーが並ぶ頻度も増えた。今日も食べたばかりだ。
「生意気な口がこの野郎……」
「ひーん! ごめんなひゃ〜い!」
無自覚煽りを決める柔らかい頬をつまんで引っ張る。
もちもちすべすべでどこまでも伸びて面白い。いつまでもこうしていられそうだ。
◇
「あの、あのねカイト、お願いがあるんだけどさ。今日カイトのベッドで寝ていい?」
「……………………」
上目遣いでそうねだるレイを前に、俺はやはりかと冷や汗を流した。
空き部屋をレイに譲り、それぞれのベッドを持っているにもかかわらず、俺に盛大に叱られた日のレイは決まって同衾を願う。
問題はそれを強く断れない俺の方で。
「……だめ?」
不安そうなレイの顔に弱いのだ。
「はぁ…………今日はもう寝る。来たいならそうしろ」
「……えへへ、うん!」
素直に良いと言えない遠回しな俺の言葉に、レイは満面の笑みを浮かべた。
「カイトはあったかいねぇ〜」
「そういうレイはひんやりだな」
同じ掛け布団の中で、ふんわりとレイの香りが漂う。外見のイメージの甘い匂いではなく、鼻腔を通り抜けるミントのような香り。
吸血霊鬼は吸血鬼と幽霊の両方に似ている。
その為か人間と比べて体温が低く、具体的には三十度も無いらしい。
夏も近付いてくる今の季節にはありがたいことだ。
「ねえ、ぎゅーってしていい?」
「ダメ」
「え〜っ!?」
レイはとにかく距離が近い。事あるごとに抱き着こうとするし、こうしてベッドに平気で潜り込んでくる。
最初の頃は変に興奮して寝付けない日も多かったが、慣れた今では寝苦しい夜のひんやりグッズくらいに思える様になった。
もちろん、ベッドで抱き着くのはダメだ。風呂もだぞ。
「……今日はごめんね?」
「うん?」
もっと駄々をこねると思っていたが、レイの言葉は謝罪だった。
「あたしの事……嫌いにならないでね?」
そう言ってレイは俺の袖をつまんだ。
「…………ああ」
急にしおらしくなったレイ。実はこれが初めてではない。
叱られてベッドに潜り込んで来た日、大体レイはこの顔になる。
それはまるで、俺に見捨てられる事を恐れている様で。
「あれで嫌いになるならとっくになってるよ」
「わぷ!」
自由な方の手でレイの前髪をわしゃわしゃと撫でた。
レイに振り回されるのも慣れたものだ。賑やかな毎日を楽しいと思う程に。
一人で音楽を聴く以外何もしなかった家での俺は、ただ生きているだけだったから。
「変な事気にしてないで、もう寝ろ。俺ももう眠くて……」
「……うん、わかった」
血を与えた後はどうも眠くなって仕方ない。
安心した様子のレイも、次第に穏やかな表情へ変わっていった。
「おやすみ、カイト」
「ああ、おやすみ……レイ」
どさくさに紛れて俺の手を握るレイの小さな手を振り払う気にもなれず、俺は微睡みの中へ沈んでいった。
◇
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇえええ!!!!!!」
翌朝、強烈な痛みと自分の悲鳴で目が覚めた。
俺の上にのしかかって噛み付いてきたのは、寝ぼけたレイだった。
「寝ぼけてんじゃねえぞ!! レイ!!」
「あむぅ〜……じゅるるるるる」
「起きやしねぇ!!」
目の前でこれだけ騒いでいるのにどれだけ深く眠っているんだ。
引き剥がそうにも、制御されていない吸血霊鬼の力は人間では到底敵わない。
かろうじて牙は立てられていないものの、このままでは肩の肉が持っていかれそうだ。
「頼むから……ちゃんと俺の言う事聞いてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
俺の願いが届きレイが目覚めたのはそこから十分後、肩から血が滲み始めた頃だった。
鬼咲麗華(キサキ=レイカ)・1
女
外見年齢17歳前後
実年齢不明
11月9日生まれさそり座
吸血霊鬼
一人称:あたし
二人称:キミ
固有名詞:カイト以外は名前+くん、ちゃん、さん
身長:171
スタイル:細身長身、足が長い
ピンク髪、長髪、基本ポニーテールだが気分で変える事もある
深紅の瞳、縦長の瞳孔
好きな物:トマト
嫌いな物:にんにく
吸血霊鬼の女性。
いつもふわふわしていて何を考えているかわからないがカイトへの好意は隠そうとしない。
貞操観念が甘く風呂だろうがベッドだろうが平気で潜り込んでくる。
同棲している事がこじれて知られると厄介なので表向きは従兄妹の神上怜(ミカガミ=レイ)という事になっている。




