(2)
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黎宇晨の朝は早い。
日が出る卯の刻(午前五時)よりずっと前に起床し、軽く身体を動かした後、顔を洗って身支度を整える。祠堂に向かい、先祖と父の位牌に拝礼した後で、室内と庭と門前を掃除する。
黎家は広い。かつて将軍職を務めた父が陛下より賜った邸宅であり、中庭を取り囲むように細長い建物が四角形に配置された、この国では主流の四合院という様式のものだ。
かつてこの邸宅には、宇晨の家族や使用人達を含め十数人が暮らしており、朝から賑やかだったものだ。
部屋を出れば、中庭を掃除している老齢の使用人が宇晨に挨拶をしてくれた。
厨からは朝餉の支度をする音と湯気が漂ってきて、料理好きの母と女中が談笑する声が聞こえてくる。
厳格な祖母はすでに身なりを綺麗に整えて、長年仕える侍女を傍らに中庭の東屋でお茶を淹れていた。
妹の部屋には若い女中が向かい、寝起きの悪い妹を宥めて起こす声がここまで届いてきた。
そして、中庭で白打(武器を持たず素手で行う武術、拳法)の鍛錬をしていた引き締まった体躯の男性がこちらを振り向く。
『宇晨、一緒に稽古するか』
普段は厳しく吊り上がった目が、宇晨を見て柔らかく細められる。
宇晨の細面の顔は母親似だが、黒々と輝く凛々しい目は父親によく似ていると言われていた。
『はい、父上!』
脳裏を過ぎる幸せだった日の光景は、瞬きをしたことで、がらんとした殺風景な庭の景色にとって代わる。冷たい空気に、静寂がいっそう染みるようだった。
「……」
明るくなってきた空の下、宇晨はふっと息を吐き、誰もいない中庭の掃除をいつものように始めた。
朝の屋台で粥と油條(揚げパン)を食べた後、宇晨はいつも通りに耀天府に赴いた。
他の班の長に挨拶して一日の予定を打合せ、府尹である孟開や上官達に各々が受け持っている事案の経過報告を行った後、それぞれの任務に着く。
耀天府では、事件の捜査を行う班は大きく四つに分かれ、そのうちの一班は必ず府内に待機して緊急の案件に備えるようになっており、今日は宇晨の班が当番であった。
溜まった報告書をまとめたり、道具の手入れや補充をしたり、訓練場で鍛錬したりと比較的穏やかに時間が過ぎる中、宇晨は下男に声を掛けられる。徐推官が呼んでいるそうで、書庫で一緒に作業していた景引が気の毒そうな目線を向けてきた。
宇晨が広間に向かうと、徐推官の前に跪く二人の人物がいた。さめざめと泣く妙齢の女性と、息子らしき年頃の少年だ。
彼女らを前に、どこかうんざりしたような顔をしていた徐推官は、宇晨を見て珍しくほっとしたように表情を緩めた。そして、宇晨を指し示しながら女性に告げる。
「ご婦人。あちらの黎捕吏であれば、貴女の心配事を解決してくれるでしょう。何しろ先日、世にも奇怪な事案を見事に解決いたしましたからな!」
徐推官は妙に愛想よく言った後、宇晨に近づいてきて肩を叩く。
「それでは後は頼んだぞ、黎捕吏。何しろ、民の不遇を見過ごすことはできぬからなぁ」
皮肉めいた口調の徐推官に、状況をまだ把握できていない宇晨は拱手して「かしこまりました」と答えるしかない。
徐推官が去った後、改めて女性達の方を見ると、少年があからさまに宇晨を睨んできた。年の頃は十を過ぎたばかりだろうが、不安げな母親を支える姿は大人びている。
「何だよ、馬鹿にして! 母さん、帰ろう。どうせお役所は何にもしてくれないよ」
「小洋、やめなさい」
息子を窘めた女性は、申し訳なさそうに頭を下げた。その顔は泣いていたせいもあるだろうが、見るからに憔悴している。
「……ひとまず立ってくれ。話はそれから聞く」
跪いていた二人に、近くの卓に着くように促した後、宇晨は下男に頼んで白湯を持ってきてもらった。
椅子に座り、熱めの白湯を飲んだ女性は少し落ち着いたようで、訥々と話し始めた。




