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おふくろ登場

遅くなりました。

申し訳ありません。


 

 まだ日が高い位置にあるというのに、家の中は薄暗くシンと静まり返っていた。

 かつての大戦、そのさらに昔の大戦前からある日本家屋だが、ジリジリと肌を焦がすような日差しが決して屋内に届くことは無い。

 辛気臭いと思ったことは無かった。それが当たり前の事だと思っていたのだ。


 この屋敷に生まれ育って十数年。

 世間で説かれる常識や倫理と、ここで是とされる価値観が遠くかけ離れている事を嫌でも知る。

 清浄な空気が肺を焼き、眩い光が肌を焼く。そんな表の世界では生きていけない外道には相応しい住処だと、薫子は自嘲気味に笑った。



 渡り廊下を歩くと、タールがしみ込んだような黒い床板がギイと鳴る。その度に、背後に誰かが立っているのではないかと振り向きたい衝動に駆られたのは今は昔だ。そしてこの家では本当に誰か立っている事があるだけに性質が悪い。

 気まぐれ半分で、後ろを振り返ってみる。 


「何を、やってるんだろう、私。気配くらい、見なくても、わかる、のに……」


 最初から人の気配がないことは分かっていた。この家では無防備に背中を晒すことは『悪』だ。何をされても文句は言えない。そんな状況に陥った自分が悪いのだ。

 誰もいない廊下をぼんやりと眺めていると、学校での喧騒が耳元を通り過ぎる。音に遅れてクラスメイト達の笑顔が頭を過っては消えていく。



―――俺は一之瀬。一之瀬ミナトだ。よろしくな、田嶋!



 真夏の太陽のような笑顔を、薫子は真っすぐ見られなかった。

 薄汚れた自分に流れる薄汚れた血が、彼には関わるなと警鐘を鳴らす。

 薫子は雑念を振り払うかのようにかぶりを振った。



「彼らは、光。私のような、浅ましい女が、関わっていい人たちじゃ、ない……」



 効率よいレベルアップと、対冒険者戦を学ぶためだけに冒険者高専への入学は認められた。

 ダンジョン攻略や、将来のパーティーメンバーを見つけるといった事は必要無い。興味を持つことも、興味を持たれる事も、自分には必要ない。


「友達は……必要ない……」


 友達が出来たことはある。小学校に入学したばかりの頃の話だ。

 その頃は家業の事もほとんど理解していなかったし、自他の距離感も今よりずっと幼稚だった。

 一緒に遊ぼうと、繋いだ手の感触を今でも覚えている。

 家にはおもちゃなんて一つも無かった。初めて出来た友達にがっかりされないか不安だった。

 

 嫌われたくないよ。仲良くしたいな。

 

 素手で人体を効率的に破壊する術を知っていても、認識阻害の技術を習得していても、同年代の心模様を推し量る事の方がよっぽど難しく、そして怖かった。

 無邪気な笑みと共に差し伸べられた手。そして―――


「―――私に、そんな資格は、無い……」


 何度自問したところで応えは同じだ。『もし』は起きなかったし、これからも起こりえない。

 呪われた運命、血塗られた道。自分に残された選択肢は―――多くない。

 

 薫子は俯きながら屋敷の蔵書室に足を延ばす。

 そこは部屋の壁一面、天井まで無数の本が無造作に並ぶ小部屋。

 暗くてほとんど見えない部屋を躊躇いも無く進み、中央にあるボロボロの紐を引くと、明かりの灯ったオレンジ色の裸電球が所在なさげにユラユラ揺れる。


 頼りない光で浮かび上がる少なくない埃。

 そんな環境で嗅ぐ劣化した糊の香りが、薫子は好きだった。

 裸電球の真下には、ニスもワックスも剝がれ切った、年輪で波打つ小さな木の机と、綿の飛び出したボロボロのパイプ椅子。そして、机の上にポツンと置いてある分厚い蔵書と、擦り切れすぎて表題すら読めなくなった小冊子。

 薫子はパイプ椅子に座り、分厚い蔵書を手に取った。

 

 しおりが挟まったページを開くと、カラーの図解が目に入る。

 大腿部の筋組織の断面らしき図には、筋肉の名称、血管の位置、骨の各部名称が日本語とラテン語で記載されている。随分と古い医学書だ。


 これを読んでいると、祖父は微笑ましいものを見るように目を細め、母親は頑張りなさいと嬉しそうに笑う。

 人を壊すためには人を知らなければならない。

 どうすれば生きながら壊せるか。どうすれば壊さずに殺せるか。

 

―――いつか来る日のために、一生懸命勉強するのよ。薫子。


 薫子は医学書を食い入るように見つめ、ブツブツ呟いては脳に直接刷り込むように反芻する。

 しかし、いつも現実逃避気味にのめり込んでいたこの作業が上手く回らない。頭に入ってくるはずの知識が今日は全然入ってこない。

 何度読み返しても、集中しようと気を入れなおしても、いつの間にかぼんやりと中空を眺める自分に気付く。理由はわかっていた。



―――合宿で例の少年を殺しなさい


 

 頭の中をその危険な言葉がぐるぐると音を立てて回る。

 ついに明日から合宿が始まるのだ。


「人を……殺す……」


 野蛮で愚かな行為と理解していても、それ以外の道を見つけられない事もまた事実。

 一之瀬ミナト、彼を殺せるだろうか。いや、殺さなければならない。あの眩い太陽のようなクラスメイトを、この手で。

 そうしなければ、彼を待っているのは本物の死。つまり『終わり』だ。

 そんな事ある筈無いと考えるのは、初めて出来た友達と手を繋いだあの日にやめた。

 やる。祖父ならやってのける。何のためらいも無く、何の感情の揺らぎも無く。


「もし、私が、普通の女の子、だったら……」


 次から次へと湧き上がってくる想いは、夢という名の毒だ。

 どれだけ足掻いても、どれだけ手を伸ばしても届く事の無い、絶望にも似た、ここから遠い彼方を照らす光。

 幼いころに夢見た将来の自分はどんなだっただろう。

 薫子は虚ろな瞳で、パタンと医学書を閉じた。


 自室の片隅に置いてある、黒のクレヨンで塗りつぶされた画用紙には、『将来の夢』と題した、幼い頃の自分が想像する『未来』そのものが描かれている。

 それから10年近くが経ち、いつかきっと色鮮やかな未来を描ける日が来ると、そう信じていた少女はもういない。

 

 机の上にあったもう一冊の小冊子を手に取って開く。

 擦り切れ、手垢で変色したボロボロの詩集だ。そして、何度読んだか数えるのも馬鹿らしいほど読み込んだ一つの詩に、かつての自分の願いを垣間見る。

 薫子は痛みを吐き出すように、その尊き一節を口ずさんだ。


「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ……」




――――――








「よ、よお、久しぶりおふくろ、元気だった?」


 おふくろが呆然と俺を見つめ、小刻みに震えている。

 合宿前日、住み慣れたマンションの玄関で、俺はほぼ人生最大の窮地にあった。


「み、ミナちゃん……この子、この子は……」


 おふくろは若干唇を震わせながら、とある一点を指さす。

 その先にいたのは、俺の太ももにしがみついて顔をうりんうりんさせる幼女。

 

「ゆ、夢を見てるのかしら…… あ、お母さん今ちょっとクラっときちゃった」

「おふくろ、勘違いするな。違うんだ。とにかく冷静に―――」

「そ、そうよっ ミナちゃんは優しい子だからきっとお隣さんのお子さんを預かってるんだわ。まさかミナちゃんに限ってそんなこと―――」

「ぱぱさま好きー!」

「孫ォォォ~~ッッ!」


 おふくろが劇画風タッチで絶叫した。

 良くない傾向だ。とても良くない傾向だ。

 俺が言うのもなんだが、おふくろは夫を愛し子供を愛し、夫を内で支え外で立てる事の出来る、今時珍しい良妻賢母である。あっちこち飛び回る親父に愚痴の一つもこぼさず、いつもおっとり微笑む、その姿は主婦の鏡と言っても過言ではないだろう。

 しかしその反面、勘違いが激しく、暴走しだすと全く話を聞かずにマシンガントークを繰り広げる困ったさんでもあった。

 おふくろがバッと手で顔を覆う。


「デキちゃった。お母さん心配して来てみれば……デキちゃってた……っ まだ家を出て数か月なのに、しかも子供には尻尾とツノまで生えて…… ミナちゃん正直に言いなさい! 一体どんなプレイをしたらそんな事になるの!」

「お、おいおふくろ、一体何を言って……」


 我が家の菩薩は、テレビより新聞よりご近所様の噂に信憑性の高さを見出すアレな人だ。

 井戸端会議における奥様方の多数派がこの国の世論だと信じて疑わない民主主義者でもあった。

 よよよと崩れ落ちるおふくろ。 


「ああっ 斜向かいの矢追さんがあれだけ自信満々に『大丈夫、一之瀬さんが心配するようなことは起きないわ』って言ってたのに……」

「ち、ちなみに矢追さんは何て……?」


 脳が発酵してる矢追さんの事なので一応聞いてみる。

 おふくろは涙ながらに言った。


「『きっと部屋一面が腐海になっているから動画でおk』って、鼻血を噴きながら恍惚の表情で言ってたわ。どういう意味かわかるミナちゃん?」

「矢追さんとのお付き合いは考えた方がいいってことは分かる」

「とにかく電話よ。一緒に孫の名前を考えましょうってお父さんに―――おじいちゃんに相談をしなきゃ! ところでミナちゃん、『アカネ』って名前はどうかしら? 実はお母さん、もしミナちゃんが女の子だったらアカネちゃんにしようと思ってたの」


 俺は深くため息を吐くと、親父に連絡を取ろうとするおふくろのケータイを取り上げた。


「おふくろ、とりあえず聞いてくれ。この子は俺の子じゃない」

「認知しないのッ!?」

「しねえよっ!!」


 字面だけを見たら割とサイテーな台詞だが事実である。

 正直、15歳の童貞が何を釈明してるんだと思ったが、経験上、このままおふくろを放っておくとシャレにならない。

 俺は戸惑うおふくろに淡々と説明した。落ち着きを取り戻し始めたおふくろが自身に言い聞かせるように呟く。

 

「そ、そうよね……? お母さん勘違いしちゃった。じつはお隣の山田さんのお宅の健太君がデキちゃったから大学辞めて働くって大騒ぎしてるらしいの。だから『まさかミナちゃんも!?』って思っちゃった。お父さんの血を引いてるだけあって、昔からミナちゃんは妙にモテるからお母さん心配で……」

「生まれてこのかたモテたためしなど無いし、年齢=彼女いない歴なんですけども」


 おふくろの中では、『息吹』で拾ったトカゲが人化した話は大して重要ではないらしい。

 むしろシロが孫じゃ無かった事に少しガッカリしてる節すらある。相変わらずズレまくっているおふくろを見ていると、少しだけ安心する自分がいるのも事実だ。 

 まあそんなことより、いつまでも玄関で騒いでいても仕方ない。はしゃくシロを抱き上げるとおふくろに上がれと促した。


「それよりいい加減上がれって。とりあえずお茶くらい飲めよ」

「み、ミナちゃん、大人になっちゃって……っ」


 おふくろが片手で目元を押さえながら器用にパンプスを脱ぐ。

 自分の親に対してこんな描写をするのもアレだが、ストッキングも履かないおふくろの足はスラリとしていて染み一つ無い。

 いつも露出の少ない地味な恰好をしているが肌も髪も瑞々しく、余裕で20代で通用する上に、一緒に買い物に行くと普通にナンパされたりするのだ。


 隆起の激しい西洋寄りの顔立ちをしていて、贔屓目に見なくてもまあ…… 美人なのだろう。

 しかし、おふくろはびっくりするくらいの糸目で、子供の俺ですらおふくろが目を開いたところをほとんど見たことが無かった。大きい目の女の子がタイプの俺にとっては、あまり好みの顔ではない。

 ちなみに親父が女の子にちょっかいかけると、おどろおどろしい効果音と共に目が開かれ、その後には極めて激しいDVが待っている。一之瀬家の懐かしき日常風景だ。

 

「お、おじゃましまーす」

「なんだよ他人行儀だな。ちょっと待っててくれ、今、冷蔵庫から麦茶を――――お前ら何やってんの……?」


 リビングに足を踏み入れた瞬間、俺は呻く。

 空気を読まない馬鹿共が食器片手に俺を見た。


「ミナトー そろそろごはん食べ――――誰?」

「ミナト様、タバサは冷やし中華が――――どちら様?」



 恐る恐る振り返ると、おふくろは小刻みに体を震わせていた。



「み、ミナちゃんこの娘さんたちは……」




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