第3章 アキとの再会
「アキ、さっさと起きなさい。遅刻するよ」
甲高い声とともに、がらりと戸が開けられる。アキと呼ばれた少年は、着替え途中の手を止めてそちらを見た。
「あら」
エプロン姿の女性が驚いている。
「もう起きたの?」
「おはよう…ございます」
ぎこちなく言うと、女性は笑って少年の肩を叩いた。
「何を畏まってるのよ。準備が終わったら早くいらっしゃい。今日はスクランブルエッグよ」
そう言って部屋を出て行く。それを見送ると、少年アキの体を借りたハルキは、ふうっとため息を漏らした。
「今の人がアキのお母さんなんだろうな」
そして、この世界でのハルキの奥さんということかと、かつてハルキと呼ばれた少年アキはそう思った。
着替えを終えたアキは、言われた通りにリビングへと向かう。
「さあ、アキ。早く食べなさい」
リビングに着くと、母が忙しなく動き回っている。そして、椅子に腰かけて新聞を読む男性の姿が目に入った。
「お父さん」
自然に口から出た言葉に、新聞を読んでいた男性はそれから目を離し、こちらを見た。
「あ…おはよう」
アキが言うと、
「おはよう」
とその男性も言った。この人が、少年アキの父親なのだろう。つまり、ハルキの体に宿ったかつての友人…アキの成長した姿である。その考えに間違いがないことは、目の前の青年を見れば一目瞭然であった。なぜなら、青年はハルキの父親によく似ていたのだ。
「アキ、今日は早いんだな」
「うん、まあね」
父親であるハルキの言葉にぎこちなくもそう返すと、アキは久しぶりの食卓へとついた。
「アキ君、おはよう」
学校に着いて最初に声をかけてきたのは女の子だった。この子の名前は「モモちゃん」と言うらしい。頭が覚えていて、その名をアキに知らせてきた。
「モモちゃん、おはよう」
「ねえ、アキ君。今日、みんなで演芸会の練習しない?」
「演芸会…」
アキは記憶を辿る。そう言えば、前に少年アキがそんなことを言っていたような気がする。確か、アキの配役は王子様だったはずだ。そして演目は、確か「白雪姫」である。
「残れる人を集めてね、みんなで練習しようっていう話になってるのよ」
モモがそう言って笑う。色白で細身で、それでいてえくぼが愛らしい少女だ。
「そうなんだ。いいよ」
そう答えると、モモはとても意外そうな顔をした。
「どうしたの?」
思わず尋ねる。
「誘ってはみたけど、まさかアキ君が残るなんて思わなくって」
そう返され、アキは返答に困った。すると、モモは大げさなまでに両手を振って言う。
「あ、ごめんね。でも、アキ君、いつも気づくとひとりで帰っちゃうから…。なんだか、いつも用事があるみたいだったんだもの」
アキは、毎日欠かさず自分を訪ねてきてくれた少年アキのことを思った。
「今日は大丈夫なの?」
「…うん」
答えると、モモは手を叩いて喜んだ。
「良かった。いつも王子様が不在だと、やれるところも限られちゃうからね」
「うん、ごめんね」
アキがそう言うと、モモはにっこりと笑うのだった。
そうして放課後になると、大半の生徒が校庭に集まった。先生もそこにいてみんなの様子を見ている。
アキが今日一番に驚いたことは、先生があの頃と変わらなかったことであった。20年分老けてはいたが、生徒への愛情や生徒中心の学校づくりという熱心な教育方針は相変わらずだ。いや、さらに磨きをかけたようである。
「それじゃあ、アキ君、モモちゃん、今日は王子様のキスで白雪姫が目を覚ますシーンからだよ」
クラスメイトの女の子が言った。どうやら、モモが白雪姫の役であるらしい。ぴったりな配役だとアキは思った。
「えっと、ごめん」
演技に入ろうとするモモを見て、アキは右手を上げた。
「どうしたの、アキ君?」
モモが不思議そうにこちらを見ている。
「あ、台本を見ながらでもいいかな?」
尋ねると、モモも、また他のクラスメイトも苦笑を漏らした。
「まあ、アキなら仕方ないよな」
男の子が言う。
「そうだね。アキ君ったら覚えるの苦手だもんね」
女の子も言った。
「でも、本番までにはちゃんと覚えてね」
目の前のモモも言う。アキは恥かしさに頬を染めながら、こくりとつなずくのだった。
モモはみんなの前に歩み出ると、敷かれたシートの上に仰向けに横たわった。両手はしっかりとお腹の上で握らされている。モモを取り囲むように男女7人が跪き、嘆きの表情でモモを見つめている。
「おお、我らが姫よ」
7人のうち、男の子と女の子が2人同時に言った。
「どうしてこんなことに…」
また、別の男女が2人同時に言う。
「どうか、目を覚ましておくれ」
さらに別の男女が言った。
「誰か、我らが姫をお救い下さい」
ひとりの男の子が、ひと際大きな声で叫んだ。
「出番だよ」
隣の女の子に小突かれながら、アキはよたよたと舞台に出て行く。そして、7人の小人たちのもとへと行くと、
「これは、いったいどうしたというのですか?」
と、台本を読みながら台詞を口にした。また、台本通りに白雪姫の近くまで歩いて行く。そこで、膝をついた。
「おお、なんと美しい姫君だろう」
そう言うと王子アキは、目を閉じる白雪姫モモにキスをするふりをした。すると、目を覚ました白雪姫がゆっくりと起き上がる。
「おお、姫!」
感嘆の声を上げる小人たちを横目に、白雪姫は王子をはにかみながら見つめた。
「まあ、なんて凛々しいお方なんでしょう」
王子は白雪姫の手をとる。
「美しい姫よ。私は隣国の王子です。どうか、私の妃になっては下さいませんか?」
白雪姫も王子の手を握り返した。
「はい、喜んで」
白雪姫がそう言うと、
「はい、そこまで」
と、女の子の声が遮った。先ほどから仕切っている女の子は何の役で出るのかはわからないが、どうやら監督も兼ねているらしい。
「みんないい感じだったよ」
女の子が言う。ぱちぱちと先生が拍手をすると、見ていたクラスメイトからも盛大な拍手が上がった。
「アキ君、良かったよ」
監督の女の子が言う。
「うん。一度も練習に出てこないから心配したけど、落ち着いてていい演技だった」
小人役の男の子も言った。
「今日のアキは、何かいつもより落ち着いてるよな」
別の男の子が言う。
「そうだよな。俺も朝から思ってたんだ」
また、別の男の子が言った。
「…そうかな?」
アキが恐る恐る尋ねると、クラスメイトたちはみな、うんうんとうなずくのだった。
「もしかして、何か悩み事でもあるの?」
そう聞いてきたのはモモだ。その言葉に、クラスメイト全員の視線がアキに集まった。
「そうなのか?」
「そうなの?」
と質問責めにあったアキはその場にいずらくなり、校庭に投げ出したままだったランドセルに手をかける。
「もう今日は遅いから、ここまででいいよね? ごめん。僕、帰るね」
そう言って、なかば逃げるようにみなに背を向けた。
帰路につきながら、湖に残してきたアキのことを思う。様子を見に行った方がいいだろうか。だが、今日は居残りをしてしまったために、もう空は今の時点で真っ赤に染まっている。今から林の奥の湖に行くとなると、辿り着く頃には暗くなっているだろう。
「まあ、明日でもいいかな」
アキは思った。どうせ、今日でも明日でも、向こうの世界ではたいして変わりはないのだ。アキは、そのまま家路を急ぐこととした。
家に着くと、母が台所に立って夕食の準備に勤しんでいる。その姿を見ていると、どうしても本当の母のことを思わずにはいれなかった。アキは母の傍に行き、
「ただいま」
と声をかけた。
「あら、アキ。おかえりなさい」
母が笑顔で迎えてくれる。
「お母さん。何か手伝おうか?」
アキが尋ねると、母はとても驚いた様子だった。
「どうしたの、急に? 熱でもあるんじゃない?」
「え、そこまで言う?」
「うふふ。だって、アキがそんなことを言うなんて…。熱がないなら雪でも降るのかしら」
「まだ秋だよ、お母さん」
そして笑い合う。懐かしい、それでいてとても温かい…幸せな時間だった。
「ところで、お父さんは?」
「この時間はまだ診療所でしょ」
「そっか」
そう言えば、父はこの集落唯一の医者だと、内なる世界にいるアキが言っていた。
「僕、迎えに行ってこようかな」
「え? でも、もうすぐ帰ってくると思うよ」
アキの言葉に母が答える。
「うん、でも、行ってくる」
そう言いながら、アキは玄関の戸に手をかける。そして、アキの記憶を頼りに診療所へと小走りで向かったのである。
「お父さん」
診療所に着くと、帰り支度を始めている父に会った。
「アキ? どうしたんだい?」
「どうもしないよ。迎えに来たんだ」
そう言って笑う息子に、父も笑顔を向ける。
「そうか。それじゃあ、一緒に帰ろうか」
父と子は寄り添うように並んで、集落の明りのない道を歩いて行った。
「ところでアキ、もうすぐテストじゃないか?」
帰り道、父が声をかける。
「勉強しないとな」
「…うん」
「50点以下なんて駄目だぞ」
「うん」
「次は全科目50点以上を目指そうな」
「…そんなんでいいんだ」
アキがぽそりとつぶやくと、父は足を止めた。暗がりで表情はわからないが、不審そうにこちらを見ている。
「大丈夫だよ」
アキは声を張った。
「最近、人知れず勉強してるんだよ。次のテストでは、もっといい点採るようにするからさ」
「そうか。なら、期待してるぞ」
父が笑う声を聞いて、アキも笑った。
「そうだ、アキ。再来週の日曜日は空けておくんだよ」
「再来週の日曜日…?」
傍らからため息が聞こえる。
「やっぱり忘れていたか。おばあちゃんの7回忌があるって言っていただろう?」
「おばあちゃんの…」
「ああ。アキは4歳だったからほとんど覚えていないだろうけどな。おばあちゃんはアキのこと、本当に可愛がってくれていたんだぞ」
「そうなんだね」
「うん。だから、アキもお仏壇に手を合わせなさい」
「うん、わかった。日曜日は空けておくよ」
「アキ…」
その後、父はアキに何かを言いかけたが、何を思ったのか、それを言葉にすることはなかった。
翌朝、母がまたもアキの部屋へとやってくる。アキはズボンのベルトをしめながら、
「おはよう」
と母に挨拶をした。
「アキ、どうしたの?」
「何が?」
「昨日といい今日といい、いつもより随分目覚めがいいじゃないの」
「うん、最近ね、なんだかすっきりと目覚められるんだ」
母は「へえ」とだけ言うと、台所に戻って行った。どうやら、母の方はなんだかすっきりとしないらしい。
リビングに行くと、父は昨日と同じように新聞に目を落としていた。
「おはよう」
声をかけると、父は新聞から目を離し、
「おはよう」
と返す。
「今日も早いんだな」
「うん。これから早起きしようと思ってね」
アキの言葉がよほど意外だったのだろうか、父は母と同じようにどこか釈然としない表情を見せた。
朝食を食べ終えたアキは、ランドセルを背負い、
「行ってきます」
との言葉とともに家を出る。
「あ、アキ君、おはよう」
道中、モモに会った。
「おはよう」
「アキ君、今日も早いのね」
「うん。まあね」
「アキ君、昨日はごめんね」
「え、何だっけ?」
「昨日、みんなでアキ君を責めるみたいな感じになっちゃって。誰にだって、元気がない時くらいあるよね」
「あ…うん、いいんだ。僕の方こそ、逃げるみたいに帰ってごめんね」
モモははにかんだように笑った。
「ねえ、アキ君。今日も演劇の練習があるんだけど、どうする?」
「そうだな…」
「何か予定があった?」
「ううん。特にないよ」
「そう、良かった。それじゃあ、今日も放課後に、ね」
そんなことを話しながら、2人は一緒に校門をくぐった。
授業が終わり、放課後となった。今日は、クラスメイトの全員が練習に参加するようだ。
「すごい出席率だね」
アキがつぶやくと、隣で聞いていたモモがうなずいて言った。
「そうね。演芸会本番が近いから、みんなも緊張してるみたい」
「あ…そう言えば、本番っていつだっけ?」
「もう、アキ君ったら。本番は来週でしょ。台詞覚えた?」
「うん、まあね」
「ほんとに?」
モモはアキに疑問の眼差しを向ける。その時、
「今日は全員集まったから、一度流してやってみようよ」
と、監督の女の子が声を上げた。皆はそれに同意し、最初からストーリーを追っていく。アキの出番はまだまだ先だ。しばらくみなの演技を眺めていたアキは、自然にモモを目線で追っていることに気づいた。それがなぜなのか、アキは考える。見ていると、モモの演技はなかなか上手だった。他のクラスメイトよりも頭ひとつ分出ていたように思う。
―さすが、主役だね。
アキはそう思った。だが、自分の目がモモを追っている理由はそれだけではない気がする。
―ああ、そうか。
アキは不意に納得する。きっと、この体の持ち主にとって、モモは気になる女の子だったのだろう。だから、彼は王子役に選ばれたことをあんなに喜んでいたのかもしれない。
―モモちゃんが白雪姫の役だったから…。
そう思うと、内なる世界にいるアキにこの世界を返してやりたくなった。だが、その思いはすぐに心の奥底へと追いやられる。
―僕だって、ようやく戻ってこれたんだ…。
アキは唇を嚙みしめた。
—悪いけど、僕はもう戻らない。この世界は、元々僕が生きるはずだった世界なんだから。
「アキ君」
呼ばれて、思考を停止させる。
「アキ君、出番だよ」
監督の声に、アキははっとして急いで舞台に飛び出した。そして、昨日と同じように演じる。今日は、さすがに台本は見ずに演じきった。
白雪姫が生まれたところから王子様と結婚するまで、ひと通りのストーリーを終えると、先生から拍手が上がった。それを受けて、生徒たちから歓声が上がる。
「これなら、本番もばっちりだね」
そう言ったのは監督の女の子だ。
「アキ君、すごいよ!」
「うん。今日は台本を全然見てなかったよな」
クラスメイトが口々にアキを褒める。
「そんなあ。みんなだって、台本見てないじゃないか」
そう言うと、
「だって、昨日まで全部の台詞を台本見ながら言ってたんだよ?」
「そうそう。練習にも全然顔出さなかったしな」
との言葉が返ってきた。
「昨日の夜、練習したの?」
モモが尋ねる。
「うん」
アキが答えると、
「偉いね」
そう言って、モモはえくぼをのぞかせながら笑うのだった。
家に帰る前に、アキは診療所に寄ってみることとした。その診療所は、自宅から1キロメートルほど離れた場所にある。
診療所に着くと、おばあさんが長椅子に腰を下ろしていた。診察を待っているらしい。
「おや、アキちゃん。こんばんは」
声をかけられ、アキは笑顔を見せた。
「お父さんにご用事かい?」
「はい」
「そうかい。今日は私で最後だろうから、少しだけ待ってておくれね」
アキはこくりとうなずく。その時、おばあさんは名前を呼ばれたようで、診察室へと入っていった。そうして、20分ほどで出てくる。
「お待たせしたねえ」
おばあさんはそう言うと、診察室から出てきた父に深々と頭を下げて帰って行った。
「アキ、また来ていたのかい?」
父が不思議そうに尋ねる。
「ランドセルを背負ったままじゃないか。まだ家に帰ってないのかい?」
「うん」
「それじゃあ、お母さんが心配するだろう」
「……」
「学校からなら家の方が近いだろうに。アキ、どうしたんだい?」
アキはそれには答えず、ただふるふると首を振るだけだった。
—駄目だ。これじゃあ、益々怪しまれるよ…。
そうは思うのだが、どうもいい言葉が思いつかない。アキは、父の姿を見るたびに懐かしさが込み上げてきて仕方がなかった。それと同時に、自分の未来の姿に興味があった。父が…ハルキが、どんなふうに生きて、どんなふうに困難を乗り越えて今の大人になったのか、それを知りたいと思ったのだ。だが、そんなことを言葉にして伝えられるはずもない。
「…ごめんなさい」
今のアキには、そう言うことが精一杯だった。父はどう思ったのか、アキの不審な行動には触れず、手早く帰り支度を終えるとアキの手を握った。
「さあ、帰ろうか。お母さんが待ってるよ」
そして、すっかり陽の落ちた寂しい道を歩いて行く。
—変わらないな…。
アキは思った。かつての友人は、大人になっても何も変わらない。あの時の優しさはそのままだ。繋がれた手から伝わってくる温もりに、アキは胸がじんとするのを感じていた。




