序 最悪の初夜
その夜、大勢の侍女の手によって湯浴みをした私はベッドの端に座り、ノックもなく無遠慮に開けられたドアを凝視していた。
扉の前には黒髪の美しい青年――エルヴィス・グリセーズが立っている。御年二十一の皇帝陛下だ。
濡れたカラスの羽のような黒髪から、野生の獣を思わせる金色の瞳が覗いているが、花嫁に対して不機嫌さを隠そうともしていない。
かっちりとした軍服を着込んだ姿は隙がなく、まるで鉄の鎧で自分を守っているかのようだ。
冷徹に魔獣を屠っていく姿から、彼は「金の氷帝」と呼ばれ恐れられている。
でも私としては怯えよりも不快よりも、ただただ「なぜ?」という疑問だけが頭に浮かんでいた。
(ど、どうして? なぜここに来たの?)
一応、理由は分かっているつもりだ。
今日は私とグリセーズ帝国の皇帝エルヴィスの結婚式だった。だから今夜は二人にとって初夜というわけだ。
なんでも大昔の約束で、アシュロム神聖国の巫女姫はグリセーズ帝国へ嫁ぐことが決まっていたらしい。
私はある理由から姉シェイラの身代わりとなってこの国へ嫁いできたから、今の私は『シェイラ・アシュロム』なのだ。
問題はそこだった。
(あなたは『シェイラ』が大嫌いなはずでしょう……!?)
姉とエルヴィスには何か因縁があるようで、私が帝国へ発つ前、シェイラは冷たい声でこう言った。
『安心なさい、ティナ。あの男は私を大いに嫌っているから、手を出したりはしないはずよ。お飾りの妻になるのは間違いないわ。まあ私とあなたじゃ見た目は同じでも、巫女姫としての格が違うけれどね』
私の荒れた手を見ながら自信ありげに言ったので、すっかり安心しきっていた。
たとえ初夜だろうと、エルヴィスはシェイラに何もしないはず。間違っても本物の夫婦になったりはしないだろうと。
(だから身代わりになっても、大丈夫だと思ったのに……もしかして騙された?)
背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
エルヴィスはドアを閉めると、その位置で私を見つめながら吐き捨てるように言った。
「勘違いするなよ。たとえ初夜だろうと、お前のような毒婦を本当の妻にする気はない。それを伝えに来ただけだ」
私と『そういう事』をする気はないらしい。
心底ホッとして、思わず微笑んでしまった。
「そうですよね! よかった、安心しました」
エルヴィスの眉がぴくりと震え、鋭い目がすっと訝しげに細められる。
そのまま部屋から出て行くかと思ったのに、彼はなぜか足先を私の方へ向けた。
「お前、本当にシェイラか? あの女がそんな目で笑うはずがないんだが」
そう言いながらつかつかと私の方へ歩いてくる。緊張が高まり、私は思わず手を握りしめた。
(私の演技はそんなに下手だった? 精一杯の嫌味を言ったつもりだったのに……。どうしよう、失敗しちゃった?)
シェイラと彼がどんな関係だったか、詳しい事はよく知らない。
仲が悪いことだけは教えられたから、適当に相槌を打っておけばいいだろうと思っていた。
そもそも肉親とはいえ、シェイラと私は生まれてから十八年もの間、離れて別々に暮らしてきたのだ。
「姉の身代わりとなれ」と命令されたが、よく知りもしない人間になりきれるはずがない。
内心ハラハラしつつ、顔に無理やり笑みを貼り付けた。
「まあ旦那様。夫に笑いかけるくらいのお芝居、私にだってできますわ。たとえ形だけの夫婦でもね」
とうとう彼が私のすぐ前まで来て、ギラギラと光る金の瞳で見下ろされる。
(どういう言い方をすれば、あなたは満足なの? 私だってシェイラになりきってるつもりなのに……)
私も負けじとエメラルド色の瞳で彼を睨み返しながら、ふとある事に気づいて首を傾げた。
(あれ? なんだか顔色が悪い……?)
結婚式ではヴェール越しだった上に、指輪の交換だけで終わったから、エルヴィスの顔はよく見えなかった。
でも今、私を見下ろす彼の顔色は青白く、目元にはうっすらとクマがある。
しばらく見つめ合っていたけど、急に腕を握られて私はびくりと体を揺らした。ぐん、と体が後ろに引っ張られて、気づいた時には押し倒されていた。
白いシーツに紫色の髪が広がる。
「何するの!?」
「その目……どうも違和感がある。本物のシェイラなら神力で抵抗してみせろ」
「は、はなして!」
じたばたともがきながら、私は彼の行動に、ある意味で納得していた。
(そうか、彼は私に巫女としての力があるかどうかを気にしてるんだわ。シェイラが彼との結婚を嫌がって、よく似た赤の他人を用意したと勘違いしてるのね。それは分かったけど……!)
もがいても抑えられた両手首はびくともしない。
そうして暴れている内に、エルヴィスのやたら整った顔がゆっくりと近づいて来て、私はひっと息を呑んだ。
(まさかキスする気!?)
冗談じゃない。
せっかく結婚式でのキスを回避できてホッとしていたのに、私の初めてが、こんな場所でこんな男に奪われるなんて。
「いやっ……!」
二人の唇が触れる直前、私とエルヴィスの間にバチッと白い光が弾けた。
エルヴィスが驚いたように体を起こし、目を丸くして私を見ている。
「確かに神力は持っているようだな」
呟くように言ってベッドから下り、ぶるぶると震える私に毛布を掛けた。
「疑って悪かったな。ゆっくり休め」
大嫌いなシェイラ相手にしては、かなり優しげな口調だった。
でもそんなもので私の緊張が解けるはずもない。
毛布の中でガチガチに固まっている間に、エルヴィスは部屋から出て行った。
足音が遠ざかり、再び部屋に静寂が訪れる。
さらに数分経ってから、ようやく私の強張りは解けた。
「何がゆっくり休め、よ!」
大声で叫び、枕を拳で殴る。
夫に襲われかけたのに、ゆっくり休める妻がいるだろうか。
しかもお互いに不仲だと理解している前提がありながら、襲われかけたのだ。
(また同じような事が起きるかもしれない。このままじゃ安心して眠れないわ。疲れているのに……)
実の姉とはいえ、シェイラは私にとってほぼ他人だ。
ほとんど知らない人間になりきって過ごすのは、予想以上に大きな心労となって私を蝕んでいた。
せめて夜ぐらいは一人きりでゆっくりと寝たい。
何かないかと部屋を見渡せば、壁に沿って置かれたチェストが視界に映った。
高さは私の太ももくらいで、大きいとは言えないけど、動かしてみるとそれなりに重さがある。
それを必死の思いでドアの前まで移動させて、もう誰も入ってこれないようにした。
「お、重いっ……! でもこれで安心できるわ」
時刻はすでに深夜に近く、私は疲れ切っていた。
ふらふらとベッドに上がり、毛布を被って目を閉じる。
(ハンス……必ず三ヶ月で帰るから、どうかそれまで無事でいてね)
祖国に残してきた大切な人を思い浮かべている内に、私は眠りに落ちていった。
新連載です。
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