EP10 町の噂はアップルパイの匂いがする
土曜日の午前中、図書館は平日とは少し違うにぎわい方をする。
学校がないぶん、子どもたちが朝から来る。親に連れられて絵本コーナーへ向かう小さな子もいれば、宿題のために調べものをしに来た中学生もいる。農場や店の手伝いが始まる前の短い時間だけ、本を借りに寄る子もいた。
ミリーは返却された本を棚に戻しながら、開館してまだ一時間も経っていないのに、今日はやけに人の出入りが多いなと思った。
しかも、本のことだけではない話しかけられ方を、朝から三回している。
「ミス・コリンズ、昨日ダイナー忙しかったでしょ?」
最初は、児童書コーナーで会った若い母親だった。
次は、新聞を読みに来た会計係のおばさん。
そして今、カウンターに児童カードを差し出しながら笑っているのは、昨日ダイナーにいた高校生の一人の母親だ。
「どうしてですか?」
ミリーがなるべく普通に聞くと、その人はさらっと言った。
「うちの子がね、帰ってからずっと言うのよ。ケンのチキンフライドステーキ最高だったって」
「それはよかったです」
「あと、ミリーがすっかり店の人みたいだったって」
そこまではまだよかった。
問題は、その次だ。
「それで、ケンがめずらしく――」
「お母さん」
背後から、少しうんざりした声が飛んできた。
振り返ると、昨日の女子高生の一人が立っていた。髪を後ろでまとめ、今日は私服だ。手に文庫本を一冊持っている。
「その話、図書館でしないで」
「どうして? あなたが昨日言ってたんじゃない」
「だから余計に」
娘に睨まれて、母親はおかしそうに笑った。
「ほらね、図星なのよ」
「違うし」
「何が違うの?」
「何もかも」
母娘のやりとりに、ミリーはつい笑ってしまった。
女の子の方は耳まで赤くして、カードをカウンターに置いた。
「返却だけです」
「はい。ありがとう」
「それと、新しいミステリー入ってたら取り置きお願いします」
「わかった。入ったら連絡するね」
「お願いします」
女の子はそれだけ言うと、母親の腕を引っ張って去っていった。去り際にちらっとだけこちらを見て、あからさまに気まずそうな顔をする。その顔があまりに年相応で、ミリーは思わず小さく手を振った。
女の子はますます赤くなって、足早に出ていく。
母親だけが振り返り、目で「あとでね」とでも言うように笑った。
あとで、は困る。
ミリーは返却印を押しながら、そっと息を吐いた。
町の噂は速い。けれど、それはたいてい悪意だけで走るのではない。たとえば誰かが新しい犬を飼ったとか、誰それの庭のりんごが今年はよく実っているとか、そういう話と同じ棚に並べられて広がる。軽くて、少し甘くて、でも人の手をよく経るぶん形が変わりやすい。
アップルパイの匂いみたいなものだ、とミリーは思う。
焼いている家から漂ってきて、通りを歩いているうちに「あそこの家、今日パイだって」と誰かが知る。別に秘密ではないが、かといって看板を出しているわけでもない。そんなふうにして、町の情報はいつもどこか生活の匂いと一緒に流れていく。
「ミリー」
棚の向こうからグレイスが顔を出した。
「午前で上がりだったわよね」
「はい。あと三十分くらいです」
「今日はダイナー?」
「たぶん」
「たぶん、ねえ」
昨日も聞いた気がする言い方だった。
ミリーが少しだけ目を細めると、グレイスは笑いをこらえた顔で近づいてきた。
「責めてないのよ。いいことだと思ってる」
「何がですか」
「あなたが、自分の足で行く場所を増やしてること」
それは予想外にまっとうな言葉で、ミリーは返事に少し遅れた。
グレイスはカウンターに返却された絵本を積みながら、静かに続ける。
「この町ってね、親切だけど、ちょっと放っておくでしょう。困ってる人に意地悪はしないけど、本人が自分でどこに根を下ろすかは見てるの」
「……はい」
「だから、図書館に来て、診療所に行って、ダイナーにも寄るあなたを見て、みんな安心してるのよ」
「安心?」
「ええ。“ちゃんと暮らし始めたんだな”って」
その言葉は、思った以上に胸にしみた。
ミリーは一瞬だけ、本の背表紙に視線を落とす。暮らし始めた。そう言われると、確かにそうなのかもしれないと思う。まだ仮住まいみたいな気分がどこかに残っているのに、町の方はもう少し先で、自分のことを位置づけている。
「……でも、ちょっと見られすぎてる気もします」
正直に言うと、グレイスはあっさりとうなずいた。
「それはそうね。狭い町だもの」
「ですよね」
「ただ、あなたが思ってるより、ずっと優しいわよ」
「優しいのはわかります」
「なら大丈夫」
何が大丈夫なのかは、はっきり説明されなかった。
けれど、グレイスがこういう言い方をするときは、大体ほんとうに大丈夫なのだろう。図書館の館長であり、この町で長く暮らしてきた大人の、雑だけれど確かな保証だった。
昼前に図書館を閉めるころには、窓の外の日差しが少しだけ強くなっていた。
風は冷たいのに、日向は明るい。秋の入り口にある町は、いつもそんなふうに気まぐれだ。
ミリーはバッグを肩にかけ、返却ボックスを確認してから外へ出た。
ダイナーに向かう途中、雑貨屋の前でマーサに呼び止められる。
「ミリー、ちょうどよかった」
「こんにちは」
「こんにちは。これ、持ってってくれる?」
差し出されたのは、紙袋に入ったシナモンロールだった。まだ少しあたたかくて、甘い匂いがする。
「焼いたんですか?」
「朝のうちにね。少し形が悪いから店には出さないの」
「十分きれいですよ」
「そういうのはいいの。ケンと食べなさい」
その言い方に、ミリーは反射的に首をかしげた。
「どうしてケンと」
「だってどうせダイナー行くんでしょう?」
「行きますけど」
「ならいいじゃない」
マーサは紙袋を押しつけるように渡して、それから意味ありげに目を細めた。
「昨日、うちの姪が言ってたわよ」
「何をですか」
「ケン、ミリーにだけ野菜多めなんだって」
もうそこまで行っているのか、とミリーは思った。
「見られてますね……」
「そりゃ見られるわよ。あの店、みんな暇つぶし半分で食べてるんだから」
「暇つぶし半分って」
「残り半分は本気で食べてる」
妙に正確そうな分析だった。
マーサは店のドアノブに手をかけながら、ふとやわらかい声になった。
「でも、いいじゃない。ちゃんと食べさせてもらってるなら」
その“ちゃんと”の中には、単に食事を出す以上の意味が含まれている気がした。
ミリーはうなずき、紙袋を抱え直す。
「ありがとうございます。持っていきます」
「ええ。あと、変なこと言われても気にしないのよ」
「やっぱり言われてるんですね」
「町だもの」
それで全部済んでしまうのが、この町らしかった。
ダイナーのベルを鳴らすと、昼時前の少し落ち着いた空気が迎えてくれた。土曜のランチ前は、平日より家族連れが増えるまでの短い谷間がある。店内にはまだ客が三組ほどで、カウンター席の常連が新聞をめくっていた。
ケンは厨房の奥で玉ねぎを刻んでいた。
ミリーに気づくと、まな板から顔を上げる。
「早いな」
「図書館、午前だけですから」
「そうだったか」
「そうでした。あと、マーサさんからシナモンロールです」
紙袋を掲げると、ケンは一瞬だけ手を止めた。
「また何かもらったのか」
「“ケンと食べなさい”って」
「……そうか」
その間に含まれているものを、ミリーは見逃さなかった。
「何ですか、その間」
「何でもない」
「絶対何かありますよね」
「マーサは人に食いもの持たせるとき、だいたい余計な一言をつける」
「知ってるんですね」
「長いからな」
長い。
それだけで、ケンと町の人たちの積み重ねた時間が少し見える気がする。ミリーにはまだ知らない昔話が、たぶんこの人とこの町の間にはいくつもあるのだろう。
ミリーはエプロンを掛けながら聞いた。
「今日も忙しくなりそうですか」
「昼から家族連れが来る」
「じゃあ、その前に何かやります」
「コーヒーだけ見といてくれ」
「はい」
カウンターの内側に立つと、もうそこが不思議なくらい自然な位置に思えた。初めてここに入ったときのぎこちなさが、今では思い出しにくい。
コーヒーを補充し、砂糖入れを整え、ナプキンを足していると、カウンター席の常連がにやっと笑った。
「よう、ミリー。今日は昼からか」
「午前中、図書館だったんです」
「働き者だなあ」
「そうでもないですよ」
「いやいや。ケンのとこまで手伝ってりゃ十分だ」
新聞をたたみながら、その人は声をひそめるでもなく続けた。
「昨日、うちの孫がさ、“あの二人、もうつきあってるの?”って聞いてきてな」
ミリーは危うくコーヒーポットを落としかけた。
「お孫さんに何て答えたんですか」
「“町の大人はそういうことを勝手に決めつけないんだ”って言っといた」
「……ありがとうございます」
「その代わり、“でもケンはだいぶ気に入ってる”とは言った」
「それ余計です」
おじさんは楽しそうに肩を揺らした。
「まあ、安心しろ。悪く言ってるやつはいない」
その言葉は慰めになっているようで、実はあまりなっていない。悪く言われていないのはありがたいが、つまり話題にはなっているということだ。
ミリーがため息をついていると、厨房からケンの声が飛んだ。
「何の話だ」
「何でもないです」
「顔が何でもなくない」
「町の噂です」
「放っとけ」
実に簡単に言う。
ミリーはカウンター越しに顔を向けた。
「放っとけるなら、最初から困ってません」
「困ってるのか」
「少しは」
ケンは玉ねぎをフライパンにあけて、じゅっと音を立てさせた。それから少し考えるようにして、低い声で言う。
「嫌なら店に来る回数を減らせ」
ミリーはその言葉に、思ったよりはっきり首を振った。
「それは嫌です」
昨日と同じ答えだった。
言ってから、あ、と気づく。けれど今度はしまったとは思わなかった。ただ事実だった。
ケンは少しだけ目を上げる。
「なら、放っとけ」
「雑ですね」
「町なんてそんなもんだ」
それもたしかに、この町の人間らしい答えなのかもしれない。
嫌なら距離を取る。嫌じゃないなら少し我慢する。噂を消すために大騒ぎするより、毎日をちゃんと続けて、そのうち話題が日常に溶けるのを待つ。たぶん、この町の大人たちはみんなそうやって生きてきた。
昼が近づくにつれ、家族連れが入り始めた。
子ども用のメニューを聞かれ、ミルクを運び、ケチャップを追加で持っていく。小さな子がストローを噛み、父親がバーガーを半分に切り分け、母親がサラダのドレッシングを別皿で頼む。土曜のダイナーは、平日より少しだけ家庭の延長に近い。
その忙しさの中で、ミリーは何度も感じた。
見られている。
けれど、それは“面白がって監視されている”というより、“どう育つのか見守られている”に近い視線だった。
たとえば子どもが自転車に初めて乗るときみたいに、倒れないか少しひやひやしながら、それでも手は出しすぎず見ている。町の人たちは、案外そういう距離感を持っている。
昼のピークが一段落したころ、ケンがカウンターの端に皿を置いた。
「食え」
「今日は何ですか」
「ターキーサンド」
「軽い」
「昼だ」
皿の横には、マーサのシナモンロールが半分に切られて添えられていた。勝手に出してきたらしい。
「これも?」
「置いとくとうるさい」
「マーサさんが?」
「いや、おまえが見てるだけで食わない」
また見られていた。
ミリーは苦笑して席に座る。
「今日は、なんか朝からずっといろんな人に言われました」
「何を」
「ケンが私に甘いって」
言いながらサンドイッチを持ち上げると、ケンはアイスティーの補充をしながら答えた。
「町の人間は暇なんだな」
「それ昨日も言ってました」
「今日もそうなんだろ」
「否定できませんけど」
ミリーは一口かじる。ターキーはしっとりしていて、パンは軽く焼いてある。中に挟んであるピクルスは薄く、マスタードも強すぎない。これもまた、たぶん自分用の加減だ。
「……ねえ」
「何だ」
「私、そんなにわかりやすく特別扱いされてます?」
ケンは少しだけ眉を寄せた。
「おまえは、うるさいのが苦手だろ」
まったく別方向から返ってきた。
「え?」
「ランチのピーク過ぎるまで待ったほうが食いやすい。昼は軽いほうがいい。甘いものは少しなら食う」
まるで確認事項みたいに並べる。
「だから今だ」
それだけだった。
ミリーはサンドイッチを持ったまま、しばらく何も言えなかった。
結局この人は、いつも同じだ。周囲がどんなふうに意味を足しても、自分のやることの理由を、たぶん本当にそれ以外に持っていない。少なくとも今のところは。
けれど、それを“それだけ”と呼ぶには、あまりにも丁寧すぎる。
「……そういうとこですよ」
ミリーが小さく言うと、ケンは首をかしげた。
「何だ」
「なんでもないです」
なんでもなくない。でも、説明するにはまだ早い気がした。
カウンター席の端では、小さな男の子がパイ皿を空にして満足そうにしている。窓際では若い夫婦が赤ん坊を交代で抱き、保安官補佐がテイクアウトの袋を受け取って帰っていく。ベルが鳴って、また一組入ってくる。
町は今日も、いつものように回っている。
その回転の中に、自分の席が少しずつ固定されていくのを、ミリーは感じていた。
午後三時を過ぎると、昼の家族連れも引いて、店には再び穏やかな時間が戻った。
ミリーが窓を拭いていると、外の歩道を高校生の女の子たちが二人、通りかかった。昨日の子たちだ。こちらに気づくと、二人はガラス越しに手を振ってくる。
ミリーもつられて手を振ると、そのうち一人が口の形だけで大げさに言った。
――やっぱりいる。
もう一人が肩を揺らして笑う。
それはからかいでもあったけれど、どこかうれしそうでもあった。
ミリーは窓の内側から、わざと少しだけ眉を上げてみせる。すると二人はきゃっと小さく笑って、そのまま通り過ぎていった。
「何だ」
背後からケンの声がする。
「高校生たちです」
「またか」
「またです」
「追い出すか」
「追い出さないでください」
同じやりとりを、またする。
それがもう少しおかしくて、ミリーは笑いながら布をたたんだ。
「でも、たぶん」
「何だ」
「嫌じゃないです」
店の中が一瞬だけ静かになった気がした。
ミリーは窓の外を見たまま続ける。
「見られてるの、ちょっと落ち着かないけど。でも、ここにいるのが自然になってきたってことなら……そんなに悪くないかなって」
ケンはすぐには答えなかった。
それから、低く短く言う。
「そうか」
その“そうか”は、いつもより少しだけやわらかかった。
ミリーは振り返り、カウンターの向こうの大きな背中を見る。ケンは相変わらず無愛想で、説明が足りなくて、でも毎日同じ場所に立っている。その姿が、この町の人たちにとってどれだけ当たり前の風景なのか、少しずつわかってきた。
だからたぶん、そこに自分が映り込み始めていることも、町の人たちにはちゃんと見えているのだ。
アップルパイの匂いみたいに。
甘くて、生活に近くて、気づけば通りの向こうまで届いているような、そんな形で。
「ミリー」
「はい?」
「シナモンロール、残りも食うか」
「半分で十分です」
「そうか」
「でも、あとでコーヒー飲みます」
「わかった」
その会話もまた、なんでもないようで、きっとこの町のどこかには届いてしまうのだろう。
けれど今は、それでもよかった。
噂になっているのは、まだ恋ではなく、暮らしの匂いだ。
それなら少しくらい、町に混ざってもいい気がした。




