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EP9 チキンフライドステーキ

 金曜日の夕方は、ほかの日より少しだけにぎやかだった。


 週末に入る前の、ほっとした空気が町じゅうに流れるのだろう。シダーリッジの人たちは都会の人みたいに派手に浮かれたりはしないけれど、それでも金曜には金曜の顔がある。子どもたちは宿題を先にやるか後にするかで揉めていて、大人たちは「明日は少し寝坊してもいい」と思いながら仕事を終える。ダイナーに来る足取りも、ほんの少し軽い。


 図書館を閉めたミリーが店に着いたときには、すでに駐車場に車が六台停まっていた。


 ドアを開けると、いつもより強い揚げ油の匂いがした。


「あ」


 思わず声が出る。


 厨房の前を通っただけでわかる。今日はあれだ。


 チキンフライドステーキ。


 ケンのダイナーで、月に二、三度しか出ない名物メニューだった。牛肉を叩いて薄くのばし、衣をつけて揚げ、たっぷりのグレービーをかける。南部の料理をこの町風に少しだけ素朴にしたような皿で、常連たちには妙に人気がある。


「顔見ただけでわかったな」


 カウンターの向こうからケンが言った。


「匂いでわかります。今日はこれなんですね」


「朝の仕込みで決めた」


「人気ですよね」


「ああ」


 ぶっきらぼうな返事だったが、ケンの手元は忙しい。揚げた肉を網に上げ、グレービーの鍋をかき混ぜ、横で温めていたマッシュポテトを皿に盛る。いつもより工程が多くて、そのぶん厨房の熱も高い。


 ミリーは急いでバッグを置き、手を洗ってエプロンをつけた。


「何か手伝います」


「サラダ頼む。あと、コールスローが切れそうだ」


「はい」


 カウンター席はすでにほとんど埋まっていた。ガソリンスタンドのおじさん、町役場の会計係、農場の兄弟、金曜だけ現れる郵便局員。みんな、今日はそれを食べる気で来た顔をしている。


「まだあるか、ケン」


「ある」


「よし」


 それだけで注文が通る。説明もいらない。町の食堂はそういうものだ。


 窓際のブース席には、先日からよく見る高校生の女の子たちが四人そろっていた。制服のまま、ポテトをつまみながら何かをひそひそ話している。ミリーが水を足しに行くと、全員の目が一度に上がった。


「ミリー、今日はあれだよね?」


「たぶんね。いま皆さんそれ頼んでるから」


「やった」


 一人が小さく拳を握る。


「ほんとにおいしいんだよね、あれ」


「この前、うちのお父さんが“昔のドライブインの味だ”って言ってた」


「それ褒めてるの?」


「褒めてるんじゃない? よくわかんないけど」


 くすくす笑い合う。その年頃の子たちは、食べものの話をしているだけでも、なぜか秘密めいた雰囲気になる。


 ミリーがメモを取っていると、一人がさらっと言った。


「ねえ、ミリーって今日も食べるの?」


「まだわからない。忙しそうだし」


「ケンが絶対なんか出すでしょ」


 その言い方があまりに断定的で、ミリーは少しだけ手を止めた。


「……どうしてそう思うの」


「だって出してるじゃん、毎回」


「毎回ではないです」


「毎回じゃなくても、なんかミリーだけ別メニュー率高くない?」


「率って」


 別の子が、ストローの先で氷をつつきながら口を挟む。


「この前もそうだったよね。私たちには普通のミートローフだったのに、ミリーのはなんか副菜が違った」


「見てたの?」


「見るでしょ、そりゃ」


「見ないで食べなさい」


 言いながら、自分の声が少しだけうわずった気がして、ミリーは内心で困る。


 そんなふうに見えていたのだろうか。


 いや、たぶん見えていたのだろう。町は狭いし、ダイナーはもっと狭い。カウンターの内側と外側に境目はあっても、人の視線までは止められない。


「でもいいなあ」


 最初に話しかけてきた子が、悪びれもせず言う。


「ケン、ミリーにはちょっと甘いよね」


「そんなことないです」


「あるよ」


「あるある」


「声が違うもん」


「声?」


「ほかの人には“そこ座れ”“それ取って”なのに、ミリーには“食ったか”って言う」


「それ同じくらい雑じゃない?」


「雑だけど雑の種類が違うの」


 あまりにも妙な分析で、ミリーは思わず笑ってしまった。


「なにそれ」


「ほんとだって。めろめろじゃん」


 最後の一言だけ、ひどく無邪気だった。


 ミリーはメモ帳でその子の肩を軽く叩いた。


「適当なこと言わないの」


「適当じゃないしー」


「はいはい、注文は?」


 話を切り替えると、女の子たちはまた顔を見合わせて笑いながら、それぞれに名物メニューを頼んだ。


 厨房に戻ると、ケンが皿を二枚並べていた。


「何言われた」


「え?」


「さっきから笑われてる」


「よく見てますね」


「見える」


 ケンは皿にポテトを盛りながら、こちらを見ないまま続ける。


「困ること言われたなら追い出す」


「追い出さないでください」


「じゃあ何だ」


「ただの高校生のおしゃべりです」


 ミリーはレタスをちぎりながら答えた。


「今日はチキンフライドステーキだから喜んでるだけ」


「そうか」


 ケンはそれで話を終えた。追及もしない。だが、気にしていないわけではないのだろう。そういうところは、少しだけ大きな犬に似ていると思うことがある。じっとして見えるのに、耳だけは動いているみたいな。


 七時前には、店はほぼ満席になった。


 テイクアウトの注文も入る。電話が鳴り、ベルが鳴り、食器の音が重なる。ケンはほとんど休まずに揚げ続けていた。ミリーはサラダと飲み物を回し、空いた皿を下げ、コーヒーを足し、カウンターの端でパイを包んだ。


 忙しい夜は時間が早い。


 気づけば窓の外はもう暗く、ガラスに店内の明かりだけが映っている。


「ミリー、これ三番テーブル」


「はい」


「こっち、テイクアウト」


「はい」


 返事をしながら皿を持ち上げたとき、カウンター席の会計係のおばさんが笑った。


「ほんと、手慣れてきたわねえ」


「まだまだです」


「もう町の子みたいよ」


「そう見えるならうれしいです」


「見えるわよ。ねえ、ケン」


 急に振られて、ケンはグレービーをかける手を止めずに答えた。


「何だ」


「ミリー、もう手放せないでしょ」


「手放すも何も、もともと雇ってない」


「そういう言い方する」


 おばさんは楽しそうに笑ってから、ミリーの方にだけ聞こえる声で言った。


「でもあの人、気に入ってるものにはちゃんと手をかけるのよ」


「……そうなんですか」


「昔からね。店も、道具も、人も」


 ミリーは返事をしないまま、その言葉だけを胸のどこかに引っかけておいた。


 八時近くになって、ようやく客足が落ち着いた。


 高校生たちが帰り、農場の兄弟が最後のコーヒーを飲み終え、テイクアウトの袋も途切れる。店の中に、忙しさのあとにだけ残る静かな熱気がたまっていた。


 ミリーがテーブルを拭いていると、ケンが奥から声をかけた。


「こっち来い」


「はい?」


「食うだろ」


 その声に、さっきの高校生たちの言葉がふっとよみがえる。

 ――絶対なんか出すでしょ。


 ミリーは少しだけ息をついて、厨房の端に回った。


 カウンターの内側に、皿が一枚置かれている。


 チキンフライドステーキ。けれど、客に出していたものより少しだけ小ぶりだった。付け合わせのポテトも少なめで、かわりに温野菜が多く乗っている。グレービーも、たっぷりというより食べやすい量にしてある。


 見た瞬間にわかってしまった。


 これは、明らかに自分用だ。


「……これ」


「食いきれる分にした」


「やっぱり」


「何がだ」


「いえ」


 ミリーは皿を見つめたまま、小さく笑った。


 客に出すのと同じものをそのまま出せばいいのに、そうしない。少し小さくして、少し野菜を増やして、たぶんグレービーも塩を控えている。余ったから、ではない。最初からそのつもりで作っている。


 そういうことを、ケンは説明しない。


「どうした」


「なんでもないです」


「冷める」


「いただきます」


 カウンターの端の席に座ると、ケンは向かいには座らず、いつものように片づけを続けた。フライヤーの火を落とし、トングを洗い、鍋をずらす。けれど完全に離れはしない。ミリーが食べるあいだ、何となく同じ空間にいる。


 衣はさくっとしていて、その下の肉はやわらかい。グレービーが重すぎず、マッシュポテトとよく合った。名物メニューとして人気があるのもわかるし、それを少し軽くしたこの一皿が、自分にはちょうどいいこともわかる。


「おいしいです」


「そうか」


「今日、すごく出ましたね」


「ああ。たまにしかやらないからな」


「手間がかかるんですか」


「いつもの倍はな」


「じゃあ大変だったでしょう」


「まあな」


 ケンは洗い終えたボウルを棚に戻し、それからふとこちらを見た。


「おまえは食うの遅いから、熱いうちに食えるサイズにした」


 何でもない顔で言うから、ミリーは危うくむせそうになった。


「……それ、言うんですね」


「事実だ」


「そうですけど」


「前にシチュー冷ましてただろ」


「猫舌なんです」


「知ってる」


 知ってる。


 その一言が妙にまっすぐで、ミリーは一瞬だけフォークを止めた。


 この人は、ほんとうによく見ている。


 余計なことは聞かない。慰めるような言葉もあまり言わない。けれど、食べる速さも、疲れる時間帯も、苦手なものも、たぶん静かに覚えていく。


 優しさというより、観察に近い。けれど、その観察がいつも自分を楽にする方向に使われるから、たちが悪い。


「ねえ、ケン」


「何だ」


「私だけ量が違うの、やっぱり目立ってますよ」


 言ってしまってから、少し早かったかもしれないと思った。


 ケンは手を止め、ようやく真正面からこちらを見た。


「誰に言われた」


「誰っていうか……高校生たちに」


「何て」


「私にはちょっと甘い、って」


 言葉にした瞬間、自分のほうが恥ずかしくなってしまう。けれどケンは、照れた様子も怒った様子もなく、ただ少し考える顔をした。


「食えない量を出して残されるよりいい」


「そういうことじゃなくて」


「じゃあ何だ」


「だから……」


 ミリーは言葉を探したが、うまく見つからなかった。


 特別扱いがいやなわけではない。むしろ、少しうれしいと思っている自分がいる。それを町の子たちに見抜かれているのが困るのだ。けれど、そんなことをそのまま言えるわけがない。


「目立つなら、次から皿を同じにする」


 ケンが言った。


 その声音はいつもどおり平坦だったが、ミリーにはわかった。これは、からかいではない。本当にそうする気だ。


 だから、反射みたいに口が動いた。


「それは嫌です」


 言ったあとで、しまったと思う。


 ケンが目を細めた。ごくわずかに。


「嫌なのか」


「……嫌というか」


「同じ皿でいいならそうする」


「でも、食べきれないし」


「じゃあ今までどおりでいい」


 話は終わった、という顔で、ケンはまた手元に戻った。


 ミリーはしばらく何も言えなかった。


 結局、この人は深い意味で何かをしているわけではないのかもしれない。ただ、自分がちゃんと食べられるようにしているだけ。ちゃんと立って働けるように。夜にふらつかないように。次の日に疲れを残しすぎないように。


 でも、その“だけ”を、毎回やる。


 それがいちばん困る。


 フォークの先でポテトを少し崩していると、店のドアが開いてベルが鳴った。


 もう客の時間ではないので、二人ともそちらを見る。


 入ってきたのはグレイスだった。薄いカーディガンを羽織り、図書館帰りらしいトートバッグを下げている。


「まだ開いてる?」


「グレイス?」


 ミリーが立ち上がりかけると、グレイスは手を振った。


「座ってていいわ。返却ボックスの鍵、店に置きっぱなしだったの思い出して」


「あります、ここ」


 ミリーがカウンターの端から小さな鍵束を取って渡すと、グレイスは受け取りながら、目の前の皿を見た。


「あら」


 それだけ言って、すぐにわかったような顔をする。


「今日はチキンフライドステーキの日だったのね」


「はい。すごく忙しくて」


「でしょうね。匂いでわかるもの」


 グレイスは笑い、それからミリーの皿をもう一度見た。


「いいサイズ」


 その一言に、ミリーは咳払いをしたくなった。


 グレイスは何も足さない。ただ、その“いいサイズ”の中にほとんど全部を含めている顔だった。


「コーヒー、持っていくか」


 ケンがぶっきらぼうに聞く。


「ありがとう。でも今日はもう遅いからやめとくわ」


「そうか」


「その代わり、今度は私にも名物を食べさせてちょうだい」


「先に言え」


「予約制なの?」


「だいたいそうだ」


 グレイスはくすっと笑ってから、鍵をバッグにしまった。


「じゃあ、お先に。ミリー、帰り道気をつけてね」


「はい」


「ケンも、あんまり遅くまで働かせないで」


「働かせてない」


「そうね、そういうことにしておくわ」


 言い残して、グレイスは店を出ていった。


 ベルの音が消えると、店の中はまた静かになった。


 ミリーは皿の上の最後の一切れを見つめながら、小さくため息をつく。


「グレイスさん、絶対わかってましたよね」


「何がだ」


「何が、じゃないです」


「鍵取りに来ただけだろ」


「……そういうところです」


 ケンは答えず、代わりに食器を重ねた。


 ミリーは最後の一口を食べて、水を飲んだ。ちょうどいい量で、ちょうどよく満たされる。残さず食べられて、でも苦しくならない。その加減が、あまりにも正確だった。


「ごちそうさまでした」


「ああ」


「おいしかったです」


「ならよかった」


 皿を下げようとすると、ケンが先に取った。


「置いとけ」


「洗いますよ」


「今日はいい」


「でも」


「食ったばかりだろ」


 そう言われると、もう返す言葉がない。


 ミリーは手を引っ込め、カウンターの木目を眺めた。古い木の表面には、小さな傷や薄い染みがいくつもある。長く使われた場所の、手ざわりのいい欠点だ。


「……高校生たちがね」


 ぽつりと言うと、ケンが皿を流し台に置きながら「ん」とだけ返した。


「“めろめろ”だって言ってました」


 一瞬、店の音が止まったような気がした。


 いや、実際には止まっていない。冷蔵庫の低い音も、水の流れる音もある。ただ、ケンが動かなかったので、そう感じただけだ。


「誰が」


「誰がって」


「誰がめろめろなんだ」


 ミリーは思わず笑ってしまった。


「そこからですか」


「聞こえてない」


「あなたが、です」


 言った途端、急に静けさが増した気がした。


 ケンは背を向けたまま、しばらく何も言わなかった。それからようやく、蛇口を止めてタオルで手を拭き、低い声で言った。


「高校生は暇なんだな」


 それだけだった。


 けれど、耳が少し赤い。


 ほんの少しだけ。照明のせいかもしれないと思うくらい、かすかな変化。それでも見えてしまった以上、ミリーはもう笑うしかなかった。


「そうかもしれませんね」


「変なこと吹き込まれたら聞き流せ」


「はい」


「おまえは食うのが遅くて、疲れると顔色が落ちて、揚げ物は好きだけど量は多いと無理で、グレービーは少ないほうがいい。それだけだ」


 まるで注文票を読むみたいに言う。


 ミリーは目を瞬いた。


「……それだけ、なんですか」


「ほかに何がある」


 ケンは本気でそう言っていた。


 だからミリーは、胸の奥で何かがやわらかくほどけるのを感じた。ああ、この人は、ほんとうにこういう人なのだ。好きだから見るのではなく、見ると決めた相手をきちんと見る。守ると決めたわけでも、抱え込むと決めたわけでもない。ただ、自分の手の届く範囲で、雑に見えて実は丁寧に扱う。


 それがたぶん、この人の“甘い”なのだ。


「……じゃあ、それでいいです」


 ミリーが言うと、ケンは少しだけ首をかしげた。


「何がだ」


「それだけで」


 それ以上は説明しなかった。


 たぶん、今はまだ名前をつけなくていい。町の子たちが何と呼ぼうと、グレイスが何を察していようと、ここにあるものは、まだあたたかい夕食みたいに具体的で、でも輪郭は曖昧だ。


 ただ、今日も自分のための皿が一枚あった。


 それだけで、今は十分だった。


 店じまいの準備が進む中、ミリーは立ち上がってエプロンを掛け直した。


「じゃあ、最後まで片づけます」


「いい」


「よくないです。今日は忙しかったでしょう」


「明日、図書館だろ」


「午前だけです」


「それでも寝ろ」


「その言い方、ほんとに保護者みたい」


「違うのか」


「違います」


 即答すると、ケンはまたあの、笑ったとも言えない程度に表情をゆるめた。


「じゃあ、働け」


「はい」


 そのやりとりが妙におかしくて、ミリーは笑いながらグラスを下げた。


 外では風が出てきたらしく、窓の向こうの街路樹が揺れている。町はもう夜の顔になっていた。家々の明かりが点り、車の通りは少なく、どこかの家の犬が一度だけ吠える。


 金曜の夜。


 忙しかったぶん、店の中には満ち足りた静けさが残っていた。


 ミリーはカウンターを拭きながら、さっきの高校生たちの顔を思い出す。

 ――めろめろじゃん。

 その言葉を、もう否定しきれない自分が少しだけ可笑しかった。


 でもたぶん、めろめろなのは、どちらか一方じゃない。


 ただし、それを今ここで誰かに言う気は、まだなかった。

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