五 後片付け
どうして慌てて帰ってしまったのか。ちゃんと挨拶をしてからでも良かったのに。
帰宅してから、親戚──原田のおばさん経由で詫び、この件は終わった。
終わったことにした。
もう会わないだろうし、会えないだろうし、何より巽が乃々香を迎えてくれることはないだろう。
余計なお世話だった。
癒えていない傷に塩を塗り込むようなもの。
土足で踏み荒らすようなもの。
巽は望んでいないのに。
頼まれたからとはいえ、許可は貰ったとはいえ、台所を漁って亡き人が作った食材でおにぎりとジュースを作った。
それを、何も言わずに出されたら──あんな顔もしてしまう。
あんな顔を。
せめてあの時、謝れば良かった。
どうして逃げるように帰ってしまったのか、いくら考えても乃々香自身、自分の行動が分からなかった。
分かるのは、あのまま花野井家に居ても何もできなかったということ。
理由は分からないけれど──あの時は、ああするしかなかった。
荒神様にも失礼なことをしてしまった。
お礼も言わないまま。
でも、終わったことだ、終わったこと。
あれから三日ほど、乃々香の頭の中は堂々巡りをしていた。
終わったことにしても、切り替えるには時間がいる。定期的に思い出してはため息をつく。
それが何日になる頃か。
コンビニでのアルバイトの帰り道。通りかかった四つ角でのこと。この角を曲がれば家につく、という所で。
「ののちゃん」
そう呼び止められた。
乃々香をそう呼ぶのは。
「たっ……巽、先生……」
一人しかいない。
夕日に染まる四つ角で乃々香を待っていたのは、花野井巽その人だった。
「良かった。前に一度、家に行ったことがあるから、大丈夫だろうと思ったんだけど。この辺りも随分変わったんだねえ」
宅地開発が行われたから、昔とは景色が変わっているけれど。
「行ったことがあるって、いつ頃ですか?」
巽が家に来たなど、乃々香は知らない。投げられた問いかけに指折り数えながら記憶を辿っていた。
「はち……いや、十年……と、少しかな」
十年一昔。そのくらい前のこと。
だったら景色も変わってしまう。
いや、いやいや。
そんなことではない。
見れば巽は汗をかいている。
「あの、何時からここに居たんですか?」
今は午後五時過ぎ。
「家を出たのが、一時過ぎだったなあ……」
それから、あの坂を下りて電車に乗って、駅からここまでを歩いて──歩いて、迷って、ここで待っていたのか。
「熱中症になりますよ!」
「あはは。水分は摂ったよ」
そんな呑気に言うけれど、ぼんやりしていると言われる乃々香ですら、巽を見ていると心配になる。
「とりあえず、家に行きましょう」
玄関の引き戸を開ける時からある程度の覚悟はしていたが、案の定。
留守にしていた家の中は、外よりもさらに蒸し暑かった。
「先生、玄関でちょっと涼んでいてください」
ばたばたと家に上がり、居間の空気を入れ替える。昼間のうちに熱せられた空気を追い出し、窓を閉めてエアコンを叩き起こす。
ある程度は冷えたかというところで巽を招いた。
六畳ほどの畳の間。居間と食卓を兼ねている、乃々香の主な居住空間だ。花野井家とはまた違う古い平屋は、元は祖母のもの。そのまま乃々香が引き継ぎ住んでいる。
冷えた麦茶を出す。
ようやく落ち着いたところで、元々の疑問──なぜ巽が乃々香を訪ねてきたのかということに至った。
当の巽は、のんびりと麦茶を飲んで乾いた喉を潤している。
「美味しいねえ。これ、ののちゃんが煮出して作ったの?」
「パックは買ってきてますけれど」
お湯を沸かして麦茶のパックを突っ込むだけ。
それを、巽は偉いねえ、と褒めた。
目的は中々切り出されない。
だったら先に言ったもの勝ち。その方が、乃々香の居心地の悪さが少しは良くなる気がする。
「この前はすみませんでした!」
勢いをつけて頭を下げながら謝った。
「勝手にお台所を漁って、ジュースを作ったりおにぎりを作ったり。奥さまが作ったものを勝手に使って、本当に何とお詫びすれば良いか」
今日までに、何度も心の中で反芻した言葉。だからだろう、詰まることなく一気に言えた。
許してもらえるか、とはまた別の話だけれど。
「えっ、いや、ののちゃん、頭を上げて。僕は何も謝らせるために来たんじゃないよ」
「ですが、先生に断りも入れずに──奥さまが作った大切なものを……」
巽を喜ばせたかった。
笑顔で隠した淋しい雰囲気を消したかった。
だからといって何でも行っていい訳ではない。
いい歳をして、それも分からないなんて。
「僕はね、お礼を言いに来たんだよ」
お礼。
何か礼を言われるようなことをしただろうか。乃々香のしたことは、無為に巽を傷付けるだけではなかったか。
恐る恐る頭を上げる。
「ありがとう。ジュースもおにぎりも、美味しかった」
「それは……奥さまが作ったもの、ですから」
「僕もね、最初はそう思ったんだ」
そして、申し訳なさそうに頭をかく。
「あんな所に収納庫があったんだね。全然知らなかったよ。それで、梅干しを見つけたから自分でも作ってみたんだ。梅おかかを」
「同じように作れたでしょう?」
「それが……」
照れくさそうに申し訳なさそうに語尾を濁して、少しの間。
「できなかったんだよ。醤油が多くて辛くなったり、鰹節が多くなったり。難しいんだねえ。ののちゃんは凄いな」
「いえ、私は──……」
荒神様が横でじっと見守ってくれていたからだ。
乃々香の手柄ではない。決して。
「それに、自由にして良いって言ったのは僕なんだから。ののちゃんが謝ることではないよ」
眼鏡の奥の瞳は、少しも怒っていなかった。
「むしろ、僕の方こそ急に手を掴んだりして──怖かったろう」
「いえ、怖くなんてありません、そんな」
急に帰ったのは、怖がったからに見られていたのか。
「本当に、怖がってとかじゃないので……」
誤解を解くべく、懸命に首を振って否定する。
「そうか。良かったあ……」
「私も、誤解されるようなことをしてすみません」
「……良かった。誤解なら、ひとつお願いがあるんだ」
続いたのは、申し訳無さそうな声。
「お願いですか?」
「……僕の我儘なのは承知している。ののちゃんも暇じゃないんだ。だから、きっちりと報酬は支払うつもりだ」
「いえ、先生、お願いというのは──」
「ああ、そうだった……」
そうして。今度は巽が頭を下げる。
「ののちゃんの暇な時で構わない。また、家に来て料理を作って欲しい」
ぽかんと口を開いたま、乃々香は何も返せない。
「繭子の梅おかかを作る、ののちゃんの料理が……食べてみたいと思ったんだ」
「私の……?」
巽はしっかりと頷く。
「ののちゃんが良いんだ」
くすぐったい。
長いこと忘れていた、作ったものを誰かに食べてもらう喜び。美味しい、と言ってもらえる嬉しさ。また作って欲しいと言われる栄誉。
こんなに、ほこほこと胸が暖かくなるものだったか。
「ご希望に添えるかは分かりませんが……この前買った食材は、責任を持って調理します」
休みは四日後。
これが最後になるだろうけれど、買った食材の責任はきっちりと持たなければ。
朝一番で家を出て、花野井家を訪ねた、約束の日。
どんな風に料理をしているのか見たいという巽を追い出し、台所にこもった。
『お嬢さん。あの日はどうしたかと思ったが──大事はないようで安心した』
「ご心配をおかけしました……」
そう。
荒神様にも謝っておきたかったのだ。神様を相手に失礼が過ぎる。
『いや。わたしも振り回して申し訳ないと思っていたから、こうして顔が見られて安心したよ』
この神様は。
乃々香が言い出したことに付き合ったのだから、もっと尊大にしていても良いだろうに。
『今日は、また料理に来たのか?』
今日の目的は、これだ。
巽に頼まれて引き受けてから、どうしようかと考えた。
乃々香の料理が食べたいとは言ったが、あれは言葉そのままの意味ではないことくらい分かる。
巽は、乃々香が作った繭子の味の料理が食べたいのだ。
頼めるのは他に誰もいない。両手を合わせて、頭を下げる。
「荒神様! お願いです!」
困った時の神頼みとはこのこと。神社に祀られている神様なら頼まれ慣れているだろうけれど、荒神様はそうではない。乃々香の行動にうろたえる。
『ど……どうした? どうして頭を下げる』
「これから料理を作るので、奥さまがどんな風に味付けしていたか、横から教えてください」
この台所で繭子を見守っていた荒神様。醤油の量。砂糖の具合。巽が好きな食べ方。それを全て知っている。
『この前、あれが梅おかかを作っていたが──なるほど』
巽が一人で四苦八苦している姿も見ていたのだ。
『あれが何か食べたいと思うようになったのは、前進だな』
台の上に買っていた食材を並べて、元々作るつもりだったものを伝える。
きんぴらごぼう。かぼちゃの鶏そぼろ煮。鶏ハム。高野豆腐。煮玉子。
『かぼちゃの鶏そぼろ煮は却下だな』
「えっ」
『あれはな、かぼちゃの煮物は食べない』
「かぼちゃ、お嫌いなんですか?」
『いや、これが妙なことにスープにすると食べる』
「煮物も美味しいんですけれどね」
『わたしも煮物の香りが好きなのだがな』
買い足しに、玉ねぎ。
『後は、煮玉子よりも厚焼き玉子がいい』
「日持ちしませんよ」
『今日の夜にでも食べる』
ただ、全てを厚焼き玉子にするのは多いので、鶏肉と玉子で甘辛煮に。
横からそうやってアドバイスを貰いながら、ようやく完成にこぎつける。
きんぴらごぼう。ごまは入れないこと。一味唐辛子はひとふり、ふたふり。
厚焼き玉子。入れるのは、砂糖。
高野豆腐。甘いだしをたっぷり吸わせる。
かぼちゃのスープ。かぼちゃはスープならばいくらでも食べる。
鶏肉と玉子の甘辛煮。繭子は時々しか作らなかったから、食べるかどうかは気分次第。
タッパーに詰めたもの、皿に乗せたもの。台の上は彩りに満ちている。
「先生、できました!」
それを待っていたかのように覗きに来た巽は、厚焼き玉子の端をつまんで味見をする。
「……」
何かを言おうとして、言葉を飲み込む。その飲み込んだ言葉は分かっていたから、乃々香から訊ねた。
「奥さまの味に、少しは近かったでしょうか」
図星を突かれた巽は、厚焼き玉子が喉に詰まったのか胸を叩いた。振りかどうかは分からない。
眼鏡を外し腕で目元を拭っていた。その涙は懐かしい味にか、それとも本当に苦しかったのか。ただ、かすかに──頷いた。
全部飲み込んでしまってから、巽が口にしたのは。
「ののちゃん。良かったら──また、来てくれないかな」
そんなお願いだった。
台所の片付けの時、荒神様に訊ねられた。
『お嬢さんの名前を聞いていなかったな』
きた。きてしまった。
乃々香は自分の名前が好きになれなかった。小学生の頃から、周りに笑われてばかりで。
「野々宮乃々香です。の、ばかりの変な名前でしょう」
いつも言われていた。名字と名前のバランスなど一切考えられていない名前。名前をつけることも面倒だったに違いない。
「……父が、適当に付けたものですから。こう、いう……字の、のの、に香る、で乃々香」
泡がついた手で、空中に字を書く。乃々香、と。
『良い名だよ』
名前を褒められるとは思っていなかった。
『芳しい香りのする子。──しっかりと考えて付けられた名だ、乃々香』
「──……」
良い名前。世辞などではなく、本当にそう思ってくれた。
初めてのことで、こんな時はどうすればいいのか。
「あ……ありがとう、ございます……」
照れながら礼を言うと、荒神様は笑って頷いてくれた。
片付けを終えて、タオルで手を拭く。今日の仕事はこれで終わり。
巽からのお願いには、帰りまでに考えると伝えた。シンクをピカピカに磨いて、来た時よりも綺麗になるまで考えた。
乃々香は、できればまた来たいと思う。
それには欠かせない協力が必要なのだ。
ならば意を決して頼むしかない。
「あの、荒神様」
『また教えてくれ、だろう?』
「……はい」
『教える代わりに、荒神様と呼ぶのは止めにしてはくれないか』
「でも」
『奥方があれの相棒なら、わたしは乃々香の相棒だ。相棒なら、相棒らしく呼んでもらわなければ』
荒神様、ではどこの家の荒神様ともまとめられてしまう。相棒らしく、ならば──名を呼べばいいのか。
「荒神様のお名前は?」
『名はない。だから、乃々香が付けてくれないか?』
「神様の名前を?」
そんな、恐れ多い。
『何でも構わない』
神様の名を何でも適当にとはいかない。
あれこれと懸命に考える。
花野井家の台所をずっと──繭子が亡くなっても守ってきた神様。これからも、守ってくれる神様。末永く。
「……常磐さま」
永久不変なもの。永く、この家を守る神様。
『常磐、か』
荒神様は──そう呟いて口元を押さえる。顔をそらしてしまったから、どんな顔をしているかは分からなかった。
ただ、気に入ってもらえたことは分かった。
『──……名を貰うのは、良いものだな』
そう言ってくれたのだから。
こうして。
この日から花野井さんちの台所は、少しだけ昔の活気を取り戻したのだ。