表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

五 後片付け

 どうして慌てて帰ってしまったのか。ちゃんと挨拶をしてからでも良かったのに。

 帰宅してから、親戚──原田のおばさん経由で詫び、この件は終わった。

 終わったことにした。

 もう会わないだろうし、会えないだろうし、何より巽が乃々香を迎えてくれることはないだろう。


 余計なお世話だった。

 癒えていない傷に塩を塗り込むようなもの。

 土足で踏み荒らすようなもの。

 巽は望んでいないのに。

 頼まれたからとはいえ、許可は貰ったとはいえ、台所を漁って亡き人が作った食材でおにぎりとジュースを作った。

 それを、何も言わずに出されたら──あんな顔もしてしまう。

 あんな顔を。

 せめてあの時、謝れば良かった。

 どうして逃げるように帰ってしまったのか、いくら考えても乃々香自身、自分の行動が分からなかった。

 分かるのは、あのまま花野井家に居ても何もできなかったということ。

 理由は分からないけれど──あの時は、ああするしかなかった。

 荒神様にも失礼なことをしてしまった。

 お礼も言わないまま。

 でも、終わったことだ、終わったこと。

 あれから三日ほど、乃々香の頭の中は堂々巡りをしていた。


 終わったことにしても、切り替えるには時間がいる。定期的に思い出してはため息をつく。

 それが何日になる頃か。

 コンビニでのアルバイトの帰り道。通りかかった四つ角でのこと。この角を曲がれば家につく、という所で。

「ののちゃん」

 そう呼び止められた。

 乃々香をそう呼ぶのは。

「たっ……巽、先生……」

 一人しかいない。

 夕日に染まる四つ角で乃々香を待っていたのは、花野井巽その人だった。

「良かった。前に一度、家に行ったことがあるから、大丈夫だろうと思ったんだけど。この辺りも随分変わったんだねえ」

 宅地開発が行われたから、昔とは景色が変わっているけれど。

「行ったことがあるって、いつ頃ですか?」

 巽が家に来たなど、乃々香は知らない。投げられた問いかけに指折り数えながら記憶を辿っていた。

「はち……いや、十年……と、少しかな」

 十年一昔。そのくらい前のこと。

 だったら景色も変わってしまう。

 いや、いやいや。

 そんなことではない。

 見れば巽は汗をかいている。

「あの、何時からここに居たんですか?」

 今は午後五時過ぎ。

「家を出たのが、一時過ぎだったなあ……」

 それから、あの坂を下りて電車に乗って、駅からここまでを歩いて──歩いて、迷って、ここで待っていたのか。

「熱中症になりますよ!」

「あはは。水分は摂ったよ」

 そんな呑気に言うけれど、ぼんやりしていると言われる乃々香ですら、巽を見ていると心配になる。

「とりあえず、家に行きましょう」



 玄関の引き戸を開ける時からある程度の覚悟はしていたが、案の定。

 留守にしていた家の中は、外よりもさらに蒸し暑かった。

「先生、玄関でちょっと涼んでいてください」

 ばたばたと家に上がり、居間の空気を入れ替える。昼間のうちに熱せられた空気を追い出し、窓を閉めてエアコンを叩き起こす。

 ある程度は冷えたかというところで巽を招いた。

 六畳ほどの畳の間。居間と食卓を兼ねている、乃々香の主な居住空間だ。花野井家とはまた違う古い平屋は、元は祖母のもの。そのまま乃々香が引き継ぎ住んでいる。

 冷えた麦茶を出す。

 ようやく落ち着いたところで、元々の疑問──なぜ巽が乃々香を訪ねてきたのかということに至った。

 当の巽は、のんびりと麦茶を飲んで乾いた喉を潤している。

「美味しいねえ。これ、ののちゃんが煮出して作ったの?」

「パックは買ってきてますけれど」

 お湯を沸かして麦茶のパックを突っ込むだけ。

 それを、巽は偉いねえ、と褒めた。

 目的は中々切り出されない。

 だったら先に言ったもの勝ち。その方が、乃々香の居心地の悪さが少しは良くなる気がする。

「この前はすみませんでした!」

 勢いをつけて頭を下げながら謝った。

「勝手にお台所を漁って、ジュースを作ったりおにぎりを作ったり。奥さまが作ったものを勝手に使って、本当に何とお詫びすれば良いか」

 今日までに、何度も心の中で反芻した言葉。だからだろう、詰まることなく一気に言えた。

 許してもらえるか、とはまた別の話だけれど。

「えっ、いや、ののちゃん、頭を上げて。僕は何も謝らせるために来たんじゃないよ」

「ですが、先生に断りも入れずに──奥さまが作った大切なものを……」

 巽を喜ばせたかった。

 笑顔で隠した淋しい雰囲気を消したかった。

 だからといって何でも行っていい訳ではない。

 いい歳をして、それも分からないなんて。

「僕はね、お礼を言いに来たんだよ」

 お礼。

 何か礼を言われるようなことをしただろうか。乃々香のしたことは、無為に巽を傷付けるだけではなかったか。

 恐る恐る頭を上げる。

「ありがとう。ジュースもおにぎりも、美味しかった」

「それは……奥さまが作ったもの、ですから」

「僕もね、最初はそう思ったんだ」

 そして、申し訳なさそうに頭をかく。

「あんな所に収納庫があったんだね。全然知らなかったよ。それで、梅干しを見つけたから自分でも作ってみたんだ。梅おかかを」

「同じように作れたでしょう?」

「それが……」

 照れくさそうに申し訳なさそうに語尾を濁して、少しの間。

「できなかったんだよ。醤油が多くて辛くなったり、鰹節が多くなったり。難しいんだねえ。ののちゃんは凄いな」

「いえ、私は──……」

 荒神様が横でじっと見守ってくれていたからだ。

 乃々香の手柄ではない。決して。

「それに、自由にして良いって言ったのは僕なんだから。ののちゃんが謝ることではないよ」

 眼鏡の奥の瞳は、少しも怒っていなかった。

「むしろ、僕の方こそ急に手を掴んだりして──怖かったろう」

「いえ、怖くなんてありません、そんな」

 急に帰ったのは、怖がったからに見られていたのか。

「本当に、怖がってとかじゃないので……」

 誤解を解くべく、懸命に首を振って否定する。

「そうか。良かったあ……」

「私も、誤解されるようなことをしてすみません」

「……良かった。誤解なら、ひとつお願いがあるんだ」

 続いたのは、申し訳無さそうな声。

「お願いですか?」

「……僕の我儘なのは承知している。ののちゃんも暇じゃないんだ。だから、きっちりと報酬は支払うつもりだ」

「いえ、先生、お願いというのは──」

「ああ、そうだった……」

 そうして。今度は巽が頭を下げる。

「ののちゃんの暇な時で構わない。また、家に来て料理を作って欲しい」

 ぽかんと口を開いたま、乃々香は何も返せない。

「繭子の梅おかかを作る、ののちゃんの料理が……食べてみたいと思ったんだ」

「私の……?」

 巽はしっかりと頷く。

「ののちゃんが良いんだ」

 くすぐったい。

 長いこと忘れていた、作ったものを誰かに食べてもらう喜び。美味しい、と言ってもらえる嬉しさ。また作って欲しいと言われる栄誉。

 こんなに、ほこほこと胸が暖かくなるものだったか。

「ご希望に添えるかは分かりませんが……この前買った食材は、責任を持って調理します」

 休みは四日後。

 これが最後になるだろうけれど、買った食材の責任はきっちりと持たなければ。



 朝一番で家を出て、花野井家を訪ねた、約束の日。

 どんな風に料理をしているのか見たいという巽を追い出し、台所にこもった。

『お嬢さん。あの日はどうしたかと思ったが──大事はないようで安心した』

「ご心配をおかけしました……」

 そう。

 荒神様にも謝っておきたかったのだ。神様を相手に失礼が過ぎる。

『いや。わたしも振り回して申し訳ないと思っていたから、こうして顔が見られて安心したよ』

 この神様は。

 乃々香が言い出したことに付き合ったのだから、もっと尊大にしていても良いだろうに。

『今日は、また料理に来たのか?』

 今日の目的は、これだ。

 巽に頼まれて引き受けてから、どうしようかと考えた。

 乃々香の料理が食べたいとは言ったが、あれは言葉そのままの意味ではないことくらい分かる。

 巽は、乃々香が作った()()()()の料理が食べたいのだ。

 頼めるのは他に誰もいない。両手を合わせて、頭を下げる。

「荒神様! お願いです!」

 困った時の神頼みとはこのこと。神社に祀られている神様なら頼まれ慣れているだろうけれど、荒神様はそうではない。乃々香の行動にうろたえる。

『ど……どうした? どうして頭を下げる』

「これから料理を作るので、奥さまがどんな風に味付けしていたか、横から教えてください」

 この台所で繭子を見守っていた荒神様。醤油の量。砂糖の具合。巽が好きな食べ方。それを全て知っている。

『この前、()()が梅おかかを作っていたが──なるほど』

 巽が一人で四苦八苦している姿も見ていたのだ。

『あれが何か食べたいと思うようになったのは、前進だな』


 台の上に買っていた食材を並べて、元々作るつもりだったものを伝える。

 きんぴらごぼう。かぼちゃの鶏そぼろ煮。鶏ハム。高野豆腐。煮玉子。

『かぼちゃの鶏そぼろ煮は却下だな』

「えっ」

()()はな、かぼちゃの煮物は食べない』

「かぼちゃ、お嫌いなんですか?」

『いや、これが妙なことにスープにすると食べる』

「煮物も美味しいんですけれどね」

『わたしも煮物の香りが好きなのだがな』

 買い足しに、玉ねぎ。

『後は、煮玉子よりも厚焼き玉子がいい』

「日持ちしませんよ」

『今日の夜にでも食べる』

 ただ、全てを厚焼き玉子にするのは多いので、鶏肉と玉子で甘辛煮に。

 横からそうやってアドバイスを貰いながら、ようやく完成にこぎつける。


 きんぴらごぼう。ごまは入れないこと。一味唐辛子はひとふり、ふたふり。

 厚焼き玉子。入れるのは、砂糖。

 高野豆腐。甘いだしをたっぷり吸わせる。

 かぼちゃのスープ。かぼちゃはスープならばいくらでも食べる。

 鶏肉と玉子の甘辛煮。繭子は時々しか作らなかったから、食べるかどうかは気分次第。

 タッパーに詰めたもの、皿に乗せたもの。台の上は彩りに満ちている。

「先生、できました!」

 それを待っていたかのように覗きに来た巽は、厚焼き玉子の端をつまんで味見をする。

「……」

 何かを言おうとして、言葉を飲み込む。その飲み込んだ言葉は分かっていたから、乃々香から訊ねた。

「奥さまの味に、少しは近かったでしょうか」

 図星を突かれた巽は、厚焼き玉子が喉に詰まったのか胸を叩いた。振りかどうかは分からない。

 眼鏡を外し腕で目元を拭っていた。その涙は懐かしい味にか、それとも本当に苦しかったのか。ただ、かすかに──頷いた。

 全部飲み込んでしまってから、巽が口にしたのは。

「ののちゃん。良かったら──また、来てくれないかな」

 そんなお願いだった。



 台所の片付けの時、荒神様に訊ねられた。

『お嬢さんの名前を聞いていなかったな』

 きた。きてしまった。

 乃々香は自分の名前が好きになれなかった。小学生の頃から、周りに笑われてばかりで。

「野々宮乃々香です。の、ばかりの変な名前でしょう」

 いつも言われていた。名字と名前のバランスなど一切考えられていない名前。名前をつけることも面倒だったに違いない。

「……父が、適当に付けたものですから。こう、いう……字の、のの、に香る、で乃々香」

 泡がついた手で、空中に字を書く。乃々香、と。

『良い名だよ』

 名前を褒められるとは思っていなかった。

『芳しい香りのする子。──しっかりと考えて付けられた名だ、乃々香』

「──……」

 良い名前。世辞などではなく、本当にそう思ってくれた。

 初めてのことで、こんな時はどうすればいいのか。

「あ……ありがとう、ございます……」

 照れながら礼を言うと、荒神様は笑って頷いてくれた。


 片付けを終えて、タオルで手を拭く。今日の仕事はこれで終わり。

 巽からのお願いには、帰りまでに考えると伝えた。シンクをピカピカに磨いて、来た時よりも綺麗になるまで考えた。

 乃々香は、できればまた来たいと思う。

 それには欠かせない協力が必要なのだ。

 ならば意を決して頼むしかない。

「あの、荒神様」

『また教えてくれ、だろう?』

「……はい」

『教える代わりに、荒神様と呼ぶのは止めにしてはくれないか』

「でも」

『奥方が()()の相棒なら、わたしは乃々香の相棒だ。相棒なら、相棒らしく呼んでもらわなければ』

 荒神様、ではどこの家の荒神様ともまとめられてしまう。相棒らしく、ならば──名を呼べばいいのか。

「荒神様のお名前は?」

『名はない。だから、乃々香が付けてくれないか?』

「神様の名前を?」

 そんな、恐れ多い。

『何でも構わない』

 神様の名を何でも適当にとはいかない。

 あれこれと懸命に考える。

 花野井家の台所をずっと──繭子が亡くなっても守ってきた神様。これからも、守ってくれる神様。末永く。

「……常磐さま」

 永久不変なもの。永く、この家を守る神様。

『常磐、か』

 荒神様は──そう呟いて口元を押さえる。顔をそらしてしまったから、どんな顔をしているかは分からなかった。

 ただ、気に入ってもらえたことは分かった。

『──……名を貰うのは、良いものだな』

 そう言ってくれたのだから。


 こうして。

 この日から花野井さんちの台所は、少しだけ昔の活気を取り戻したのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ