ゆうの序章
既視感というには弱く、違和感というには妙に鮮明な何か。わたしの人生のあちこちに散らばるそれは、物心つく頃には既にそばにあった。
例えば食事中。生まれた時から食べている慣れた味を、ふとした瞬間に『違う』と感じることがあった。
例えば着替えの最中。ふわり、と膝をくすぐるドレスを着せてもらいながら、ふと浮かぶ『違う』という感覚があった。
風に遊ばれ髪が舞い上がる瞬間、背の高い本棚から目当ての本がとれず跳ねる瞬間、あれもそれもこれもどれも、何もかも。
違う、こうじゃなかった。わたしの何かが、どこかが、絶対に違う。
どうにか答えを得ようと邸の書庫で本を読み漁った日々もあったけれど、勉強熱心ですね、と家庭教師の好感度が上がっただけで成果はなかった。むしろ難しい顔をして書庫に籠る生活に、子どもらしくない、と使用人たちの好感度が下がった分、損をしたともいえる。
正体不明なそれに不安を感じお父さまに泣きついたこともあるけれど、所詮は幼子の抱える不明瞭な感覚だ。言葉で説明できるわけもなく、そうするとお父さまに理解できるはずもなく。今にして思えば、ずいぶんと困らせてしまった。けれどそれも、十歳になる頃にはすっかり慣れてしまって、『ああ、またか』くらいの感想しか浮かばなくなってしまった。
転機が訪れたのは、アリスティア学園の高等部へ進学してしばらく経ってから。寮での生活にもすっかり慣れ、その日もいつもと同じように日が変わる前にベッドへ入った。
瞼がとろとろ重くなり、沈みこむような感覚に身を任せれば、もう夢の中だ。
『やっと届いた! 待ってました!』
脳裏に響いたのは、姉の声。そう、存在しない、知らないはずの女性の声を、わたしは正しく姉だと理解した。
ぱっと視界が明るくなった気がした。眩むような感覚に、夢の中であるにも関わらず目が覚めた。
『ジッタードールの箱庭』
興奮気味に伝えられたのは、相も変わらず夢中になっているらしい乙女ゲームの新作タイトルだった。
眼前に突きつけるように掲げられたパッケージには、他の作品とどう違うのかいまいちわからない構図で、ヒロインらしき女性を囲む複数の男性キャラの絵があった。
『俺には見分けつかないから』
『いいから聞きなさいよ。これは他とは違うの! 分類は乙女ゲームだけど、プレイヤーの間ではストレスゲーム扱いなんだから!』
『わざわざゲームでストレス溜めんの? わっかんないってその感覚』
呆れる俺に構わず、姉さんは濁流のように言葉を吐き出す。こうなったらもう止まらない。
外では、ゲームなんて嗜みません趣味は映画鑑賞です、なんて澄まして演じている姉さんは、猛る乙女ゲーム愛を語る相手に飢えている。そのくせ仕事とプライベートは分けるタイプなの、なんて意地を張るせいで一向に友達はできず。持て余した愛を、俺を相手に吐き出す日々だ。勘弁してほしい。
しかし悲しいかな、世の弟とは総じて姉には勝てない生き物だ。
今日も今日とて押し切られ、興味もなければプレイもしない乙女ゲームの知識が着々と脳内に蓄積されていく。
『この悪役令嬢がほんっっとに厄介でね!』
『まだプレイしてないのに何で知ってんだよ。せめてプレイしてから語れよ、姉さん』
『攻略対象の行く先々に現れては、イベントを消し飛ばすのよ!』
『俺の話も聞いてくれよ……』
声には溜め息が混じるが、一度、波に乗ると姉さんはもう止まらない。俺の諦めが早くなったのは間違いなく、姉さんのせいだ。
『簡単なのは出会いイベントだけらしくて、それが済んだらひたすら悪役令嬢と攻略キャラの奪い合いよ!』
乙女ゲームなのに出てくる単語が穏やかじゃない。殺伐とした雰囲気を感じる。
『四人の攻略キャラ全ルートで障害になるって、どんだけ厄介なのって話でしょ!?』
随分と強欲な悪役令嬢だな。
『ヒロインは光の精霊と契約するんだけど……これは強制イベントね、それで――』
待ち望んでいたわりに、姉さんは一向にプレイする様子はなく、延々と語り続けた。俺は時折、適当な相槌を打ちながら聞き流し続けた。
田舎は都会より発売日が遅れる。繁忙期で時間も余裕もなかった姉さんは、一か月ほど遅れて入手したゲームに興奮を隠しきれていない。職場で、休み時間を利用して集めたというファンサイトの情報は、プレイ前の姉さんを饒舌にさせるだけの蓄積があった。
『全ての攻略キャラの好感度がマイナスになると、強制バッドエンドで死ぬらしいのよ。ていうか全く攻略しなくても死ぬ。ファンの間では製作者の、やる気あんのか、っていう怒りのメッセージだろうって噂』『悪役令嬢の好感度も上げられるらしいんだけど、挑戦する人いるのかしら』『全員が死ぬエンドもあるらしいから』『隠しキャラもいるらしい』『ノーマルエンドが一番のハッピーエンドだから最終的には目指すわ』『ハッピーエンドも本当にハッピーか怪しいのもあるみたいだし、興奮するわね!』
夜までかかった。ていうか終わってない。
数学の宿題は辛うじて終わらせたが、古典の宿題は終わらなかった。ふざけんな。
『姉さん、俺もう寝たいんだけど』
『は? まだ付き合いなさいよ』
『俺に語るよりゲームしなよ、待ってたんだろ』
『尊くて無理』
『わっかんねえんだって! 姉さんのその感覚は俺には理解不能だよ!』
部活は引退したとはいえ、受験生には休みも惰眠も許されない。これまで部活に割いていた脳みそを、勉強に切り替えるのは大変なんだ。
『あんたに語り聞かせることで心を落ち着かせてるのよ』
『病気だよもう……』
結局、姉さんは日付が変わるまで語り続け、
『そういえばさ、ヒロインの名前が変更できるんだけど』
最後にそう切り出した。
『変更前のソフィア・ジェーンって変じゃない? どっちが名前?』
「ソフィアだよ!」
飛び起きた。
部屋はまだ真っ暗で、枕元のサイドテーブルの時計を確認すると時間はまだ夜中を示していた。
「変じゃないよ普通だよ。ソフィアもジェーンも一般的な名前だから」
ぶつぶつ呟きながら汗を拭く。
思い出した。俺はソフィア・ジェーンじゃない。いや、正確にはそうなんだけど、そうじゃなくて。死んで、生まれ変わった。
元は日本人の男子高校生。大学受験を控えて……というか受験を終えて、その帰り道だった。歩道を歩いてた俺のところに蛇行運転してる車が突っ込んできて、それ自体はスピードが出てなかったおかげで避けられたんだけど、そこで気を抜いたのがいけなかった。避けた先がたまたま蓋のない側溝で、吸い込まれるように右足が落っこちた。あ、と思った時にはもうバランスが崩れていて、どうにもできないまま頭から転んだ。変に体をひねったせいで、首から変な音がしたし、勢いよく打ちつけた頭からは思い出したくもない嫌な音がした。
走馬灯の代わりか知らないが、意識が途切れる直前、最後に頭に浮かんだのは、悩みに悩んだ日本史の第四問の選択肢はイじゃなくてエが正解だったなあ、というものだった。
「受験勉強の苦労が全部、水の泡とか……」
それから俺は、この世界でソフィア・ジェーンとして生まれ変わり、今日まで生きてきた。ごく一般的な令嬢と同じように育ち、同じような教育を受け、同じように王立アリスティア学園へ入学した。
生前、姉さんがプレイしていた乙女ゲーム『ジッタードールの箱庭』と寸分違わぬこの世界で、ヒロインと同じ名前の生徒として学生時代を謳歌している。
これはいわゆる、ゲーム転生というやつだろうか。姉さんの愛読書にいくらでもあった。悪役令嬢に転生して破滅エンドを回避するとか、聖女として召喚されて料理してるだけなのにモテまくるとか。
「勘弁して……」
転生するならせめて、男になりたかった。こんな風に前世の記憶を取り戻すことになるなら余計に。
明日からどんな顔して着替えたらいいんだよ。絶対、違和感で変な顔する自信がある。侍女のアニーに不審がられても説明できない。下手すると医者を呼ばれる。
違和感、そうか。
なるほど食事中。そりゃそうだ。だって俺、健全な男子高校生だったもん。バットを振り続けた泥だらけの青春は、とにもかくにも腹が減る。帰宅前の買い食いで小遣いの大半を使い潰し、米のおかわりは大前提、からあげやらカレーやら好物は小学生の頃から変わらない。牛乳はパックから直で飲み干しては母さんに怒鳴られ、帰宅の挨拶は『腹減った』で父さんに苦笑される。そんな奴が、フレンチトーストとベーコンの朝食やフルーツのおやつ、スープとちょっとのチキンの夕食に、これじゃない、と思うのは当然だ。
なるほど着替えの最中。そりゃそうだ。スカートなんて、高校一年の文化祭で男女逆転喫茶やった時に着たきりだもん。ドレスを着てしっくりきてたら、それはそれで大問題だ。
髪は短かったから風になびくなんて経験ないし、背は高い方だったから大抵の本棚は問題なく一番上まで手が届いた。
あれも、これも、それも、どれも、何もかも。この世界の俺は、前世の俺とはまるで違う。それらが全部、違和感として既視感として俺に訴えていたんだ。
「はぁ……」
明日からのことを考える。
前世のことを思い出して、今の俺は自分を男だと思ってる。これまでの人生で培った女としての常識を、これまで通り受け取れるかと言われれば……――あれ?
朝の着替え、食事のマナー、お茶会等々、前世の俺ならうんざりするような貴族社会のあれこれを、案外すんなり受け止められている自分に混乱する。アニーに不審がられるほど、変な顔はしないかもしれない。
「……」
もうすぐ十七歳になる。前世の俺とそう変わらない。
「前世と同じ年数をソフィアとして過ごしたから、慣れた……?」
じゃあ、思い出さなくて良かったじゃん。
必死になって挑んだ大学受験を終えたその日に死んだとか、受験勉強が実を結んだのか知る機会を永遠に失ったとか、父さんと母さんはともかく、姉さんには前日おやすみも言わずにさよならしたんだなとか。ありとあらゆる後悔で泣きそうになってんだけど、俺。そんな思いをさせなくても、このままソフィアとして幸せに生きられるだろ。
俺は転生する時に神様を経由してはないけど、この国が信仰してる女神のことならソフィアも信仰してた。でも、もし俺が記憶を取り戻したことが神の思し召しっていうなら、神なんて存在はろくでもないくそったれだ。
父さんも母さんも、俺の受験のことすげえ応援してくれたんだぞ。欠かさず夜食を作ってくれたり、山ほど受験応援のお菓子とか買ってきてくれたり。前日の夜にはかつ丼まで用意してくれてさ。
姉さんだって、乙女ゲームの話ばっかじゃなくて、俺の勉強みてくれたし。苦手な国語は姉さんのおかげで克服できたんだ。あんたは試合には強いんだから、受験も大丈夫よ、って言ってくれてさ。おかげで肩の力を抜いて問題に向き合えたんだぞ。受験が終わったら、みんなにちゃんとお礼を言おうと思ってたのに。できないまま死んだ俺の意識を呼び戻して、どうしろって言うんだよ。
『全ての攻略キャラの好感度がマイナスになると、強制バッドエンドで死ぬらしいのよ。ていうか全く攻略しなくても死ぬ。ファンの間では製作者の、やる気あんのか、っていう怒りのメッセージだろうって噂』
脳裏に姉さんの声が反響する。
全く攻略しなくても、死ぬ……死ぬ!?
え? あれ? 俺、このままだと死ぬの!?
うっそ無理やだ怖い!
今まさに生き返りました、くらいの心境なのに死が目の前にぶら下がってるとか嘘だろ!?
慌てて思考を切り替える。姉さんは確か攻略キャラについての話もしていたはずだと、必死で思い出す。
ヴァルツァー王国の第一王位継承者で王太子の、テオドール・ローゼン・バレットさま。ザ・王子さまといった感じのキャラで、攻略難易度は一番低いけどストーリー的にはよくあるお約束で面白みも薄い。一種のチュートリアルと言われている。
その弟、第二王子のユーリ・ローゼン・バレットさま。ガキ大将がそのまま成長したような、やんちゃでちょっと乱暴者。いわゆる俺様キャラで、ヒロインへのデレや甘えっぷりがギャップもあって最高だという。
宰相の息子で公爵家のゼル・クリストファーさま。ドSで意地悪な腹黒キャラだけど、攻略すると可愛い一面も見せてくれる。悪役令嬢の妨害が最も激しいキャラで、攻略難易度が一番高い。制作側に愛されている、というのがプレイヤー間の共通認識。スチルの数が一番多いらしい。
悪役令嬢の義理の弟で侯爵家のセシル・ベルシュタインさま。作中屈指のモテキャラで、好感度が上がってくると他生徒からの嫉妬によるイベントが発生する。弟属性特有の甘える仕草や表情が描かれるスチルは、多くのプレイヤーが悶絶したという。
「……」
駄目だ。役に立つ情報が一個もない。
スチルの数とか内容とか、心底どうでもいいよ。ここじゃ現実なんだから、記録も保管もできねえよ。……できてもしないけど。
こうなったらもう、男とか女とかどうでもいい。生きるか死ぬかだ。俺はまだ死にたくない、ていうかもう死にたくない!
ああ、女神さま感謝します。思い出させてくれてありがとう。おかげで生き延びるべく足掻くことができます。窓の外に広がる夜空に向かって拝む。
『ノーマルエンドが一番のハッピーエンドだから最終的には目指すわ』
目指すはノーマルエンド。何でノーマルなのに一番のハッピーエンドなのかは、考えないようにする。
「ノーマルエンドへの道のりは……確か、……うぅ」
各攻略キャラのイベントを一つでもこなすとルートが発生する。あとは、全員の好感度を偏りなく上げて、個別エンドに行かないよう調整すればよかったはずだ。
「いや、むっず。好感度のメーターとかねえよ、現実なんだってば……いや、待てよ」
姉さんの言葉を思い出す。
『簡単なのは出会いイベントだけらしくて、それが済んだらひたすら悪役令嬢と攻略キャラの奪い合いよ!』
出会いイベント!
それだけ全員分こなして、あとは放置しておけば条件を満たせるはずだ。各キャラの出会いイベントを思い出す。
テオドール殿下は、高等部へ上がってすぐだったはずだ。迷子になって、木に登って高いところから目的地を探そうとかいう破天荒な思考を披露したことがきっかけで興味を持ってもらえる。
ユーリ殿下は、歴史の授業で躓いて絶望しているところを見つかって、古代バメル語に嘲笑われるとかいう謎の発言で興味を持ってもらい、勉強を教えてもらうことになる。場所は確か図書館で、時期は高等部へ上がって最初の授業の後すぐだ。
ゼルさまは、食堂でデザートを決められず迷っているところに声をかけられる。詳細は覚えてないけど、新学期のお祝いで特別なメニューが出される日だったはずだ。わざわざデザートのスチルが用意されてる、とか姉さんが騒いでいたので覚えている。
セシルさまは、夕暮れの校舎で声をかけられて、困りごとの解決を手伝う……だったはず。それしか思い出せない。姉さんが、進学後すぐのでこれはつまんない、とか言ってた気がするから、多分そもそも詳細を聞かされてないんだ。
「……進学後、すぐ?」
顔から血の気が引いたのが自分でわかった。――進学して、かれこれ半年は過ぎましたが?
顔を覆ってうつむく。喉の奥から声になり損ねた悲鳴が流れ出る。
「終わった……」
くっそぅ女神この野郎! さっきの感謝を返せバカ!
また泣きたくなってきた。ソフィアは涙脆くてすぐ泣く。自我が前世の俺のものに変わっても、ソフィアはソフィアであるらしい。滴った涙が手を濡らした。
「死にたくない」
前世の俺とは違うんだ。今回は死ぬってわかってるのに、むざむざ殺されるなんて絶対に嫌だ。何だよ、強制バッドエンドって。人の命を何だと思ってんだよ。
「死にたくない」
まずは各キャラの攻略。出会いイベントが駄目なら、ストーリーのイベントをこなすしかない。出会いは強引でもいいから、イベントに繋がるように好感度を上げるんだ。
大丈夫。一人につき一回のイベントさえこなせばいいんだから。子爵家の令嬢がどうやって上位貴族の攻略キャラに声をかけるんだよ、なんてことはこの際どうでもいい。貴族社会のルールを守ってたら俺は死ぬ。
強制バッドエンドについても思い出す。姉さんなら多分、語ってるはずだ。頑張れ俺の記憶力。かつては脳筋とか言われたけど、今はソフィアの脳みそだ。それなりに優秀な脳みそだから、きっと思い出せる。
「死んで堪るか」
絶対に生き延びる。
何で乙女ゲームの世界に生まれ変わったのかとか、そもそもそんなこと可能なのかとか、疑問は山ほどあるけど、命の危機の前では小さな問題だ。気にしてる余裕なんてない。
まずは明日から、攻略のための作戦を立てよう。
生き残るためなら何でもする。やるぞ。
「よし、」
俺は大丈夫。
「やってやる!」
気合を入れるべく発した声は思ったより大きくて、隣の部屋で眠っていたアニーを起こした。学生時代の俺は地声がでかかったから、ソフィアにも影響が出たのかもしれない。
部屋に飛び込んできたアニーはひとしきり俺の心配をした後、怖い夢を見てそこに出てきたお化けを倒そうと思った、と言い訳した俺に、不審者でも見るような目を向けた。
……うん、俺もその言い訳は無理があると思う。
明日は学校を休むよう、胡乱な目をしたアニーに言いつけられ、俺の計画は決意した次の瞬間に破綻した。
が、頑張るぞ~……。