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EP12 コーヒーは何も言わない

 火曜日の朝は、空気がよく澄んでいた。


 夜のあいだに冷えたぶん、朝の通りは妙にくっきりして見える。まだ陽は低いのに、メープルタウンの建物や街路樹の輪郭だけが先に目を覚ましたみたいだった。


 ダイナーのドアを開けると、冷えた空気に昨夜のコーヒーの残り香が混じる。


 ケンは照明をつけ、コーヒーメーカーを回し、トースターの電源を入れた。いつもの朝だ。カウンターを拭き、仕込みの確認をして、卵の数を数える。店の一日は、考える前に手が動くことで始まる。


 今朝は少しだけ、指先が冷たい。


 手を擦るほどではないが、いつもより火のそばに長くいたくなる程度には。


 七時を少し回ったところで、最初の客が入ってきた。


 マイクだった。町の設備管理をしている、背の高い男だ。作業着の肩にまだ朝露がついている。


「よう」


「ああ」


「冷えたな」


「朝だけだ。昼は上がる」


「そうかねえ」


 マイクはカウンター席に座り、メニューも見ずに言う。


「いつもの」


 卵二つ、ベーコン、トースト、コーヒー。言わなくてもわかる。


 ケンはフライパンを火にかけながら、窓の外を見た。通りの向こうで雑貨屋がまだシャッター半分だ。図書館の前は静かで、誰もいない。


 朝のうちにミリーのことを考える必要はない。


 ないが、昨夜の帰り道を少し思い出した。


 コートの襟を寄せる仕草。

 「待ってました?」と聞いてきた声。

 そして、そういうことにしておきます、と笑った顔。


 ああいう顔をされると、うまくいかない。


「おい」


 マイクの声に、ケンは我に返った。


「卵、焼きすぎるぞ」


「ああ」


 白身の端が少しだけ色づいていた。慌てるほどではないが、気を取られていたのは確かだ。


 マイクはコーヒーを受け取りながら、何でもない顔で言う。


「昨日、送ったんだってな」


 ケンは手を止めなかった。


「誰に聞いた」


「誰にだと思う」


 その答えで十分だった。町の話は、たいてい町を一周して戻ってくる。しかも本人がまだそれを忘れていないうちに。


「暗かったからだ」


「へえ」


「冷えてた」


「へえ」


「五分しか歩かん」


「じゃあ送らなくてもよかっただろ」


 そこで初めて、ケンはマイクのほうを見た。


 マイクはトーストをちぎりながら、まったく意地悪そうではない顔をしている。だから余計に厄介だ。


「そう思わなかった」


 言ったあとで、自分でも少し早かったと思う。


 マイクは笑いもしなかった。ただ、コーヒーを一口飲んでから、ゆっくり言う。


「そうか」


 その“そうか”は、最近よく聞く類のものだった。


 みんな、何かわかったような顔をする。

 わかったなら黙っていればいいのにと思う。


 八時を過ぎるころには、朝の客が少しずつ増えてきた。通勤前の連中、学校へ子どもを送ったあとの母親たち、役場の開庁前に寄る職員。朝の店は夕方と違って、みんな言葉が短い。眠いか、急いでいるか、その両方だからだ。


 ただし、暇を見つければ喋る人間は喋る。


「あら、ケン」


 明るい声で入ってきたのは、グレイスだった。図書館へ行く前に寄ったのだろう。薄いグレーのコートに、いつものトートバッグを肩にかけている。


「珍しいな」


「たまには朝のコーヒーもいいかと思って」


「そうか」


「あと、顔を見に」


「誰のだ」


「もちろん、あなたのよ」


 その返答が胡散臭い。


 グレイスはカウンター席に座ると、マイクの隣を一瞥して笑った。


「もう聞いた?」


「何をだ」


「昨夜の話」


「聞いたところだ」


「早いわねえ」


「この町だぞ」


「そうね」


 グレイスはメニューも見ずにコーヒーを頼み、ついでみたいにアップルマフィンも頼んだ。朝から甘いものは珍しい気がしたが、今日は話をしに来たのだろう。


「ミリー、今朝は元気だった?」


 ケンが聞く前に、グレイスのほうからそう言った。


「まだ見てない」


「そう」


 コーヒーの湯気越しに、グレイスは少し目を細めた。


「たぶん元気よ。送ってもらったって、ちょっと嬉しそうだったもの」


 ケンは何も言わなかった。

 何か言うと、ろくなことにならないのがわかるからだ。


 マイクが横でニヤつくのも腹が立つ。


「別に、大したことじゃない」


「ええ。町の男が、女の子を夜道で少し送るくらい、たいしたことじゃないわ」


 グレイスはやけに素直にそう認めた。


 そのほうがかえって落ち着かない。


「ただ」


 案の定、そのあとがあった。


「あなたがやると、みんな“おや”って思うのよ」


「何でだ」


「ケンだから」


 訳になっていない。


 ケンは卵を割りながら眉を寄せた。


「それで説明したつもりか」


「かなりしてると思うけど」


 グレイスは平然としている。マイクは横で笑いを堪えている。朝から面倒だ。


 そのときベルが鳴り、マーサまで入ってきた。


「おはよう」


「おはよう」


 おはよう、の声に妙な弾みがある。


 もう嫌な予感しかしない。


 マーサはコートを脱ぐと、当然のようにグレイスの隣に座った。


「やっぱりいると思った」


「私もよ」


「朝のケン、黙ってるけど顔に出るのよね」


 勝手に話を進めるな。


「何の話だ」


 言ってみても、三人ともこちらを見て、そろって似たような顔をしただけだった。


 ああ、はいはい、とでも言いたげな顔だ。


「ミリーの話よ」


 マーサがあっさり言う。


「昨夜送ったんでしょう」


「送った」


「やっぱり」


「何がだ」


「送ると思ったのよ」


「暗かったからだ」


「ええ」


「冷えてた」


「ええ」


「……おまえら、朝から暇か」


「ケンほどじゃないわ」


 マーサが言って、グレイスが吹き出した。


 マイクも肩を揺らしている。

 自分だけが笑っていない構図が気に入らない。


「ミリー、ちゃんと眠れたかしら」


 グレイスがコーヒーを持ちながら言う。


「少し頑張りすぎる子だから」


「寝てるだろ」


「どうしてわかるの?」


 そう聞かれて、ケンは返答に詰まった。


 わかるというか、そうであってほしいだけだ。昨日少し遅かったし、顔色も悪くはなかったが、冷えていた。だから帰ってすぐ温かいものでも飲んで、ちゃんと寝ていればいいと思った。それだけだ。


「……寝ないと明日しんどい」


 結局、そう答える。


 マーサが小さくため息をついた。


「だめねえ」


「何がだ」


「そういうところ」


「だから何がだ」


 グレイスがマフィンをちぎりながら、静かに言う。


「ケン、あなたね。みんなが面白がってるのは、あなたが急にロマンチックになったからじゃないのよ」


「なってない」


「知ってるわ」


「じゃあ何だ」


「前からあなたは、気に入った人をちゃんと見て、ちゃんと世話を焼く人なの。でも、それを大人の女の子相手にここまでやるのが珍しいの」


 その言い方は、少しだけまっとうすぎた。


 ケンはフライ返しを置き、グレイスのほうを見た。


「別に、世話を焼いてるつもりはない」


「ええ。つもりはないでしょうね」


「店の手伝いもしてる。町に慣れてきたばかりだ。放っとくほうが変だろ」


「そうね」


 またそれだ。


 そうね、と認められると、否定も反論もしづらい。


 マーサがカップを持ち上げる。


「だから安心なのよ」


「何がだ」


「あなたが、ちゃんと見てるなら」


 その言葉だけ、少し静かだった。


 からかいに混じっている本音が、急に顔を出す。

 町の大人たちはそういうことをする。笑っているのに、要るところでは要る言葉をちゃんと置いていく。


 ケンは少しだけ黙り、焼きあがったトーストを皿に乗せた。


 マイクが代わりに口を開く。


「で、おまえは自覚あるのか?」


「何の」


「何の、って顔するなよ」


「してない」


「してる」


 今度は三人が三人ともうなずいた。


 腹が立つ。


 だが、この連中に囲まれて完全に不機嫌になるほど、朝の客は少なくなかった。別の席で子どもがジュースをこぼし、若い母親が慌てている。ケンはペーパータオルを持ってそちらへ向かった。


 床を拭きながら、少しだけ頭が冷える。


 自覚、というほどのものはない。


 ないはずだ。


 ただ、ミリーが食べているか気になる。疲れていればわかる。来る時間が少し遅いとベルを見る。夜が冷えれば送ろうと思う。あの娘が町の中で少しずつ笑うようになっていくのを見ると、店の空気まで軽くなる気がする。


 それだけだ。


 それだけなのに、周りはどうも、それだけとは思っていないらしい。


 子どものテーブルを片づけて厨房へ戻ると、グレイスがちょうど立ち上がるところだった。


「じゃあ、私はそろそろ図書館に行くわ」


「そうか」


「ミリーには何も言わないでおく」


「何をだ」


「あなたが朝からちょっと機嫌悪かったこと」


「悪くない」


「そういうところよ」


 またそれだ。


 グレイスは会計を済ませると、ふっと笑った。


「でも安心したわ」


「何がだ」


「コーヒーは何も言わないけど、人の顔はけっこう喋るの」


 その意味を聞き返す前に、グレイスは手を振って出ていった。


 ベルが鳴り、ドアが閉まる。


 しばらくして、マーサもマイクも仕事へ戻っていった。急に店が静かになる。


 九時半を過ぎると、朝の混雑もほぼ終わり、カウンターにはもう一人しか客がいない。コーヒーメーカーの音だけが、店の奥で低く続いている。


 ケンはカップを洗いながら、朝の連中の言葉を反芻していた。


 自覚。

 顔に出る。

 ちゃんと見てるなら安心。


 どれも面倒だ。

 面倒だが、完全に無視できるほど外れてもいない気がするのが、もっと面倒だった。


 十一時過ぎ、図書館の前を配達のトラックが通り、陽が少し高くなる。ガラス越しに外を見ていたケンは、気づけば通りの向こうに視線を止めていた。


 グレイスはもう働いている時間だ。ミリーも、たぶん棚の整理か返却処理をしている。


 昼は何を食べているだろう。


 ちゃんと座っているか。

 またクッキーだけで済ませていないか。


 そこでケンは、ふっと息を吐いた。


 朝から何を考えているんだと思う。店は目の前にあるのに、向こう側ばかり気にしている。


 そのとき、ベルが鳴った。


 入ってきたのは、診療所の受付の女性だった。書類を片手に、慌ただしくカウンターへ寄ってくる。


「ケン、サンドイッチ二つ、テイクアウトお願い」


「ああ」


「ひとつは私。ひとつはミリーの」


 ケンの手が一瞬だけ止まる。


「ミリー、診療所か?」


「今日は違うけど、午前中ちょっと寄ってくれたの。おばあさんの付き添いで」


「そうか」


「忙しそうだったから、お礼にって私が買うの。ターキーでいいかな」


「いや」


 思わず言っていた。


 受付の女性が目を丸くする。


「え?」


「ターキーだと足りん」


「そう?」


「あいつ、午前動いてるなら、もう少し食う」


 口にしてから、しまったと思う暇もなかった。


 受付の女性は二秒ほど黙り、それから、ああ……という顔をした。


「……じゃあ、ミートローフのサンドにする」


「それがいい」


「そう」


 彼女はそれ以上何も言わなかった。だが、その“そう”にも、朝と同じ種類の意味が含まれていた。


 ケンは黙ってパンを切る。


 コーヒーは何も言わない。フライパンも、包丁も、皿も何も言わない。だから助かる。


 だが町の人間は言う。

 見ているし、気づくし、笑いながらつついてくる。


 それでも店は回るし、昼は来るし、たぶん夕方にはまたベルが鳴る。


 その音を、今日もきっと待ってしまうのだろうと、ケンはまだ認めきれないまま知っていた。

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