エピローグ-side S-
肺を満たす薔薇の香りに包まれた王宮庭園は、心地良く賑わっている。
――おっかなかった……。なんなの、あの男。
薔薇の甘い香りを邪魔しないスッキリしたお茶を楽しみつつ、ウィーリアの沈んだ声に耳を傾ける。
――妹煩悩だけでわたしに掴みかかるなんて、どっかおかしいんじゃない?
あ、このケーキ美味しい。タルト生地サックサクだ。フルーツも宝石みたい。
――ねえ、聞いてる? わたしが落ち込んでるのよ? 慰めなさいよ。
じぃっと真正面から睨みつけてくる視線が痛い。
――慰めなさいよ。
一緒に謝ってやっただろ。俺だって恐ろしかったよ、なんだよあの人。陛下がドン引きしてたじゃん。王妃さまも、口端が引きつってたぞ。
週末、再び王宮へ招かれた俺達は、今回の一件を陛下に報告した。もちろん、ウィーリアが引き起こした大混乱についての謝罪も。やめよう、と思っていた土下座をこんな短期間で解禁することになるとは思わなかった。おかげで結構あっさり許してもらえた。陛下と王妃さまには、だけど。
エリック・ベルシュタイン。
ヴァイオレットさまとセシルさまの兄で、宮廷では財務を司る部署に籍を置いているらしい。妹を溺愛しているようで、ユイグの一件でヴァイオレットさまが負った心の傷を想って、それはそれは激しく怒り狂った。
一通り俺や殿下の報告を聞いて、俺の土下座にドン引きして、陛下達と変わらない反応を示していたのだが、ウィーリアが姿を見せた瞬間、真っ先に駆けだして掴みかかった。びっくりしたウィーリアが、ぐえ、と声を漏らすほどの勢いで、俺なんてビビッて腰が抜けた。俺以外の人間には触れないはずのウィーリアに触れてしまうほどの怒りは、ウィーリアの心に深い傷を刻みつけたらしい。
セシルさまが羽交い絞めにして、ヴァイオレットさまが説得して、テオドールさまが頭を下げて。エリックさまが止まったのはそれからだ。
――あいつ、わたしのこと殺す気だったわよ。
インヴェルン辺境領の人は気性が荒いって聞くけど、あの人は頭のねじがどっか飛んで行ってんじゃねえか。
とは思いつつ、実はヴァイオレットさまも同程度には怒ってたんじゃねえかと、こっそり思っていたりする。だってあの人、エリックさまを説得して牙を収めてくれるよう助けてくれたけど、最後までウィーリアには謝らなかった。心配かけてごめんなさい、ってエリックさまに謝って、兄はちょっと妹煩悩が暴走気味なの、って俺に謝ってくれたのに。
幸いなことに、ウィーリアは動揺からミラーボールみたいにギラッギラ輝きながら回転していて気づかなかった。感情の表現が独特なんだよな、こいつ。
「それで?」
『何よ』
「女神に完全勝利した自慢、したかったんだろ?」
ヴァイオレットさまはテオドール殿下と、向こうでゆっくりお茶を飲んでいる。ユーリ殿下とセシルさまとゼルさまの三人は、ロータスさまを肘で突っつきながら何やら男同士の交流を楽しんでいる。フィさんはのんびり空で日光浴の真っ最中だ。
ちょっとくらい素を出してウィーリアとおしゃべりしたって、バレやしないだろ。
『ふふーん、聞きたい?』
「是非」
踏ん反り返ったウィーリアは、俺を見下ろす位置までわざわざ少し浮いた。
『この偉大なわたしを褒め称えて感謝なさい。女神の関節を全部外して折り畳んでやったし、あんたの魂を弄んだくそったれな神にも罰が当たるよう取り計らってあげたわよ』
「いや、待って待って。初手から物騒。関節を全部? え、外して折り畳んだって何?」
「言った通りよ。タコみたいにぷらんぷらんにしてやったの」
「何それこっわ」
タコって……人間だったら死ぬだけじゃ済まねえよ。
『神に死はないんだから、痛い目見るくらいいいのよ』
あれだけユイグに情をかけて機会を与えてやったのに、女神には容赦なく物理攻撃を叩き込んだのか。
「め、女神はなんて……?」
『八つ当たりだ何だと騒いでたけど、殴ったら黙った』
待て! お前それ神聖な存在としては完全に駄目だろ!?
叫びそうになった口を両手で塞いで、代わりに胸中で叫ぶ。
――わたしがわたしの不自由を訴えるために殴ったんだから、誰にも文句は言わせないわよ。
……それで、女神は反省したのか?
『反省どころじゃないわよ。冥府の王、彼を釣り上げることに成功したんだから!』
うわぁ……ユイグの時にも聞いた名前だ。冥府の王、地獄を管理している神様。
『わたしが世界を暗くした時にね、彼が怒って女神のところに乗り込んできたの。あんたのことを話したら、親身になってくれたわよ』
何でウィーリアが問題を起こした時に女神のところに来るんだ。場所が割れてるのか、お前。危険な精霊として監視されてるとか?
『失礼なこと言ってんじゃないわよ。女神は神々の中でも問題児なの、世界に何かあった時は真っ先に疑われるのよ』
「大陸のほとんどの国で信仰されてる神なんだぞ……」
どんだけ自分を美化したらそこまで現実とかけ離れた姿でいられるんだ。
「見栄っ張りなのよ」
「度が過ぎるだろ……」
女神を叱り飛ばしにやってきた冥府の王は、俺のことを聞いて本気でキレたらしい。元々、女神を贔屓している神への不満は大きく迷惑を被っていたこともあり、王は二柱にしっかり反省させると約束してくれたという。
『シナリオに沿った行動、あんたが把握してる以上に細かくあったみたいよ。残念だったわね』
「全部、聞いたのか?」
『……聞いた』
ものすごく嫌そうに、ウィーリアが不貞腐れた。
『あんた、教会に行ったのは寝不足でうっかりって言ってたけど、そうじゃなかったみたいよ。地下へ行ったのも、もちろん王子達へときめいてたのも』
ウィーリアと契約したあの日、教会へ行ったのはうっかりだったはずだ。寝不足で、精霊学の授業がどこであるのか思い出せなくて。
「……それは、知りたくなかったなあ」
契約した時、握手をしようと思った自分に首を傾げたことを思い出す。あれも、神の手のひらの上で転がされていただけなんて、知りたくなかった。
転生したことを自覚するまでの日々で、小さな違和感や既視感は散々、経験した。そのせいで、慣れてしまっていたんだ。ちょっと引っかかる程度の何かは、気にならなくなっていた。例え気になっても、持続しなくなっていた。
『ムカつくわよね。端から端まで嫌って文句言ってやるつもりだったのに、一個でもいい結果を出されると、文句言い辛いじゃない』
「……」
『何よ、その顔』
変な顔にもなる。
「俺との契約、良いことだと思うか?」
良い出会い方じゃなかったし、喧嘩もしょっちゅうだ。仲良くやれてるし友達だけど、神のおかげとわかればケチがつく。俺はちょっと落ち込んでるのに、ウィーリアは違うことを言う。不変は精霊の美徳だと言ってたくせに、出会った頃とは別人みたいじゃねえか。
『わ、わたしだって、友達ができて嬉しいと思う気持ちくらいあるわよ』
ウィーリアの光が波打つように強弱を変える。
『ケチがついたから、何だって言うのよ』
いじけた声が胸の奥をくすぐった。
「お前さ、可愛いとこあるよな」
『はあ? 急に何よ』
「出会い方がどうであれ、俺達は俺達だよなって話。で、冥府の王はちゃんと反省させられそうか?」
くすぐったくなったので、話題を変える。
『させるでしょ。怒り過ぎて火を噴いてたし、女神の頭を鷲掴みにして連れて行っちゃったから』
王も怖いな。物理攻撃の内容が想像できる分、恐怖が倍増する。
『でも失敗だったわ。まさかユイグのシナリオを既に神が始めてるなんて、思わなかったもの』
「女神からは何も聞けなかったのか?」
『知らなかったのか、知ってて黙ってたのか。まあ、ユイグの魂を王のところへ送ったんだから言い逃れはできないわよ』
うふふ、と笑ったウィーリアが、悪魔に見えた。……そこまで想定して慈悲をかけたとかそんなこと、まさかないよね? 純粋に俺との友情の結果だよね?
ウィーリアは返事をしなかった。
「楽しそうですね」
上から声が降ってくる。
「ロータスさま! ふふ、ウィーリアとちょっとしたおしゃべりをしてました」
「内容を聞いても?」
「乙女の内緒話ですよ。秘密です」
――素の口調で女神をボロクソに言ってたなんて、バレたくないもんね。
乙女心に茶々入れんな!
「同席してもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
隣に腰を下ろしたロータスさまのためにお茶を用意する。
「ロータスさまこそ、ユーリ殿下達とどんなお話を?」
「おちょくられていただけですよ」
ロータスさまの肩が、がっくり落ちた。
「俺は今回、寝てただけですから。ヴァイオレットさまとソフィアさんにドラゴンの相手をさせてしまった……囚われの姫の気分はどうだったか、散々つつかれましたよ」
囚われの姫……まあ、おとぎ話のお姫さまは大抵、ドラゴンが守る塔のてっぺんで囚われてるけど、例えが秀逸だな。
「ふふ、女の子だって、好きな男の子を守りたいものなんですよ」
守られるばかりの借金まみれ。ヴァイオレットさまの例えは面白いけど突き刺さった。そうだよ、女の子が男の子を守っちゃいけない法律なんてないんだ。
ロータスさまは困り顔のまま微苦笑した。
「それでも、できることなら俺が守りたかった」
くっそぉ、かっけーなあちくしょう!
「悪夢に苛まれながら、わたしを傷つけないように戦ってくださったでしょ。わたしはその、お返しをしただけです」
お相子です、と続けた俺の顔を凝視して、ロータスさまが吹き出した。
「あはは! あなたには敵わない」
目端に涙が浮かぶほど笑ったロータスさまに、ムッとする。俺、そこまで可笑しなこと言ったか?
――頭に花が咲いてる奴の発言はぜーんぶ、変。
ひっでぇな。
油断した。ウィーリアを睨むために視線を逸らしたのがいけなかった。
「ひゃあっ」
頬に押し当てられたのが唇だと、気づいた時にはもう離れていた。一瞬で茹で上がる。頬を押さえてロータスさまの方を振り向くと、なぜか不思議そうな顔でわざとらしく首を傾げていた。
「な、何を……!」
「これはお返ししてくれないんですか?」
「~~っっっっ……!?」
吸った息が喉の奥につっかえた。い、息って、どうやって吐くんだっけ?
――吐くのよ。
「ロータスさま!」
「あはは、可愛らしいですよ」
もう、もう何だよこんな時ばっかり! いつもの謝罪癖を、こんな時ばっかり忘れるんだから!
つん、とそっぽを向いた先で、テオドール殿下に担ぎ上げられているヴァイオレットさまが視界に入り込んだ。ヴァイオレットさまは真っ赤になっている。
目が合った。伸ばされた手を、反射的に握る。殿下が立ち止まった。
「そ、そふぃあさん、わ、わわたくし……」
呂律の回っていないヴァイオレットさまの手を強く握る。殿下の顔が般若のように歪むが、無視する。
「ヴァイオレットさま、助けてほしいですか?」
後ろでロータスさまがぽかんとするが気にしない。
鈍いな、まったく。イベントの予感だろ、これ。
――わたし覚えたわよ。ゲーム脳って言うんでしょ、それ。
うるせえ。
「た、たす……、たす」
「テオドールさまと二人きりですけど、割って入ってほしいですか?」
二人きり、の部分を強調する。
ヴァイオレットさまは言葉を理解するのに苦労しているのか、しばらく間、目を回しながらぐるぐる考えているようだった。やがて小さな声で返事があった。
「だ、だめ……」
割って入ってしまわないで。
ぱっと表情を晴らした殿下と、俺も同じ顔になる。ヴァイオレットさま、可愛い。抱きしめたい気持ちはぐっと抑え、手を離す。
「ヴァイオレットさま、可愛い」
声に出ちゃった。
テオドールさまはずんずん歩を進め、薔薇の迷路に入って行った。
「よ、良かったんですか、二人にして」
不安げに眉を下げたロータスさまが、どうしてか小声で言う。
「何か問題がありましたか?」
「……殿下の顔、ちゃんと見ましたか?」
見た、すごい顔してた。
「わたし知ってますよ、男性はみんな狼なんでしょう?」
「ソフィアさん!?」
「でもヴァイオレットさまは虎ですから、驚かせたら引っ掻かれます。噛みつかれるかも」
「ソフィアさん……」
ロータスさまは困り果てた様子で額を押さえた。
――うまく誤魔化したわね。
何の話?
――あんた、ついさっきまでヴァイオレットと同じ顔してたわよね?
……さあ、忘れちゃった。
――ふーん、忘れるんだ。
……思い出させんなよ、また熱が上がるだろうが。
――もう遅いわ。
意地悪。
「ソフィアさん」
「は、はい」
優しく名を呼ばれ、声が裏返った。それが恥ずかしくて、顔に集中した熱を自覚する。
「俺も男ですが、ソフィアさんは驚いたら俺を噛みますか?」
驚かす気満々って顔に書いてある。俺はただのソフィアで虎でも猫でもないんで、反撃なんてできませんけど!?
「わ、わたし達にはわたし達の手順があると思います!」
具体的な内容は知らないけど、心臓が爆発するような何かをする気なのはわかった。
「でも、殿下とヴァイオレットさまはみんなのお手本ですから、従って然るべきだと思いませんか?」
それとも、と続いた声は初めて聞くような意地悪な音をしていた。
「狼は嫌いですか?」
だ、大好きです……。
口から滑り落ちようと舌に乗った言葉が、
「……タス! ロータス助けて鼻が千切れる!」
急ブレーキをかけた。殿下の声だ。本当に噛みつかれたらしい。何をやってんだか。
ロータスさまの視線が鋭くなる。
「ソフィアさん、ここにいてください。俺は殿下のところへ」
「へ? ちょ、……ロータスさま!?」
行っちゃダメだって!
――察しの悪い男ね。
まったくだ。馬に蹴られに行くようなもんじゃねえか。何やってんだ。
慌てて立ち上がり追いかける。
『ソフィア、こっちこっち。ぼくのヴァイオレットを助けなくっちゃ!』
フィさんが案内を買って出る。妙に嬉しそうというか楽しそうというか。
――あの王子、苦労するわね。
本当にね。あっちこっちに邪魔者がいやがる。まあ、恋愛に試練はつきものだろ。
――言うじゃない。その試練で破滅するって大騒ぎしてたくせに。
お前が女神を締め上げてくれたんだろ。信用してんだから、掘り返すなよ。
右と左、どっちに曲がるか迷っているロータスさまの背が見えた。
「ロータスさま、」
『右だよ右! 曲がってすぐ』
「フィさんっ!」
駆けだしたロータスさまはあっという間に姿を消した。もう間に合わないし、追いつけない。ゆっくり止まって息を整える。
そっと曲がった視線の先、あーあ、と溜め息を吐くロータスさまのさらに向こうで、真っ赤に茹で上がったヴァイオレットさまの甲高い悲鳴が響き渡った。
「痛いっ!」
ついでに、舌を噛まれたらしいテオドールさまの悲鳴も。
――あーあ。
あーあ。背後から追いついてきた複数の足音が、殿下を更なる悲劇へ突き落とす予感を連れてくる。
――これも試練?
試練だろ、殿下にとっては。
――にやけてる。
だって、楽しいだろ。
命の危険があるわけでもない、恋愛のちょっとしたイベントだ。誰も不幸にならない。幸せであることが前提なんだ。こういうイベントなら、大歓迎。
神もシナリオも関係ない。誰の邪魔もさせるもんか。
俺の人生、せいぜいみんなが幸せになれるよう、頑張ってやって行こうじゃねえの。
――助けてあげるわ、約束だもの。
頼りにしてるよ、俺の精霊さん。
「ソフィアさん助けて! 殿下が相手じゃ殴れない!」
「止めるなソフィア嬢! こいつ邪魔しやがって!」
「殿下が助けを求めたんでしょう!?」
取っ組み合いを繰り広げる二人のそば、真っ赤なままぼんやりしているヴァイオレットさまを助けるところから、まずは始めよう。




