第5章 あなたとともに
梅の花が芽吹く頃、クラスメイトたちは全員でミクの家に押し寄せていた。
「ミクちゃん、バイバイ」
「ミク、またな」
「東京に行っても元気でね」
「私たちのこと、忘れないでね」
「ミクさん、東京に行っても元気に頑張ってね」
先生も生徒も、みな、口々に別れの言葉を並べる。
「うん。みんなありがとう。みんなも元気でね」
ミクはみなに答えながら、ひとりびとりの顔を見渡した。そして、最後に、ナツキに目を向ける。
「ナツキちゃん」
ミクは、ハート型に折られた手紙をナツキに手渡す。
「お手紙、待ってるね」
手紙を受け取りながら、ナツキはミクの手をぎゅっと握った。
「うん、絶対書くから。返事、ちょうだいね」
ミクもナツキの手を握り返す。
「うん。ナツキちゃん、元気でね」
そう言ったミクの目尻には涙が浮かんでいた。それを見て、ナツキも目頭が熱くなる。
「ミク、そろそろ行くわよ」
ミクの母が呼んでいる。
「それじゃあ、先生、どうもお世話になりました」
ミクの父が頭を下げる。
「みんな、今までミクと仲良くしてくれてありがとう」
ミクの母がクラスメイトたちを見渡して言った。
「先生、みんな、今までありがとうございました」
ミクはそう言うと、涙目で微笑んだ。そして、父母に続いて車に乗り込む。
車が土煙を上げて発進すると、みなは一斉に手を振り出した。
「ミク、またな」
「ミクちゃん、元気でね」
そんな声を聞きながら、ナツキはひとり駆け出す。
「ミクちゃん、絶対、手紙出すから! また会おうね! 元気でね!」
手を振りながら走ってくるナツキをリアガラスごしに見ていたミクは、こちらに向けて大きく手を振っている。
「ミクちゃん!」
100メートルほど走ったところで、ナツキは足を止めた。代わりに、両手を上げて大きく手を振った。車が完全に見えなくなるまで、振り続けていた。
「今ね、ミクちゃんとお別れしてきたんだ」
ナツキが湖面に向かって話す。
「寂しいなあ…」
「ミクちゃんも、きっとナツキと同じ気持ちなんだろうね」
「うん…」
「同じ世界にいるんだから、必ずまた会えるよ」
「…うん」
ナツキは、ミクから貰ったハート型の手紙をポケットから取り出した。
「見てよ、アキ。ミクちゃんってほんとすごいよね」
「ハート型に折ってあるの?」
「うん。私、こんなのできないよ」
「そう? 僕は結構得意だと思うな。昔ね、いろんな折り方を研究してたんだ」
「え? 男子が折り紙の研究するの?」
「男子が折り紙しちゃ悪いかい?」
アキは、少しばかりむっとしたように言った。
「あ、ごめん」
ナツキはすかさず謝る。
「別に、馬鹿にしたわけじゃないんだよ。ただ、ちょっと意外だったから…」
「僕は、女の子たちと遊ぶことの方が多かったからね。クラスの女の子にモモちゃんって子がいてね、最初はその子に教わったんだ。そのあと、自分でいろいろ作るようになって、みんなに教えられるくらいまでになったんだよ」
「へえ。あれ? モモちゃん?」
ナツキは天を仰いで何かを考えているようだ。
「モモちゃんって、私のお母さんと同じ名前だ」
「え、そうなの?」
「うん。私のお父さんとお母さんね、同級生同士で結婚したんだって」
「同級生? いつの?」
「確か、2人ともこの集落で育ったって言ってたから…」
「それじゃあ、僕の通っていた学校? なら、ナツキのお母さんって、あのモモちゃん?」
新たな事実に、アキは驚きを隠せないようだ。
「アキって、お母さんのこと好きだったの? 小学生の頃から?」
アキは、ほんのりと顔を赤らめた。
「うん。モモちゃんは可愛くて、女の子らしくて、優しくてね、大好きだったよ」
「へえ、私とは全然違うんだね」
「そんなことないよ。ナツキは、モモちゃんに似ているよ」
ナツキは、頬に熱が集まるのを感じた。
「そ、そうかな?」
「うん。やっぱり、親子なんだね」
「そっかあ。アキはお母さんが好きだったんだね」
「え、うん」
「私を通して、お母さんを見てたりするのかな…」
ぼそっとつぶやきながらナツキはため息をつく。
「それじゃあ、今日はもう帰るね」
「え? ナツキ、なんか怒った?」
「べつに」
そう言うと、焦り声を上げるアキをそのままに、湖畔をあとにしたのだった。
「ナツキ、おじいちゃんが倒れたって」
その知らせを受けたのは、ナツキが6年生になった夏休みのことだった。
「どっちの?」
「お父さんの方のおじいちゃんよ」
「なんで?」
ナツキは母に詰め寄った。
「肺癌ですって」
「肺癌…」
「おじいちゃんのお母さんもそうだったみたいだから、遺伝もあるのかしらね。詳しくはわからないけれど、だいぶ進行しているみたいよ」
「じゃあ、もう…死んじゃうかもってこと?」
「…今から診療所に行くわよ。お父さんがそばについて診ているわ」
ナツキは、すぐに準備に取りかかった。そして、母の手を取りながら駆け足で診療所へと向かったのである。
診療所に着くと、父はなにやら祖父に話しかけていた。祖父も、目を閉じながらそれに答えている。
「親子だけで話したいのかもしれないわね。今は2人だけにしてあげましょう」
母がそう言うので、ナツキは母とともに待合室で待つこととなった。
その間も、診察室からのぞく父と祖父を見つめながら、どんな会話がなされているのかと考えた。母は親子の会話だというが、ナツキには違うように思えたのだ。なぜなら、2人はもともと親子ではないからだ。
—昔のことについて話しているのかな…。
そう思って見ていると、ふと父と目が合ったような気がした。父がナツキと母を手招きする。診察室に入ってきなさいということだろう。
診察室に入ると、父はナツキと母に向かって、小さく首を振って見せた。母は口元を押さえて悲しげにうつむく。ナツキはただ、父と、そして寝たきりの祖父とを交互に見ていた。今にも泣き出しそうな母とは違い、父も祖父もそれほど暗い表情はしていなかった。むしろ、祖父に至っては笑顔すら浮かべている。
「ナツキ」
声が出せないのだろう。口の動きで微かに伝わった。
「なに、おじいちゃん?」
ナツキは祖父の近くに寄り、その口元に耳を押しつけるようにした。
「あの子に会ったのか」
祖父はそう言った。「あの子」が何を意味するのか、ナツキにはすぐにわかった。だから、
「うん」
とうなずいて見せる。
「あの子に今も会っているのか」
「うん。毎日のように会ってるよ」
「元気にしてるか」
「うん。今も元気でやってるよ」
そう言うと、祖父はどこかほっとしたような、安堵の表情を浮かべた。
「そうか」
それだけ言うと目を閉じる。
「今日はここまでにしよう」
父の言葉に従い、ナツキと母は診療所を出た。帰り際、
「ナツキ、おじいちゃんとなんの話をしてたの?」
と母が尋ねたが、
「秘密だよ」
そう言ってナツキはにっこりと笑う。
「なによ、それ?」
母は腑に落ちないように首を傾げたが、あまり深く追求はしなかった。
それから数か月後、祖父は亡くなった。
「おじいちゃんも医者だったからね。自分の体のことはわかっていたと思う」
そう父は言うが、ナツキにはわからなかった。なぜ、こんなにも早く祖父と別れなければならなかったのか…。
「ねえ、本当にもう駄目だったのかな」
父を困らせるだけだと知りつつも、考えずにはいられなかった。
「他にも、探せば何かやれることがあったんじゃないのかな?」
必死な顔つきで訴えるナツキの頭を、父はその大きな手で撫でた。
「おじいちゃんはね、延命治療は望まなかったんだよ」
父は続ける。
「命の期限を長引かせることはできた。でもね、治る見込みがないのに死ぬのを先延ばしにするっていうのは、辛く苦しい期間も長くなるってことなんだよ」
「……」
「ナツキがおじいちゃんに生きてて欲しいと思ったのはわかるし、おじいちゃんもナツキがそう思ってくれて嬉しいと思う。お父さんだって、おじいちゃんにはもう少し生きていて欲しかったよ」
ナツキはうつむいた。
父も祖父も医者なのだ。どうにかしよう、どうにかしたい…何遍となく考えたことだろう。それでも、どうにもできなかった現実があったのだ。
—だけど…。
ナツキは思う。頭ではわかっているのだ。だが、心が祖父の死を受け入れることを拒絶しているのである。どうしようもない苛立ちを覚え、ナツキは自分の拳を力強く握りしめたのだった。
「ナツキ、今日は全身真っ黒なんだね」
湖面のアキが言う。
「お葬式があったんだ」
ナツキが答えた。
「お葬式?」
「うん。おじいちゃんのね」
「おじいちゃん…?」
「アキのお父さんのお葬式だよ」
沈黙が流れた。だが、そのあとすぐに、
「そっか」
と、あっけらかんとした声が上がる。
「そっかって、それだけ? アキのお父さんだよ」
「うん。ナツキの家族が看取ってくれたんでしょ? なら、いいや」
「……」
「僕の世界はここだから。ここから出られない以上、外の世界の出来事に思いを飛ばしたって虚しいだけじゃないか。どの道、僕には何もできないんだから」
「世界なんて、関係ないよ。外とか内とか…割り切るなんて無理だ。だって、私も、アキだって、まだまだ子供なんだから」
ふと見ると、湖面に映るアキの瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。
「お父さんが死んだんだ。泣いていいに決まってる」
「うん…ありがとう」
「お礼を言われることしてないよ」
「ナツキは優しいね」
「優しくなんかないよ。私は、おじいちゃんのお葬式でも、結局泣かなかったもの」
「我慢したんでしょ」
「どうして? 我慢なんか…」
「お父さんや、おじいちゃんと関わりのあった人たちのことを思って、我慢したんじゃないのかい? 自分が泣いたら、みんなの分の涙まで奪っちゃうんじゃないかと思ってさ」
「なにそれ…」
笑ったつもりだったが、ナツキの瞳からはひと筋の涙が零れ落ちた。すると、あとからあとからと止めどなく零れ、湖に波紋が生まれた。
「ねえ、ナツキ。お父さんは、なんで死んだの?」
「肺癌だって」
「そう。…ねえ、安らかに逝けたのかな?」
「うん。眠っているように安らかだったよ」
ナツキのその言葉を聞くと、アキは涙をぬぐい、満足そうに微笑んだのだった。
それから月日が流れた。
陽が沈んだ頃、ナツキが湖畔を訪れた。
「やあ、ナツキ」
普段と変わらない明るさで、アキがナツキを出迎える。
「あれ? ナツキ、髪伸びた?」
以前は短く刈り上げられていたが、今では肩に届きそうなくらいに伸びていた。
「いつも会ってるのに、気づかなかったの?」
アキが苦笑をもらす。
「それ、なに?」
ナツキが、突然湖面に何かを向けてきた。それが何なのか見当もつかず、アキは首を傾げる。
「スマートフォンだよ。電話やメールができるんだ」
「へえ。買ってもらったの?」
「うん。これでミクちゃんにメール送れるよ」
はしゃぐナツキを見て、アキも少し嬉しくなった。だからこそ、次にナツキが言うことの意味をアキは図り兼ねた。
「ねえ、アキ」
「なに?」
「入れ替わろうか」
例えるなら、買い物に行こうかという感じの軽さだった。
「アキ、私と世界を取り替えよう。こっちに戻っておいでよ」
「何を言ってるの? 戻っておいでって、僕が戻ったらナツキがこっちの世界に入ることになるんだよ?」
「うん、わかってる」
「いや、わかってないでしょ」
「わかってるよ。それでもさ、アキが我慢しなきゃいけないのって、やっぱりおかしいと思うんだよね。もとはと言えば私のお父さんのせいなんだもん。その罪を背負うなら、娘の私じゃないと」
「ナツキ…」
「それにね、たぶん、これが最後になると思うんだ」
「最後?」
「うん。よく見てよ、私ももう中学3年生なんだよ。来年からはこの集落を出て、都会の高校に通うんだ」
「え、もうそんなになるんだ」
「私は周りの子たちより成長が遅い方だから、まだ入れ替われると思うんだけど」
「でも、ナツキ…」
「ねえ、アキ。やってみようよ。今日は都合よく新月なんだよ」
空を見上げると、確かにそこに月はなかった。
「そのために、陽が落ちてから来たのかい?」
「中学生には部活とかいろいろあるからね。小学生の頃ほど、門限には厳しくないんだよ」
「ナツキ、本当にいいんだね」
「うん、いいよ」
「僕と入れ替わったら、ミクちゃんとメールできなくなるんだよ?」
「私の代わりにアキがしといてよ。私よりも女の子の扱いが得意でしょ?」
アキはくすりと笑う。そして、ナツキの本気を知り、アキも覚悟を決めた。
「それじゃ、僕に従ってね」
「わかった」
「僕の体とナツキの体が、湖面を挟んで真正面にくるようにするんだ」
「こうかな?」
「うん。ちょっと我慢しててね」
「苦しいね」
「そして、こう言うんだよ。私はアキ、君はナツキってね」
「それだけ?」
「そうだよ。ナツキはそう言うんだ」
ナツキはうなずく。
「私はアキ、君はナツキ」
「僕はナツキ、君はアキ」
それを数回唱える。
だが…何も起こらなかった。
「入れ替われないよ、アキ。何か間違ったの?」
一旦、湖畔に身を置いてから、ナツキがアキに尋ねた。
「やっぱり、私が成長しちゃったからかなあ。それとも、男と女で違うから駄目なの?」
アキはふるふると首を振った。
「僕はナツキとは、きっと入れ替われないんだ」
「え?」
「入れ替わる条件が合ってね。似てるだけじゃ駄目で、外にいる人から内にいる人は名前を与えないといけないんだ。僕の名前、アキって名前をつけたのは君のお父さんだからね」
「それじゃ、お父さんならアキを外に出せるの?」
「出せないよ。成長した姿じゃ、僕と入れ替わることはできないもの」
「そんな…」
「でもね、僕はこれで良かったと思ってるんだ」
「どうして?」
「だって、入れ替わったって、ナツキと触れ合えるわけじゃないからね。それなら、入れ替わる必要なんかないもの」
「…アキ」
「僕はね、ナツキに消えて欲しくないんだよ。できることなら、僕はナツキと一緒に生きてみたかったんだ。そう思ったらさ、いつからか、もう元の世界に戻れなくてもいいやって思えてきたんだよ」
アキはそう言うと、実に満足そうに笑うのだった。




