EP13 やさしい町は少しだけ知りすぎている
火曜日の午後、図書館の窓にはやわらかい光が差していた。
午前中の利用者が一段落し、子どもたちが学校から帰ってくるにはまだ早い。館内には紙の匂いと、古い木の棚があたためられたような匂いが混じっている。静かな時間だった。
ミリーは返却された本を分類しながら、午前中から続いている、何とも言えない引っかかりをうまく処理できずにいた。
何かがあった、というほどのことではない。
ただ、町の大人たちの顔に、少しだけ“知っている人の顔”が混じっている。
それが気になる。
「ミリー、その絵本、修理箱に入れといてくれる?」
カウンターの向こうからグレイスが言った。
「はい」
ページの端が少し破れた絵本を抱えて奥の作業机へ行き、修理用の箱に入れる。のりや透明テープの匂いがほんの少し立った。
グレイスは台帳に何か書き込みながら、何気ない調子で言う。
「今日は診療所にも寄ったんですって?」
やっぱり、と思った。
ミリーは箱のふたを閉じながら振り返る。
「どうして知ってるんですか」
「町だから」
「その答え、便利すぎません?」
「かなり便利よ」
グレイスは悪びれもせず笑った。
「でも本当にそれだけ。エレンが本を借りに寄って、そのとき話したの」
エレンは診療所の受付だ。午前中、付き添いで来ていた高齢の女性が少し疲れたので、ミリーが一緒にベンチまで送った。そのついでに診療所へ寄り、処方箋の受け取りを手伝っただけだ。
「別に大したことじゃないです」
「ええ。大したことじゃないわ」
グレイスの返しはあっさりしている。
それなのに、どこか含みがある。
「……何ですか、その言い方」
「何でもないわよ」
「それ、絶対何かあります」
「あるとしたら、あなたが気にしすぎ」
そう言われると、返しにくい。
たしかに気にしすぎかもしれない。昨夜のことが少し頭に残っているからだ。ケンが送ると言って、実際に途中まで送ってくれて、そこで「待ってました?」なんて聞いてしまった。
思い返すと、あれはだいぶ変だった。
自分でも、あの聞き方は少しずるいと思う。答えづらいのがわかっている問いを投げて、反応だけ確かめようとしたのだから。
しかも、そのあとのケンの返事が、あまりにもケンらしくて。
――店の段取りがある。
それでいて、少しだけ言い訳みたいにも聞こえた。
「ミリー?」
グレイスに呼ばれて、ミリーは顔を上げた。
「ぼんやりしてる」
「すみません」
「昨日ちゃんと眠れた?」
その聞き方まで似ているので、ミリーは思わず小さく笑ってしまった。
「どうしてみんな同じこと聞くんですか」
「みんな?」
「マーサさんも言ってました。ちゃんと食べさせてもらってるならいいって」
「それはいいことじゃない」
「そうなんですけど」
「それに、ミリー。あなた、ちょっと顔に出るのよ」
ミリーは本を持ったまま止まった。
「何がですか」
「いろいろ」
「雑です」
「恋の話はだいたい雑なの」
恋、という言葉があまりにさらっと出てきたので、ミリーは一瞬、呼吸を忘れた。
「ち、違います」
「そう」
「そうって……」
「違うなら違うでいいのよ」
グレイスはにこりともせず、いつもの調子で返した。その無造作さが、かえって困る。
違う。
少なくとも、まだそういうふうに呼ぶのは早い。
けれど、では何なのかと聞かれると、答えにくい。
やさしくされている。見てもらっている。気にかけてもらっている。生活の中に組み込まれている。それを感じるたび、胸のどこかが少しずつやわらかくなっていく。
名前をつけるにはまだ早い。
でも、何でもないとも言い切れない。
「ねえ」
ミリーは本を棚に戻しながら、できるだけ自然な声で聞いた。
「……ケン、今日ここ来ました?」
グレイスがペンを止める。
「どうして?」
「いえ、何となく」
「来てないわよ」
「そうですか」
そこで終わればよかったのに、グレイスは続けた。
「でも朝、コーヒーを飲みに来たとき、ちょっと面白い顔してた」
やっぱり何かあったのだ。
ミリーは棚の前で足を止めた。
「面白い顔?」
「あなたが昨夜ちゃんと帰れたか、たぶん少し気にしてたわね」
「グレイスさん」
「何?」
「それ、本人に言いました?」
「まさか。そんな意地悪しないわ」
しないのだろう。しないのだろうけれど、その“面白い顔”という表現に、だいぶ情報が詰まっている。
ミリーは背表紙を整えるふりをしながら、そっと息を吐いた。
朝のケン。
コーヒーを淹れて、無愛想な顔で店に立っているケン。
その人が、自分の帰りを少し気にしていた。
それは昨夜の延長として自然なことのはずなのに、なぜだか胸の奥に小さな灯りがともる。
「……町の人って、少し知りすぎじゃないですか」
「少しじゃないわね」
グレイスははっきり言った。
「かなり知ってる」
「怖いです」
「慣れるわよ」
慣れたくないような、でも、少しだけもう慣れ始めているような気もした。
午後三時を過ぎると、学校帰りの子どもたちがぽつぽつと入ってきた。犬の本を借りに来るハンナ、昆虫図鑑ばかり開く双子、宿題をしに来た中学生。図書館は急に人の気配で満ちて、ミリーも考えごとをする暇がなくなる。
それでも、ふとした拍子に思い出す。
昨夜の帰り道のこと。
朝、何かあったらしい店のこと。
そして、町の大人たちが揃って見せる“知っている人の顔”。
「ミス・コリンズ」
声をかけてきたのは、昨日ダイナーで見かけた男子高校生だった。図書館で冒険ものの続巻を勧めた子だ。今日はひとりで来ているらしい。
「これ、ありました?」
「ありますよ。ちょっと待ってね」
棚から本を取り出して渡すと、彼は嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます」
「読み終わったらまた教えてね」
「はい」
その会話はごく普通だった。ごく普通なのに、なぜか昨夜より少しだけ、ケンの顔が思い浮かぶ。フライパンを返す手が少し乱暴だったこと。水を差し出したとき、素直に受け取ったこと。あれは、たぶん苛立っていたというより、少し落ち着かなかったのだ。
どうして。
自分でもわかっていないのに、そこを考え始めると、心がふわふわして落ち着かない。
四時半を回り、図書館の窓の光が少し傾く。
片づけを始める頃には、もう今日はダイナーへ寄るつもりになっていた。最初からそう決めていたわけではないのに、自然に足がそちらへ向く。もはや“いったん寄る”ですらなく、一日の後半に組み込まれた動きだった。
グレイスが帳簿を閉じながら言う。
「今日は遅くならないうちに上がっていいわよ」
「ありがとうございます」
「ケンによろしく」
「それ、最近みんな言いますね」
「だって会うでしょう?」
「会いますけど」
「ならいいじゃない」
町の人たちは、この“ならいいじゃない”でだいたい全部済ませてしまう。
ミリーはバッグを肩にかけ、図書館を出た。
外は朝より少しだけあたたかかったが、風にはもう夕方の冷たさが混じっている。雑貨屋の前を通ると、マーサがちょうど看板を拭いていた。
「あら、ミリー」
「こんにちは」
「こんにちは。今日もダイナー?」
「はい、たぶん」
「たぶん、じゃない顔してるわよ」
言われて、ミリーは笑ってしまった。
「そんなにわかります?」
「わかるわよ。若い子は足取りが違うもの」
「それ、全部恋愛みたいに聞こえます」
「全部が恋愛じゃないのよ。でも、全部が生活ではあるの」
マーサの言葉は、ときどきひどく核心に近い。
ミリーは少しだけ黙った。
「……生活、ですか」
「そう。毎日寄る場所ができて、そこで誰かが待っていて、食べるものの量まで覚えられてる。十分、生活でしょう?」
ミリーは返事をしなかった。
返事をすると、何かが一段深くなってしまう気がしたからだ。
マーサはそれ以上追わず、看板を立て直してから言った。
「ねえ、今朝のケン、朝からちょっと変だったらしいわよ」
やっぱりそこに戻るのか、と思う。
「誰から聞いたんですか」
「マイク」
「早い……」
「町だもの」
またそれだ。
けれど、マーサの目は笑っていなかった。面白がってはいるが、それだけではない、少し確かめるような色がある。
「たぶんね、あの人、自分で思ってるよりずっと顔に出るの」
「ケンが?」
「ええ。言葉が少ない人ほど、たまに出たときわかりやすいのよ」
それは少し想像できた。
ケンは普段あまり表情を変えない。だからこそ、ほんの少しゆるんだ目元や、口元の固さだけでも、見ているほうには妙に伝わる。
「……変だった、ってどんなふうに」
気づけば、そんなことを聞いていた。
マーサはすぐには答えなかった。代わりに、こちらをじっと見てから言う。
「知りたいの?」
その聞き方は、少しだけずるい。
ミリーはバッグの持ち手を握りしめた。
「……少し」
「そう」
マーサはふっと微笑んだ。
「なら、自分で見たほうがいいわ」
結局、教えてくれない。
でもたぶん、それでいいのだろう。人づてに聞くより、自分の目で確かめたほうがいいこともある。
ダイナーのベルを鳴らすと、夕方前の少し静かな空気が出迎えた。まだディナーには早く、カウンターに常連が二人、奥の席に母娘が一組いるだけだ。店内には煮込みの匂いがして、いつもより少し甘い。たぶんミートローフだ。
ケンは厨房の奥で皿を拭いていた。
ミリーが入ってきたのに気づくと、顔を上げる。
「来たか」
「来ました」
それだけのやりとり。
でも、今日はその短いやりとりの中に、何かを探してしまう。
顔色。声の高さ。視線の止まり方。朝の人たちが言っていた“ちょっと変”の痕跡みたいなもの。
ケンはいつもどおりに見えた。少なくとも表面は。
「何だ」
言われて、ミリーははっとする。
「え?」
「さっきから見る」
「……見てました?」
「見てる」
そう言いながら、ケンは拭いた皿を棚に戻した。
ミリーは少しだけ頬が熱くなる。
「すみません」
「何かついてるか」
「いえ」
「じゃあ何だ」
いつもなら、ここでうまくごまかせるはずだった。けれど今日は、町の大人たちにあれこれ言われたあとで、少しだけ正直になっていたのかもしれない。
「朝、ちょっと変だったって聞いて」
言ったあとで、少しだけ沈黙が落ちた。
ケンの手が止まる。
「誰に」
「いろんな人に」
「いろんな人、とは」
「グレイスさんとか、マーサさんとか」
ケンは小さく息を吐いた。
「朝から暇なんだな」
「それ、あなたもよく言いますね」
「事実だ」
その返しが、少しだけいつもどおりで、ミリーはほっとした。
けれどケンは完全には視線を外さなかった。
「で」
「え?」
「それを聞いて、何でそんな顔で見る」
そんな顔。
どんな顔をしていたのか自分ではわからない。
たぶん、少し知りたそうで、少し嬉しそうで、少し困っている顔だったのだろう。
「……気になったからです」
ミリーが小さく言うと、ケンはしばらく黙った。
そして、皿をもう一枚取り上げ、布で拭きながら低く言った。
「少し寝不足だっただけだ」
明らかに嘘ではないが、全部でもない答えだった。
ミリーはその言葉を受け取りながら、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
「そういうことにしておきます」
昨夜、自分が言ったのと同じ台詞だった。
ケンが一瞬だけこちらを見る。
「返すのか」
「たまには」
「生意気だな」
「そうですか?」
「少し」
その“少し”が、思ったよりやわらかく響いた。
ミリーはバッグを置き、手を洗いながら思う。たぶん、町の大人たちが知りすぎているのは本当だ。けれど彼らは、その知っていることを無理に言葉にしない。笑ったり、少しつついたりはしても、最後のところは本人たちに預けてくれる。
それが、この町のやさしさなのかもしれない。
「何かやることあります?」
いつものように聞くと、ケンは少しだけ間を置いて答えた。
「コーヒー見といてくれ」
「はい」
「あと、先に食うか」
ミリーは振り返る。
「まだ早くないですか?」
「昼、ちゃんと食ったか」
図星だった。
診療所の付き添いが入ったせいで、昼は簡単なサンドイッチを半分食べただけだ。どうしてそれを、と思いかけて、すぐに答えが出る。エレンだ。
「……聞いたんですね」
「少し」
「町って本当に」
「知りすぎだな」
珍しく、そこは完全に同意された。
ミリーは笑いをこらえきれなかった。
「そうですね」
ケンは小さめの皿を出し、ミートローフを少し、マッシュポテトを少し、それに温野菜を添えた。いつもの、自分用の量だ。
それを見た瞬間、マーサの言葉がよみがえる。
――全部が恋愛じゃないのよ。でも、全部が生活ではあるの。
ミリーはカウンターの端に腰を下ろした。
「いただきます」
「ああ」
食べながら、店の中を見回す。静かな夕方前の光。常連のコーヒーカップ。厨房の中で皿を動かすケンの大きな手。ベルが鳴ればまた客が入ってきて、夜になれば一日が終わる。
たぶん、まだ何も決まっていない。
でも、何もないわけでもない。
「……ねえ、ケン」
「何だ」
「町の人たち、ちょっと面白がってますよね」
「だろうな」
「嫌じゃないんですか」
ケンはすぐには答えなかった。
流し台に皿を置き、布巾をたたみ、それから短く言う。
「悪く言われてるわけじゃない」
それは、ケンらしい答えだった。
大丈夫とも、平気とも、気にしていないとも言わない。ただ、悪く言われているわけじゃない、と線を引く。その線引きの中に、この人の価値観がある気がした。
「……そうですね」
「おまえは嫌か」
「少し恥ずかしいです」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「そんなに悪くはないです」
言うと、ケンの手が一瞬だけ止まった。
止まって、また動く。
「そうか」
今度の“そうか”は、さっきより少しだけ低かった。
その音を聞きながら、ミリーはフォークでポテトを崩した。胸の奥が静かに熱い。町の人たちに見られていることも、からかわれていることも、まだ慣れない。けれど、その視線の中に悪意がないことも知っている。
やさしい町は、少しだけ知りすぎている。
でもその“知りすぎ”が、自分の居場所を形にしてくれている気もした。
ダイナーのベルが鳴り、次の客が入ってくる。
ミリーは顔を上げ、いつものように微笑んだ。
その横でケンが、もう一度だけ、ほんのわずかにこちらを見たことを、彼女はちゃんと知っていた。




