玉子はしっかり焼き派。
ドーナツとビールが合うなんて到底思えないし、考えたこともなかった。
そもそもわたしはお酒をあんまり嗜まないし、せっかく飲むなら美味しいものを頂きたい。
お酒は大概どれも苦いし、そうでなければへんてこな甘さがある。
初めて焼酎を飲んだ時は灯油かと思ったし、カクテルの嘘くさい甘さには辟易した。同じ透明な飲み物なら水を選びたいし、カルアミルクやらを飲むならコーヒー牛乳の方が数倍美味しいに決まっている。
そんなわたしの味覚を、お子様舌だと笑われるのはいつものことだ。
いつもの居酒屋、いつもの半個室でテーブルを囲むのは、お馴染みの顔ぶれ。
金曜日の店内は満員御礼状態で、大変賑やかだ。
「ご飯にカルピスなんて合わないでしょ。まったく、ヒヨコは相変わらずの子供舌ねぇ」
ビールにナッツという、わたしから見たら大人な組み合わせを前に呆れたように笑うお姉さんは千歳さん。
黒髪ショートカットが良く似合う。わたしより一回り年上のお姉さんの白くて長い指に挟まれたタバコは赤い丸模様のボックスのやつで、女性っぽい細長いスースー系のタバコじゃないのが千歳さんによく似合ってカッコいい。
その上、左手薬指の銀の輪っかは何度見ても羨ましい。
「ヒヨコは、コレを灯油だと言ってたしなぁ。灯油、飲んだことあるのかよヒヨコは」
透明なお酒をカプリカプリと飲み込んで、薄く笑うのはムギさん。
ムギさんがコレと言って持ち上げて揺らしたのは、黒い湯呑に入った焼酎。
この前の飲み会で、勧められるまま一口飲んだわたしのリアクションを思い出したのか、またニヤニヤと笑いだす。
細め筋肉質な体格に銀縁の四角い眼鏡で、やや爬虫類的な整い方をした顔に薄笑いを浮かべて呑むのが常の人だ。
「でも、オムライスは美味しいですよね~。ヒヨコさん」
温和そうに頷くのは、長身痩身地毛栗毛のお兄さん芹野さん。
年下のわたしにも丁寧な口調で話す芹野さんは、常に優しく穏やかなだ。どんなに酔っても、言葉遣いも乱れず終始ニコニコしている。
そんな芹野さんは、最初から最後まで概ねビール一筋だ。とにかく絶え間なく、ビールをスイスイ飲み続けている。わたしはいつの日か、あの薄いお腹が出てしまうのではと、密かに心配をしている。
しっかり火の通った薄焼き卵のオムライスとカルピスを前に座るのがわたし、スズキ ヒヨコ。――ではなくて、スズキ ヒナコ。二十歳。
オムライスはトロトロ卵じゃなくて、しっかり火の入った固焼き派。月に二、三回あるこの飲み会をとても楽しみにしているフリーター女子。
この集りの席では最年少故なのか、愛のあるイジラレを受ける役回りです。多分。
年齢がバラバラなわたしたちが、こうして飲み会を催し集まる縁になったのは、現在のわたしのバイト先の先輩が千歳さんだったこと。
大型書店にアルバイトとして勤務しだして半年。誕生日を迎えてきっちり成人したわたしを、千歳さんが飲みに誘ってくれた先に、このお兄さん方が居たのだ。
もともとはムギさんも芹野さんも、同じ店のアルバイト出身で今はそれぞれしっかり就職されている。
バイト時代に仲の良かった三人は、お兄さんたち二人がバイトを去った今もこうして定期的に飲み会をしていたそうで、僭越ながらそのお仲間に入れていただけたのだ。
初めは年上男性にビクビクしながらの参加だったけど、二人ともお酒の無理強いは一切しないし、ここの居酒屋の料理はどれも絶品な上にオムライスは固焼き卵仕様だし、なによりも最後のお会計でほぼ奢られているの同然にしてくれるのがありがたかった。
わたしの飲み会と言えば、お酒をオーダーしないことをうるさく揶揄されることがほとんどで。同世代の飲み会にはめっきり足が向かなくなったところ、この会には足繁くというか皆勤で出席している。奢って貰えるのも助かっています。
「それで? 今日はヒヨコからとっておきの話があるんでしょ?」
始めの一杯のビールを呑み終えて、黒糖焼酎を手にした千歳さんが口を開く。
あの黒糖焼酎は、この前一口もらったものと同じ種類だ。わたしにはどのあたりにも、黒糖感を見つけることは出来なかった。
話を振られて、わたしは紙ナプキンで口元を拭ってから頷いた。ケチャップの付いた口では語れない話だ。
「聞かなくてもいいと思うけどなー」
タバコを取り出したムギさんが呟く。
ムギさんは水色のソフトパッケージから出したタバコに、重い銀のジッポで火を付ける。
「え? ムギ君は知ってるの?」
ムギさんにつられる様に、芹野さんもタバコに火を付けた。
緑色の箱のタバコはスースーするメンソール系だそうで、芹野さんはある都市伝説を気にしているらしいけど銘柄を変える気はなさそうだ。
三人とも、よく飲み、よく吸い、よく食べる。
「知ってるっていうか。立ち会ってたんだ現場に」
ムギさんは苦笑いでそう答えて、わたしはコップのカルピスを飲み干してから話をさせていただく。
わたしのバイト先の大型書店には、大きく分けて三つの勤務時間が存在する。開店から夕方までの朝番、お昼から夜までの昼番、夕方から閉店までの夜番だ。
わたしはフリーターなので、三つの勤務時間のどれにでもお店の都合のいように入れられる。千歳さんは主婦なので、朝番専門のバイトさんだ。
昨日は、朝番での勤務だった。
朝番の一時間ある昼休憩は制服さえ脱げば外出も許されているので、時々近場のお店でランチをしたりもする。といっても、時間給生活者のわたしにはそれは少し贅沢なことで、大体お昼と言えばコンビニのメロンパンにコーヒー牛乳が定番なのだけど。
昨日のお昼は、ムギさんが奢ってくれることになっていたのだ。
そもそもなんで奢ってもらえる運びになったのかというと、前回の飲み会の席でした賭けにわたしが勝ったその報酬だった。
某少年漫画の主人公の出身地の名前を、最初は二人とも思いだせなかった。
そしてわたしがクジラ島と主張し、ムギさんはイルカ島と主張した。とてつもなくどうでもいい論争だけど、お酒が入っていると些細なことも大事になるものなのだ。
わたしは一滴も飲んでいないけれど。
その流れで、『よし、間違ってたら昼飯奢れよ!』という話になり、千歳さんが華麗にスマホ検索で解答を発表し、わたしは奢りの昼食を簡単に手に入れた。あの時ムギさんはすでにだいぶ酔いも回っていたから、フェアな勝負事ではなかったのは素面のわたしから見たら明白だけど、その点については黙っておくことにした。
ムギさんは有給消化の平日の昨日、約束通り昼食を奢りに来てくれたのだ。
意気揚々と書店の裏口から出てきたわたしを、ムギさんが見慣れた薄笑いで迎えてくれる。
向かうのは少し先にあるおしゃれカフェのランチ、980円。ドリンク付き。デザート別。
デザートも付けてくれるということで、わたしの足取りは軽かった。
そして、オシャレな本日のワンプレートランチにアイスオレンジティー。デザートにフォンダンショコラまで堪能させていただいて、バイト先へ戻る途中の事。
昨今の嫌煙ブームでおしゃれカフェは当然のように禁煙だったので、歩きタバコ中のムギさんの服の裾をわたしは唐突に引いた。
「ム、ム、ム、ムギさんっっ」
「なに? すごいどもって、どうした?」
バイト先の書店の車道二車線を挟んだ向かいには、全国展開のドーナツショップがある。
車道に面したガラスの向こう。並ぶカウンター席のひとつにわたしは釘付けになった。
ドーナツショップの窓際のカウンター席に座っている男の人。
ボサボサの前髪長めの不精髭に、カーキ色のくたびれたコートが良く似合っている。
彼の前には山盛りのプレーンドーナツ。そして缶ビール。500ml缶。
あのドーナツショップのドリンクメニューにはアルコールなんてないから、たぶんそれは、彼の持ち込みの飲み物。飲食店に飲食物の持ち込みなんてご法度をやらかしてしまうくらい、彼は何か深い事情を抱えているに違いない。
ビールを煽り飲んでプレーンドーナツを乱暴に咀嚼する様は、ガラス越しにも色気とか哀愁とか漂いすぎていて、わたしはその場に縫い付けられた。
不躾なくらい見つめてしまっているのに、彼はガラス越しにこちら側を見ているのに、どこかとても遠くを見ているようで、わたしの姿にも視線にも全く気付く様子が無くて……。
スズキヒナコ。一目惚れの瞬間でした。
「――きっと、何か悲しいことがあったんだと思います。悲しくてささくれ立った心を誤魔化すために、ビールでドーナツを食す姿は、訳も分からずかっこよすぎて。危うく彼の代わりに泣くところでした」
朗々と語り上げたわたしに、穏やかな芹野さんの感想が寄せられた。
「ビールにドーナツはやったことないですねぇ」
「いや! セリノくん、そこじゃないから。そこじゃなくて、このヒヨコは、そういうことを言いたいんじゃないんだよね」
間髪入れずに芹野さんにそう言い放ち、千歳さんは呆れたように焼酎を飲む。
「はい。はい。そうなんですよ、千歳さん! そして芹野さん。わたし、スズキヒナコ、恋を始めました!! ご報告です。コイバナですよ」
高らかに宣言したわたしの頬は飲んでもいないのに、ポポっと赤く染まっているのだと思う。
そんなわたしを三人が温かく見守る。……あれ? 温かいというには、温度の足りないぬるい視線。
「コイバナ……」
千歳さんの乾いた呟きしか反応が無いので、わたしは再度息巻く。
「酒の肴としての人気の話題ランキング上位に食い込むだろう、コイバナですよ。コイバナ。肴にしてください。いろいろ聞いてください」
ビールグラスを空にした芹野さんが、憐れむ様にこちらを見る。
「ヒヨコちゃんの恋愛話は、可哀想な話ばかりだからね」
「そうなのよねー。痛々しいからねぇ」
ムギさんが店員さんを呼ぶ。お代りのビールと、焼酎を二つ注文する。
わたしは空になったカルピスのグラスを下げて貰うと、ウーロン茶をピッチャーからグラスに注ぐ。
テーブルの隅にどんと置かれているウーロン茶のピッチャーは、酒類をオーダーしないわたし専用。
居酒屋の濃い味付けの料理にはお茶が合う。他の三人がお盛んにアルコールを酌み交わす中、わたしは専ら手酌ウーロン茶だ。
「いえ、いえ、それは、今までのお話です。過去のお話じゃないですか。これは現在進行形コイバナで、いまのところどこも痛くありませんよ」
にっこりと笑って言えば、痛ましい物を見る視線が返される。
この三人の飲み会に参加するようになってから一人。それ以前に二人。不肖ながらもわたしにはちゃんと彼氏が存在した時期があった。
どの人も、あまり長期的なお付き合いに発展することなく終わってしまったけれど、新しい恋を始めた今となってはいい思い出だ。
その過去の三人の彼氏遍歴は、この飲み会の席で事細かにカミングアウトさせられている。
誘導尋問を千歳さんに掛けられ、煽り担当のムギさんに乗せられ、聞き上手な芹野さんの優しい相槌に絆されて、わたしは酔ってもいないのに、洗いざらいさらけ出してしまったようだ。話の最中にムギさんが何度もお腹を押さえて震えていたのも、話し終えた後の千歳さんと芹野さんの可哀想な子を見る眼差しも、新しい恋の前では今は昔のことだ。
「ドーナツショップに、真っ昼間からビール持って入る男ってどうなのよ。ムギはその場にいたんでしょ? 私も見たかったわぁ」
残念そうに笑って、千歳さんはタバコの灰を灰皿に落とす。
千歳さんは生憎、昨日はお休みの日だったのだ。
「ありえない位、不穏なオーラを漂わせた男だった。ドーナツ屋の店員、可哀想だったな」
「恐ろしいわねぇ。幾つくらいの人なのよ?」
「ヒヨコよりだいぶ歳上だと思う。十は確実に上じゃないかな」
「私と同じくらいか……。ヒヨコ、歳上好きだったけ?」
「でも、ヒヨコちゃんの今までの彼氏は年上ばかりでしたよね?」
「あー。たしか、三人中二人が歳上で、一人はタメだったよな」
「歳とか関係ない気がするんです。好きになった人が、タイプなんですから」
「アホの子が居る……」
どこかで聞いたような台詞をまるっと口にするわたしを見て、ムギさんは呟く。呆れたように。
確かに使い古された言葉だけど、本当にいまのわたしの心情にはぴったりだから仕方がない。
締まりのないわたしの顔を見て、千歳さんは眉を寄せる。
「ヒヨコは少しは懲りなさい。一目惚れって、あんたそれで上手く行ったためしないでしょ」
「そうだねぇ。前の人も、前の前の人も、最初の人も、みんなヒヨコちゃんの一目惚れだったんだよね」
親身なトーンで芹野さんが言うのは、あまり触れられたくない過去のこと。
わたしの浮かれ気味だった視線は、気弱に彷徨いだす。
「う……。そう、です、けど……」
「三人とも、付き合って十日以内に相手から振られてるんだよな」
「そ、そんなこともありました……」
「すごいのは、相手から告白してきたのに、ヒヨコちゃんが振られるってトコだよね」
「う、う、う。もう、その話はやめてくださいぃぃ……」
「しかもヒヨコを振った直後には、お相手に彼女が即出来てるってオマケつきなのよね」
千歳さんの最終攻撃を受けて、わたしはウーロン茶の脇に突っ伏した。
自分でも不思議で仕方がないけれど、わたしは過去の彼氏どもに三者同様の形で別れを告げられている。
一人目の人は友人の先輩だった。合コンで紹介されて、わたしが一目惚れをしてアドレス交換。数日後には、告白されてお付き合いをした。初彼氏だった。当然浮かれた。
けれどなぜか、三日後に振られた。『思っていた子と違う気がする』という意味不明な振られ文句。
次の週末にその彼が、同じ合コンに来ていた別の女の子と仲睦まじく町を歩く姿を目撃した時の衝撃は忘れられない。
二人目の人は、近所のコンビニの店員さんだった。彼に一目惚れしたわたしは、そのコンビニに通い、女子っぽい物だけを厳選して買った。主に甘味だけど。
ある日のレジで告白されて付き合うことになった時は、嬉しすぎて家まで全力疾走して転んで膝を擦りむいた。
だけどその膝の傷が治る前に、何故か振られる。『思っていた子と違うね』って聞き覚えのある台詞が最後のメッセージだった。
もちろん、そのコンビニには行けなくなった。彼のアドレスを消せずに、まだ膝のかさぶたも取れないうちに、バイト先の書店に彼と明らかにその彼女が現れた時は、思わずカウンターの下にしゃがみ込んでそのまま忍者走りでバックルームに逃げた。
そんなわたしを見て、千歳さんは泣くほど笑った。
膝と心の傷がすっかり癒えた頃、三人目の人に一目惚れをした。彼は美容師の卵だった。
クーポン片手に初めて入った美容室で出会った彼は歳も同じで、美容師の卵にしては外見が攻撃的でないところが親しみを持てた。カット終わりのシャンプー中には一目惚れを自覚して、顔の上に敷かれたガーゼの下は勝手に赤面していた。
これからこの美容院に通うことになるなと思っていたら、会計時に美容室のポイントカードと一緒に彼の連絡先を書いたメモをくれた。どきどきしながらメッセージをやり取りして、二人で映画を観に行くことになり、その帰り道で告白された。
観てきた映画の内容を瞬時に忘れるくらい、わたしの脳ミソは湧き立った。次の彼の休みに会う約束をした二回目のデートを楽しみに、浮かれた足取りでバイトと家の往復をして二日目。書店の裏口で呼び止められた。彼とその傍らに立つ彼女に。
彼女は告げた。わたしたちは付き合うことにした。と、よって今後美容室にも彼の前にも現れないでくれと。
事態が飲み込めず、ぽかんとするわたしに向かって彼が口を開く。『やっぱり、彼女じゃなくてはダメなんだ。君では何かが違う』そう告げると、二人はわたしの前から去っていった。
職場の通用口での公開失恋。
その日から数日間、出勤するたびに会う人会う人が何も言わずに、飴やらジュースやらをわたしにほどこしてくれたのはまだ記憶に新しい。
これがわたしの齢二十歳にしての彼氏遍歴。
中学高校時代は、異性方面は全くの鳴かず飛ばずだったのに、十九二十歳に突然来たある意味モテ期にうまく対応できなかった結果、三戦三敗となってしまった。でも、こちらから告白して敗れたわけではなくて、告白されてから振られているから、三戦三……無効試合? と考えておくのが正しいのかもしれない。
「わたしはもうおばさんなのかしらねー。ヒヨコのコイバナに、さっぱり胸がときめかないのよね」
ふるふると首を振りながらビールを飲み干す千歳さん。今夜も素敵な飲みっぷりです。
千歳さんは飲んでも飲んでも酔い潰れない、いわゆるザルな体質。でも、飲み会の終わりにはちゃんと旦那さまが迎えに来るのがお決まりで、きっと今夜も帰り際に旦那さんがここにやってくるはずだ。羨ましい。
「ヒヨコのコイバナに、ときめく要素なんて皆無だからな」
「そうだねぇ」
「ひどい! 芹野さんまで!?」
「ほら、ヒヨコちゃんの好きなジャーマンポテトだよ」
「わぁ。いただきます」
タイミングよく三人のお代りと一緒に運ばれてきた、熱々のジャーマンポテトを芹野さんは私の前へと置いてくれる。ここの居酒屋のジャーマンポテトは、玉葱じゃなくて長葱が入っているのが美味しい。ご飯によく合いそうな味だ。
素直に伸ばしたわたしの箸は、ほくほくのじゃが芋とくったりした長ネギを掴むことなく止まった。
「ひっっ!!」
「なんだ? どうした? 己れの恥しい過去の走馬灯でも回り出したか?」
箸を握りしめて短い悲鳴を上げたわたしに、ムギさんから優しくない声がかかる。
「違います! 走馬灯って、死ぬ間際に回るやつですよね。そんなもの回っていません!」
わたしは今いる半個室の席から見える、居酒屋のカウンターを凝視した。
「でも、わたし、いま、死にそうです。……運命かもしれませんよね」
忘れもしないあのカーキ色のくたびれたジャケットに、くせ毛無造作ヘアと不精ひげ。
数メートル先のカウンター席に、彼は今まさに腰を下ろすところだった。
わたしの熱視線をたどった千歳さんがカウンターを見る。
「もしかして、アレが、そうなの?」
「そうなんです……。あの方が、さっきのお話の、ドーナツの方なんです」
カウンターから目を離せずにうわ言のような返事をした私に、千歳さんとムギさんはぶはっと息を吐きだし笑いだす。
「ドーナツの方?」
「なんだそれ」
けたけたと笑う二人を横に、わたしはそれはもう熱心にカウンターのただ一人を見つめた。
先日のドーナツショップでは二人の間に二車線と歩道分の距離があったけど、いまは酔客が囲むテーブル二つ分。距離にしてきっと三、四メートルもない。近い。
私がバイトする書店もその向かいのドーナツショップも、このいつもの居酒屋も同じ駅。ということは、あのドーナツの方が住まうのもこの辺りと考えてしまうのは早計だろうか。
カウンター席に座ってしまうと、ドーナツの方の顔は横顔が垣間見える程度になってしまった。出来る事なら、もっと近くでお顔を拝見したい。
「あれねぇ……。どの辺りに一目ぼれする要素があるのかしら。しかも、たぶんだけど、私より年上に見えるんだけど」
「うーん。近くで見るとくたびれ具合が増してるなぁ。確かに、千歳さんより年上かもな。三十半ば過ぎてるんじゃないか」
「過ぎてる! 絶対過ぎてるわね。もしかして四十代の可能性もあるわよ。それにあの不精髭、ワイルド系って言うよりヤツレテル系なんだけど」
カウンターに釘付けの私をよそに、千歳さんとムギさんはジャーマンポテトを食しだした。なんだかいろいろ言われているけれど反論は後回しだ。ジャーマンポテトも。
今は少しでも長く、ドーナツの方をこの目で見なくてはならない。
その時、身を乗り出さんばかりの熱視線をカウンター方向に送る私の向かいで、ぽつりと穏やかな声がした。
「僕、あの人知ってるよ」
芹野さんは、おっとりとした視線でカウンターを眺めていた。