家族旅行の始まり
まだ夜も明け切らない早朝。
伊吹は紫乃を筆頭とする秘書達、儀礼指南役である式部教子 らに見送られ、藍吹伊通り一丁目を車で出発した。
美哉と橘香との結婚式を挙げるべく、実家へ向かう新幹線に乗る為だ。
新幹線が通常運行している時間帯だと、運行予定を調整したり駅周辺の警備をしたりと大変なので、出発の際のみ早朝を指定していた。
「咲哉も伊月もチャイルドシートを嫌がらないから助かるな」
「お利口さん」
「可愛い」
伊吹の乗る車には、執事である智紗世、美哉と橘香、咲哉と伊月、そして藍子が同乗している。
皇宮からは道中の車も新幹線も、万が一の為に伊吹と伊月、そして藍子の乗る車両を分けるようにとかなりしつこくお願いされていたのだが、万が一がないようにお願いしますねと伊吹がはねつけていた。
また、咲哉と伊月はチャイルドシートに慣れさせるという名目で、藍吹伊通り一丁目を伊吹の運転で何度もドライブに連れて行っていた。
今は早朝なので寝ているが、その時は二人共ご機嫌さんで外の景色を楽しんでいた。
「何か違和感があったらすぐに言ってね」
「うん、分かってる。ありがとう」
藍子はスヤスヤと眠っている咲哉と伊月を眺め、自らの大きなお腹を優しく撫でていた。
智紗世はこれからの日程を確認すべく、スマートフォンを操作している。
「智紗世もだからね?」
「はい、ありがとうございます」
智紗世は伊吹や藍子達の気遣うような視線を受けて、スマートフォンを鞄へ仕舞った。
◇
東京駅に着き、伊吹達は素早く車から降りて皇宮警察の案内に従って移動する。
「えっ、伊吹殿下!?」
「うそ、本物!?」
「伊月様もいらっしゃるわ!」
「何と尊いお姿なのかしらっ!!」
「大きな声出さないで、起こしちゃうっ」
通常運行が始まる前とは言え、始発の新幹線に乗る予定の者達はすでに駅に到着している。
伊吹はこちらに気付いた人達に向けて、微笑みながら口元に右手人差し指を当てて見せる。
そして左手を振って応え、立ち止まらずその場を離れた。
新幹線のホームへ向かう前に、全員が揃うまで駅の特別応接室で待機となる。
「此度の旅が、殿下方にとって素晴らしいものになりますよう、お祈り申し上げます」
「ありがとうございます。
早朝にも関わらず、ご対応頂き感謝致します」
伊吹が駅長からの挨拶を受けている間に、伊吹とは別の車に乗っていた燈子や、医師の涼香、看護師の杏奈、その他侍女や警備員達などが続々と新幹線に乗り込んで行く。
「予定時間通り、乗り込みが完了致しました」
智紗世の妹であり、今回の旅から正式に伊吹の執事となった智佳が、伊吹を呼びに来た。
後ろに付いていた麻智子が智紗世の鞄を受け取る。
美子が咲哉を、京香が伊月を抱き上げる。
二人の乳母である紅葉と雪羽は、それぞれ伊吹と自分の娘である美紅、雪橘を抱いている。
「さて、結婚式兼家族旅行に出発だ」
伊吹は左手で美哉と、右手で橘香と手を繋ぎ、新幹線へと乗り込んだ。
旅の始まりだが、まだ時間は早朝。日の出すらしていない。
伊吹の乗る特等車両には生後半年も経っていない赤子から、三時間ごとに子供に母乳をやる母親、出産間近の妊婦、妊娠間もない妊婦などが集まっているので、ほとんどの者が眠っている。
「ちょっとトイレ行ってきます」
そう言って立ち上がり、伊吹は付いて来ようとする美子らを押し留め、一人でトイレへと向かった。
自動ドアを抜けると、伊吹が知らないご高齢……、年かさ……、ベテランの侍女が待機していた。
「おはようございます」
伊吹の挨拶を受けて、ベテラン侍女は深く頭を下げてみせた。
警備は万全であり、治も見守ってくれているので、伊吹は特に気にせずトイレへと入った。
トイレを出ると、頭を下げたままのベテラン侍女が、伊吹へと声を掛ける。
「殿下。我が主、武三とお会い頂けませんでしょうか?
殿下の奥方様や御子らがおられる場所へ赴くのが憚られまして、大変恐縮ではございますがご足労願えますと非常にありがたく存じます」
「あぁ、武三さんの侍女さんでしたか。
ぜひ武三さんにご挨拶させて下さい」
伊吹の返事を受けて、ベテラン侍女が伊吹を武三の元まで案内する。
武三は伊吹の乗る車両の一つ前の車両におり、すぐに顔を合わす事が出来た。
武三は伊吹の接近にすぐに気付き、立ち上がって頭を下げて待機している。
「おはようございます、武三さん。
前回も今回も、大変お世話になりまして、本当にありがとうございます」
「お気になさらず。
これが私めの務めなりますれば」
伊吹はこの世界の男性とのお付き合いが決して多い方ではない。
しかし、純粋なこの世界の男性である賢一や賢章と態度が違い過ぎて、武三とどう接して良いか分からなくなってしまった。
「えっと、お隣に座っても?」
「……はっ」
武三の返事が一瞬遅れた。
座席が向かい合わせにされており、武三は進行方向に対して反対、後ろ向きの席の隣に立って待っていた。
伊吹に進行方向側の席、上座を譲って相対して座るつもりだった事にようやく気付く伊吹だが、もう隣に座ると言ってしまったので、気まずく思いながらも武三の隣へと座る。
「武三さんには、これから折に触れて度々お世話になる事になりますね。
前回と今回の結婚式しかり、来月の藍子との子供の誕生しかり」
伊吹が前回武三と会ったのは、咲哉と伊月のお宮参りの際だ。
「我が一族の使命はいと尊き方々の安寧を祈る事なれば、礼など不要にございます」
武三は背筋をすっと伸ばし、遠くを見つめるかのような表情で伊吹に答える。
(どうしよう……、ほなサイナラって訳にはいかないよな……)
迷った末に、伊吹は本音で話す事にした。
武三の皇族を敬う心が本物であれば、多少の失礼をしたところで水に流してくれるだろうから、甘えさせてもらおうと思ったのだ。
「ご存じかと思いますが、僕には前世の記憶があります」
「はっ」
「前世は男女比一対一の世界で、僕は一般家庭で育ったんです。
ですので、こうして人生の先輩から、いと尊きお方として接して頂くと、何だかとっても恐縮してしまうんですよね。
つい一年前まで自分がそんな生まれだとは知らなかったのもあり、どう振る舞って良いのか分からないんですよ」
「それでよろしいかと存じます」
武三は、伊吹の告白に対して間を置かずに返答した。
伊吹はそれが武三の本心からなのか、それとも皇太子の子息に向けた無責任な全肯定なのか、判断が付かなかった。
「……本当に良いんでしょうか?」
そう問い掛けた伊吹に対し、武三が目を見つめ返して来た。
「殿下は、相手を良く見ていらっしゃる。
男だから、皇族だからと、傲慢な態度を取られるお方ではございません。
殿下は男だからではなく、その心根がおありだからこそ国民から支持を受けておられるのです。
ご自身の中に持っておられる、前世での価値観を大切になさって下さい」
武三の言葉を聞いて、それが武三の本心なのだと伊吹は理解した。
「であれば、もうちょっとその堅苦しい態度を和らげてもらえませんか?
僕の前だけで良いので」
困った表情でそう告げた伊吹に対し、武三は破顔した。
「ほっほっほっ。長年生きている私でも、出来る事と出来ぬ事がございますぞ」
それを武三なりの軽口だと捉えた伊吹。
これを機会にと、その後も伊吹は武三との語り合いを楽しんだ。




