06
殿下の説明を要約するとこうだ。
ソフィア嬢はやはり光の精霊と契約していた。それだけでなく、彼女は予知夢を見るのだという。以前から頭を悩ませていた予知夢だが、今回はその内容が私や殿下にも関係のあるものだったらしく、混乱のあまり殿下に泣きつくという暴挙に出た。話を聞いているとどうやら私は危険な目に遭う可能性が高く、殿下はソフィア嬢から詳細を聞き出しながら対策を講じることに夢中だったということだ。
私の安全を優先するあまり、私自身を後回しにしてしまった、と。
「本当にすまなかった」
殿下の眉は下がりっぱなしで、後悔が全身から滲む。
「私が出遭うという何かについて、詳細はわかりましたの?」
「あー……それは、予知夢とはまた少し違うんだ」
「どういうことでしょう?」
殿下は言いよどんだけれど、私がムッとすると慌てた様子で口を開いた。
「光の精霊が、……君のことを嫌っているらしい」
「……それは、困りましたわね」
私は女神への信仰心がない。神と深い繋がりのある光の精霊に嫌われたとあっては、なるほどそれは、災いが降りかかり不幸に見舞われてもしかたない。そして、もしそうなれば、人間が抗ったところで逃げられるはずもなく。けれど、信仰が原因ならばインヴェルン辺境領の民はどうなるのでしょう。
「私はなぜ、嫌われてしまったのでしょうか」
発端が信仰心の有無であるならば、私だけに注がれる粛清ではないかもしれない。だとすれば私は、神を殺す術を見つけなくては。
考え込む私を気にしつつ、殿下が数冊の本を運んできた。テーブルに置かれたそれらは、全て精霊に関するものだ。
「光の精霊は、他の精霊からきら……折り合いが悪い」
嫌われているとはまた、不穏な話だ。
「えー、と……それが私と何か関係があるのでしょうか?」
「だってヴィは火の精霊と契約しただろう?」
「いいえ、そのような記憶はございません」
「え?」
「え?」
しばしの沈黙。
「え、でも……え?」
「私は精霊と契約したことなどございません」
生まれてこの方、尊いというその姿を目視したことすらない。ベルシュタイン家に流れるドラゴンの血は薄れていないはずだけれど、仮説にもある信仰心の関係か、精霊の姿を目視できる者は長い歴史の中でも少ない。
「ヴィ……」
眉尻を下げた殿下の声に合わせるように、ふわり、と私の周囲に火の粉が舞った。ぎょっとする。それはいつか見た光景。私が人生で一番、後悔している出来事。
『ひっどーい! ぼくの――』
ぱあんっ! と、目の前に飛び出してきた小さな火の欠片を、両手で叩き潰した。
なんだか声が聞こえたような気がしたけれど、それどころではないので無視する。テーブルの上には本があるのだから、間違っても火を近づけるわけにはいかない。
「ヴィ、……ヴァイオレット」
「殿下、水を。私に水をかけてくださいませ。けれど本は濡らさないでくださいまし」
「ヴァイオレット、落ち着くんだ。今、君が叩き潰したのは精霊だ。それが、君と契約した火の精霊だよ」
「……はい?」
合わせた両手をじっと見る。指の間から火が漏れ出ているのに、熱くない。
「……まったく、十年も気づかずいられたなんてな。君はいつだってわたしの想像を上回るね、ヴィ」
ぽかん、とする私の手の中で、火が身じろぎした気がする。
『ねえ、そろそろ出してくれない?』
声は確かに、私の手の中から聞こえた。
けれど頷くわけにはいかない。本に火は大敵だ。どうにかそのまま話してもらうわけにはいかないでしょうか。
『本を焼いたりしないよ、約束する。この十年、一度も燃やさなかったんだ。信じておくれよ』
「ヴィ、大丈夫。そいつは癇癪持ちだが、君の言うことは聞くよ」
「……殿下がそうおっしゃるなら」
渋々、ゆっくり手を離す。ゆらゆらと燃え立つ炎が舞い上がり、手のひらに乗る程度の大きさをした人型へと姿を変えた。
『ひどい目に遭った。まさか叩き潰されるなんて』
「急に出てくるお前が悪いんだ」
『うるさい! お前また女の子を泣かせたな! 十年経ってもちっとも成長してない!』
「な! 泣かせてない! ……泣いたのか?」
怒鳴った殿下は途端にしゅん、と肩を落とし、濡れた仔犬のような目で私を見上げた。
急に話を振られて驚いてしまう。とっさに首を振ってから、泣きそうにはなったな、とぼんやり思い出す。
それにしても、随分と親しげだ。旧知の仲、とでもいうような。
「お知り合いですか?」
なんだか間抜けな質問だ。
私の反応に胸を撫で下ろしていた殿下が、そのままの姿勢で凍りついた。みるみる青褪め視線を泳がせる。何かいけない質問だったのでしょうか。
ややあって、殿下は深々と溜め息を吐き出し観念したように口を開いた。
「……そいつは昔わたしと契約していたんだよ。残念ながら、この通り嫌われてしまったがね」
見れば、殿下に向かって舌を突き出している。あっかんべ、という仕草でしょうか。輪郭が揺らめいているせいでいまいち動作が掴めない。
『ぼくは女の子を泣かせる男が嫌いなんだ。女の子の涙は冷たいからね。ぼくの火が凍えちゃうよ』
「あ、あらあら」
『でも驚いたよ。十年も君の心の片隅に住んでたのに、本当に気づいてなかったの?』
「ご、ごめんなさい」
『ちゃんと契約したんだけど、それも覚えてないの?』
「ごめんなさい……」
十年というと、七歳の頃だ。殿下と契約していたはずの精霊と、殿下と出会ってない頃の私がどうやって契約したのでしょう。混乱は増すばかり。
『会ってるよ』
心を読んだように精霊が返事をした。本当に契約しているらしい。
『七歳の頃だよ。君が本を燃やしてしまった火、ぼくはあれに魅入られてこいつをフッたんだ』
精霊が殿下を指差す。
ハッとしたように顔を上げた殿下が立ち上がり精霊に手を伸ばす。性急な動きだった。
「待て言うな――っ!」
『本に乱暴したのはこの王子さまだよ』
「――ああああああっ!」
精霊を掴み損ね、腕が空振りした殿下はそのまま頭を抱えて床に転がり落ちた。
「あ、あらあら……」
ふわり、と舞い上がった精霊が私の額を、ちょん、とつつく。――思い出した。
あの日、あの時。館内を駆け回っていた男の子は二人いた。一階の端まで走った彼らは二階へ、そして私のいる場所までやってきた。大判の図鑑を床に座り込んで広げていた私がそばに積んだ本の塔を蹴り倒し、あまつさえ、邪魔だな、と不満を漏らしたのは、そっくりな顔立ちをした二人のうち、少しだけ背の高い方の男の子。
本は人類の宝、そして私の宝物。図書館はいわば宝物殿。そんな場所でばたばたと走り回るだけでも大罪なのに、至宝の塔を蹴り飛ばすなんて万死に値する。本は動けないのだから、手も足もあり脳みそも詰まってる私たちが失礼のないように避けるべきなのに。
怒りで目の前が真っ赤になって、無意識に魔法を発動した私は手を置いていた図鑑を半焼させた。その時、火を消してくれたのはもう一人の男の子。二人とも灰色の髪をしていて、その双眸はアメジストだった。つまりあの時、図書館にいたのはテオドール殿下とユーリ殿下で、私を泣かせたのはテオドール殿下だったということだ。
『ぼくは人の、怒りの感情が最高のご馳走なんだ。君の怒りは純度が高くて美味しい。それに君の銀糸の髪とぼくの紅い炎はよく映えて美しい』
「よく言う、ただの浮気だろ」
床にうずくまった殿下がぼそりと呟いた。ムッとした火の精霊が食ってかかる。
『ぼくは一途だお前と違って』
「俺はヴィ一筋だ! 俺と契約する時は、自分の炎で煌めく俺の目が綺麗だと言ってたくせに!」
また喧嘩が始まった。
私に背を向けて、余計なことを言うなとか、ぼくの勝手だとか、そんな風なことを言い合っている。
そう、そうだったの。あの時の男の子が殿下だった。けれど、婚約のお話を持ってきた殿下とはまるで雰囲気が違う。……雰囲気というなら今もそうだ。どなたにでもお優しい穏やかで落ち着いた殿下の面影など見る影もない。一人称さえ違う。
『あいつは君を泣かせたことを気に病んで、心を入れ替えたんだよ』
精霊の体から舞った火の粉がこっそり教えてくれる。
『あいつ、本を読む君に見惚れたんだ。そのせいで君が積んでた本にぶつかった』
「殿下が、私を……?」
『一目惚れってやつだね。なのに君が泣いちゃって、びっくりして逃げ帰ったんだ。笑っちゃうね。本当なら、君らの婚約はあの日に結ばれるはずだったんだよ』
元々、私は殿下の婚約者の候補に名が挙がっていたらしい。知らなかったのは私ばかり。お父さまと、王都にいるお兄さまが王家と一進一退の攻防を繰り広げていたそうだ。不敬罪や反逆罪に問われていないのは奇跡でしょう。
『子煩悩と妹煩悩が爆発したんだ。君はベルシュタイン家のとっておきだしね。やんちゃで乱暴者の王太子にはやれないってさ。愛されてるね、ヴァイオレット』
「……そう、ね」
私は家族に愛されている。そこに異論はない。私だって愛してる。けれどまさか、王家と喧嘩してまで守ろうとしてくれていたなんて考えもしない。
『あの日は隙をつかれて、まんまと婚約を結ばされてしまった君のお父さんのところへ、王子たちを引き連れて乗り込んだんだ。でもあいつは、応接間で婚約話をまとめてる君のお父さんのところへ駆け込んで、泣きついて、君に好かれるような男になってみせるから待ってって叫んでたよ。あの情けない姿で、ぼくはあいつを見限ったんだ』
ヒヒ、と笑った精霊の声を聞きつけた殿下が、絶叫しながらこちらを振り返った。
「ヴィ! そいつの話を聞くな!」
地響きのような大声に驚いて、ソファーからお尻がちょっと浮いてしまった。
「もうやめろ! 俺の努力が水の泡じゃないか!」
『知らないよ。猫を被って好かれたって、長続きするもんか』
このまま放っておくと、延々と喧嘩をしていそうだ。
「殿下、そろそろ話を戻しませんか?」
言い争いが途切れた一瞬で声を挟む。
「捨てないでくれ!」
……さすがに戻り過ぎだと思う。そこまでは要求していない。どうしましょう。
「殿下、ソフィア嬢のことです」
「浮気してない!」
「……」
「断じて! 俺はヴィだけを愛してる!」
もはや一人称を訂正する余裕もないようで、殿下は鬼気迫る表情で腕を広げる。
「ヴィ!」
「もうわかりました! 私も殿下のことが好きです!」
触れそうな距離に迫った殿下の顔に押し負け思わず、私も声を荒げる。
「この話題はこれでお終いです! ソフィア嬢の予知夢の話に戻ってくださいまし!」
頬が燃えるように熱い。よろよろとソファーに腰を落とす。殿下も座った。
「ヴィ、」
遮って言葉をねじ込む。
「火の精霊と契約しているから光の精霊が私のことを嫌っている、ということまでは理解しました。理由までは問いません。ですが、光の精霊もまたソフィア嬢と契約しているのでしょう? 私に何かするということは、ソフィア嬢もまた、私のことを嫌っているということでしょうか?」
「……問題はそこだ」
少しだけ拗ねたように口を尖らせた殿下が、渋々といった風に返事をした。
「光の精霊は精霊種の中でも異端だ。そのため、通常の契約ほど影響力はないらしい」
契約とは大抵の場合、互いに影響を与え合う。人間は精霊が宿す力を貸してもらえる。精霊は人間の心の内を知ることができる。面白いとか、美しいとか、精霊種が人間と契約を結ぶ条件のほとんどが好奇心によるもので、それは私と火の精霊も例外ではないらしい。
そして契約によって生じる影響の最たるものが、感情の面にある。互いの感情が影響を与え合うのだ。
例えば、泣き虫な精霊と契約すると、気丈だった女性が涙脆くなったとか。例えば、穏やかな性格をした人間と契約すると、怒りっぽかった精霊があまり喧嘩をしなくなったとか。そういった記録は多く残されている。
これは原初の精霊も同様であるらしいのだけれど、光の精霊の場合は少し勝手が違うらしい。
「ソフィア嬢が震えながら君を傷つけないでほしいと頼んでも、嫌い、の一点張りで話にならないらしい。わたしたちに姿を見せてくれることもないままだ」
力の強い精霊は、目視できる人間からも姿を隠すことができる。原初の精霊ともなれば、殿下さえ欺けるらしい。
殿下は王家の歴史の中でも潜在魔力がとても高い。
「どうにか話を聞かせてもらおうと連日ソフィア嬢には生徒会室へ来てもらっていたんだが、それが余計に精霊の機嫌を損ねる結果になったようで……」
肩を落とす殿下の周りを飛んでいた火の精霊が、わずかに火加減を強めた。
『あいつは目立ちたがりだからね。自分が一番でなきゃ嫌なのさ』
「わかるの……?」
『ぼくは火だ。照らす、という面では同じことができるでしょ? あいつはそれが嫌なんだ。だからあいつは、火の精霊は全て嫌いだよ』
「それはまた、厄介な性格ね……」
ゼルさまに貸した聖職者の日記を思い出す。
神聖な姿、清廉な心、麗しい言葉、慈愛に満ちた仕草。教会で教わる光の乙女とはそういうもので、しかし彼の記録する彼女はそうではなかった。
【淡い光が輪郭をぼかす姿は神聖で美しく、まさに絵にある光の乙女であった】
【他の精霊に漏れず、彼女もまた悪戯好きでいらっしゃるらしい。わたしが灯した蝋燭の火を悉く消してしまわれた】
【どうも様子がおかしい。これが本当に、伝え聞く精霊の姿なのだろうか】
【絶対におかしい。尊い光の精霊がまさか、「このわたしが照らしてやってるのに何で毎回、しつっこく蝋燭に火をつけるのよ喧嘩売ってる!?」などと怒鳴るはずがない】
【わかった。彼女は自尊心が膨れ上がっている眩しいだけの乙女だ】
【今日も機嫌が悪い。こちらは要求通り蝋燭に火を灯さず来たせいであちこちぶつけて痛いってのに。ふざけんな】
【むかつく】
【もうどっか行けよ。いいよ浄化とか。土地が神聖になる前にわたしの心が汚染される】
【懐かれた。やめて。風邪引いて寝てたら家まで来たんだけど。夜は眩しいから来ないで。わたしが一番美しい時間よ、とかいいからそういうの。見舞いに来るなら思いやり持ってきて】
段々と雑になる文章は、彼が抱く光の精霊像が砕ける様子を鮮烈に訴えていた。もし光の精霊が記述通りだとすると――
『その通りだよ』
……私の身はこれ以上ないほど危険だ。
『大丈夫だよ、ヴァイオレット』
火の精霊が二つに分裂し、それぞれが殿下の頬をつまんで引っ張った。強引に引き上げられた口角が、辛うじて弧を描く。
「いひゃいいひゃい!」
『大好きな女の子くらい守ってみせなきゃ男じゃないでしょ』
手を振って追い払う殿下から離れ、火の精霊が私の頬にキスを落とす。
「あ! お前はまたそういうことを――」
「ヴァイオレット、君との約束だ。ぼくは君の宝物は傷つけない。乙女が何をしようとしてるのか知らないけど、君のことも君の家族も、君の故郷も、ぼくが守ってあげる」
温かい言葉で胸の奥に熱が広がる。――思い出した。
あの日、宝物である本を焼いてしまったことがあんまり悲しくて、大事なものを傷つけるような魔法を使ってしまった自分が不甲斐なくて、情けなくて。わんわん泣いていた私を慰めてくれたのが、火の精霊だった。舞う火の粉が雪のように降り積もって、しかし熱はなく燃えなかった。
『ぼくが食べてあげる。君がちゃんと魔法を使えるようになるまで、君の怒りはぼくが食べてあげる。君が二度と宝物を傷つけて泣かずに済むように』
名前を教えてもらったのもこの時だ。
『君の心の片隅をぼくにちょうだい。そしたら、ぼくはそこで君の怒りが燃える前に食べてあげる。約束するよ。君の宝物はぼくが守ってあげる。絶対に傷つけない。だから泣かないで、ヴァイオレット』
ぼくの名前は、フィリート。優しい、優しいその声に、私はただ、うん、と頷いて。
ありがとうも、お願いしますも言えないまま、彼と契約を交わしたのだ。
「ありがとう、フィリート」
テオドール殿下も、私の大切な宝物なの。だからどうか、殿下のことも守ってね。
お願い、と小首を傾げた私の頬にもう一度キスをして、フィリートは任せて、と胸を叩いて見せた。
「殿下、」
顔を上げた私の視線の先で、殿下は真っ赤に茹で上がって立ち尽くしていた。
「殿下?」
反応がない。
「テオドール殿下、どうされましたの?」
近づいて腕を引くがやはり返事はない。……しかたない。
「フィリート、ソフィア嬢を呼びに――」
腕を引かれた。突然のことでバランスを崩すも衝撃は来ず、とっさに閉じた目を開けると触れそうな距離に殿下がいた。
「で、」
「俺も行く」
「ひゃい……?」
「惚れた女くらい守ってみせなきゃ男じゃないだろ」
ぼくの真似じゃん、と拗ねるフィリートの声が遠い。破裂しそうなほど早鐘の打つ心臓が痛くて、私は指先一つ動かせない。
「行くぞ」
手を引いて歩き出す殿下の視線は厳しくて、口調は聞いたこともないくらい荒くて。穏やかとか優しいとか、そんな印象は影もないけれど、不思議と、普段の殿下より馴染んでいるように見える。
「ヴァイオレット」
「はい」
「落ち着いたらまた頑張るから、それまで辛抱してくれ」
やんちゃで乱暴者な王太子。殿下の被った猫が剥げた。
私はそんな殿下を、頑張らなくてもいいのに、なんて思ってしまいながらただ追いかける。どうしてそう思うのかわからないまま、熱に浮かされたように返事をし損ねた。