第1章 金髪の少女
庭先に咲いたどくだみ草の匂いが夏の訪れを感じさせる朝のこと。家中に響き渡るような声が上がった。
「ナツキーっ」
誰かを呼んでいるらしい。その声に驚くように、木々の間で戯れていた雀たちが一斉に飛び立った。
「ナツキーっ」
家の中はすべて探し終えたらしい女性が、サンダルを履いて縁側から庭に下りてくる。そして、きょろきょろと辺りを見回した。
「あ、ナツキ」
どうやら見つけたらしい。
「もう、またそんな所に登って…」
エプロン姿の女性は、呆れたように額を押さえた。その視線の先には、庭で一番の大木の枝に腰かけて空を眺めている、金色の短い髪を靡かせた青い目の少年…いや、少女の姿があった。
「ナツキ、おりなさい」
下から呼ぶ声に、少女は「はあい」と返事をして、勢いよく飛び降りた。
「ナツキ!」
心配そうに駆け寄る女性を前に、ナツキと呼ばれた少女は見事にその場に着地し、何事もなかったかのように家の中へと入って行く。それを見ながらため息をつくと、その女性…ナツキの母もそのあとを追って家の中へと入った。
「もう、朝から危ないことしないでよね」
朝食の準備をしながら、母が言う。
「だって、なんだか気持ちいい朝だったんだもん」
ナツキが朝食を頬張りながら答えた。
「もしも怪我したらどうするの」
「木登りくらいで怪我なんかしないよ」
「あなたもなんとか言ってちょうだい」
一向に聞く耳を持たない娘を前に、母は隣で新聞を読む父に助けを求める。だが、
「ああ、うん。まあ、気をつけるんだぞ」
父はそう言っただけであった。
「もう、お母さんは心配しすぎだよ」
「心配くらいするでしょう。あなたはまだ11歳の女の子なんだから」
「でも、私、学校のどの男子よりも運動神経いいんだよ。中学生のお兄さんにだって負けないんだから」
「そういう問題じゃ…」
「じゃあ、私もう行くね。お父さん、お母さん、行ってきます」
味噌汁をかき込むように飲み干すと、ナツキは玄関まで走りながらランドセルをつかみ、そのまま勢いよく飛び出して行った。
「ナツキ、おはよう」
「おはよう、ナツキ」
「おい、ナツキ。お前、口もとにご飯粒ついてるぞ」
ナツキが学校に着くと、待っていたかのように男の子たちがナツキを取り巻いて口々に声をかけた。
「みんな、おはよう。今日も楽しく遊ぼうな」
ナツキはひとりびとりの顔を見回すと、指摘のあったご飯粒を取りながらそう言った。
「遊ぶのもいいけど、ここは学校よ、ナツキさん」
授業の開始時間ぎりぎりに教室に着いたナツキは、自分のすぐあとに教室に入ってきていた先生に気づかなかったようだ。しどろもどろに謝る。
「ご、ごめんなさい、先生」
そこで、先生はそれまでの厳しい表情を和らげた。
「しっかり遊んで、しっかり勉強しましょう。あなたたちの本分は、遊びと勉強です」
「え、遊びも…ですか?」
「そうよ。だって、あなたたちはまだ子供なんだから。勉強ばかりじゃあ、いい大人にはなれないわ。遊びもできないような子供になっちゃ駄目よ。ほら、先生をよく見てごらん。どう見える?」
「え、どうって?」
「今年で32歳。つまらなそうに見える?」
「いえ、ぜんぜん…」
「そう、毎日楽しいのよ。仕事も勉強も遊びも大好き。子供の頃にいっぱい遊んだからだと思うのよねえ。勉強はもちろん大切だけど、勉強ばかりしてたらつまらない大人になっちゃうよ。だから、勉強も遊びも、どちらもしっかり取り組みましょう」
そう言って先生は笑った。ナツキは、たいして咎められなかったことにほっとして席に着く。
「でもね、ナツキさん」
その時、先生の表情が少しばかり厳しさを取り戻した。
「あなたは、もう少し勉強に身を入れましょうね」
「は、はい…」
ナツキは、恥かしさにうつむいた。
「さあ、みんな。そろそろ着替えて。今日の1時間目は体育でしょ」
その言葉に、みなは一斉に動き出す。男の子たちは廊下に出て、女の子たちは教室に残って体操着に着替え始めた。
「私、体育嫌いだなあ」
着替えながらクラスメイトが憂鬱そうな声を上げた。
「いいよねえ、ナツキちゃんは。かけっこも縄跳びも得意だし、サッカーや野球だって、どんな男子にも負けてないんだもん」
「うん、まあね。私、体動かすの好きだもん」
そんなことを話しながら、着替え終えた順に校庭に出て行く。先生もいつの間にか着替えていたようで、校庭の真ん中でぴーっと笛を吹いた。
「集合!」
呼びかけに、生徒たちは駆け足で先生のもとへと向かう。
「全員そろったかな?」
先生はひとりびとりの顔を確認すると、「よし」と言って授業の内容について話し出した。
「今日はね、かけっこをしましょう」
「ええーっ」
生徒たちから不満の声が上がる。
「みんなはかけっこ嫌いなの?」
「好きじゃありません」
先生の問いかけに、ひとりの女の子が答えた。
「僕も嫌だなあ。だって、疲れるもん」
男の子の声も混ざっている。
「それに、ナツキが一番になるに決まってるじゃん」
ひとりの男の子の声に、クラスメイトは一斉にナツキに目を向けた。
「一番がわかってるのにさ、そんなのつまんないよ」
そこで、先生は言った。
「それじゃあ、こうしましょう。今から、100メートル走をやるの。それでね、みんなの順位を出して、早いタイムの人と遅いタイムの人が混ざるように2つのチームを作るの。それでリレーをしましょう」
「リレー?」
「そうよ。それなら一番がどうなるか、みんなわからなくて面白いんじゃない?」
先生の発案により、まずは100メートル走のタイムを測ることとなった。一番は、みなの予想通りナツキである。そして、最下位は1つ年上のミクだ。ミクは、学校一番のおっとり系の女の子だった。
「ナ、ナツキちゃん、みんな…ごめんね。あの、よろしく…」
「ミクちゃん、よろしくね」
そうしてリレーが開始された。ナツキたちのチームは、一番手にミク、そしてアンカーには当然のようにナツキがいた。
「ああっ!」
リレー開始直後のこと、待機している生徒たちからどよめきの声が上がる。スタートして5メートルほどの位置で、ミクが転んだのだ。
「何やってるんだよ、ミク」
男の子から苛立った声が飛ぶ。ミクは膝を押さえながら立ち上がると、よろよろと走り出した。それは、走るというよりも歩いているスピードに近かった。
「ああ、もう駄目だあ」
ナツキたちのチームは早くも諦めの色が濃くなっていた。それでも、2番手3番手と、みな力の限り走る。そして、アンカーであるナツキの手にバトンが渡された。その時点で、トップとは半周差がついていた。
「ナツキ、少しでもタイムを縮めることを考えるんだ」
チームの男の子がそう言っていたようだが、この時のナツキには何も聞こえていなかった。聞こえていたのは、ただ風の音だけだ。ナツキは大きく腕を振り、大きく足を上げて走った。実に楽しそうに、笑いながら、ゴールのテープを切ったのである。そこで初めて気がつく。ナツキは、いつの間にか相手チームのアンカーを追い越していたのだった。
「おおっ! すっげぇ」
「ナツキちゃん、凄いよ!」
チームメイトが駆け寄ってくる。
「いや、みんなが諦めずに頑張って走ってくれたおかげだよ」
ナツキはみなの称賛に答えながら、選手の待合場所を見る。そこにはひとり、ミクが右足を投げ出した状態で座っていた。
「ミクちゃん、お疲れ様。怪我は大丈夫?」
ナツキはミクのもとに歩み寄ると、片膝を着いて怪我の具合を診ようとした。右膝に大きな絆創膏が貼られており、すでに手当てはされているようだ。おそらく先生が施したのだろう。心配したナツキがその膝に触れようとした時、
「やめて」
ミクが言った。
「あ、ごめん。痛いよね?」
「ううん。ごめんね、ナツキちゃん」
ミクがうつむく。
「え、なにが?」
「私のせいで…負けちゃうところだったでしょ?」
「そんなこと…」
ないよ、という言葉は、クラスメイトたちの声に遮られた。
「ほら、ナツキがいる時点で勝てっこないよ」
「なんでだよ。こっちは足の遅い奴だって混ざってたんだぞ」
「そうだよ。その上、ミクなんか転んだんだぞ。なんでそれで負けるんだよ」
ミクが小刻みに震えた。それを見たナツキは、
「ちょっと…」
と制止の声を上げた時、
「はい、そこまで」
ぴーっという笛の音とともに、先生が大声を張り上げた。
「みんな、喧嘩しないで。この結果は誰のせいでも、誰のおかげでもありません。チームのみんなが一丸となって戦って得た結果です」
先生の言葉に、辺りには静けさが押し寄せた。怒られていると思った生徒たちは、みなうつむきがちに先生の話に耳を向けている。
「みんな、いい? アクシデントはあったかもしれないけれど、それを補い合えるのもチームのいいところでしょ? だからね、先生は個人別の競技よりもリレーが好きなの。みんなだって、走っていない間も一生懸命に応援してたじゃない。それが、一丸になって頑張ったってことだと思わない?」
「でも、負けたら意味がない」
男の子の言葉に、先生はうなずいて言った。
「結果がすべて…そう言う人もいるわね。実際、社会に出たら過程よりも重視されるのは結果であることの方が多いわ。でもね、先生はその考え方は好きじゃないの。結果がすべてなら、頭のいい人は勉強しなくたっていいってことになるじゃない。何もしなくたって平均点以上出せるなら、勉強なんかする必要ないってことでしょう? みんなは、それが正しいと思う?」
「…思いません」
女の子が言った。
「そうね。先生も思いません。勉強が苦手な人は、一生懸命努力して平均点を落とさないように頑張る。そして、元々勉強のできる人はもっともっと努力して、みんなの平均点を上げていくように頑張る。それがチームであり、それが本当の意味での平等だと思うのよ。先生はね、平等にチーム分けをしたつもりよ?」
そう言って先生はにこりと笑った。そして、腕時計に目をやる。
「あら、もうこんな時間。それじゃあ、今日の1時間目はこれまで。みんな着替えもあるでしょうから、20分後に2時間目を始めるわよ。はい、号令」
「あ、はい。礼!」
「ありがとうございました!」
宿直当番の女の子の声に、みなは一斉に頭を下げた。
授業が終わりランドセルを背負う。そこへ3人の男の子たちがやってきた。
「なあ、ナツキ。今からサッカーやらないか」
「うーん、今日はいいや」
ナツキが断ると、男の子たちは意外そうな顔をした。
「ええ? なんでだよ?」
「いつも楽しそうにやってるじゃないか」
「そうだよ。ナツキいないとつまんないし、やろうよ」
だが、ナツキはそんな男の子たちに手を振る。
「いや、今日は本当にいいよ。なんか気分が乗らないんだ」
男の子たちは腑に落ちない感じではあったが、ナツキは気にすることなく教室をあとにした。
校門を出てしばらく歩いた時、すぐ前に栗色の長い髪の毛を靡かせて歩く少女の姿が目についた。ミクである。
「ミクちゃん」
ナツキはミクに駆け寄った。
「あ、ナツキちゃん」
「だいぶ前に教室出たのに、まだこんな所にいたんだね」
「…うん」
「足痛むの?」
「大丈夫」
「そう? 何か手伝えることあったら言ってね。学校じゃあ席も隣だし、仲良くしようよ」
「ナツキちゃん」
笑顔を向けるナツキとは反対に、ミクは何やら思いつめたような表情でナツキを見る。
「私に、関わらないで…お願い」
そう言い残すと、痛む足を引きずるようにして足早に去っていく。その後ろ姿を、ナツキはただ眺めることしかできなかった。
ミクが完全に去ってしまってもなお、しばらくの間その方向を見つめていたナツキだが、不意に空を見上げた。青空の中を白い雲が心地良さそうに流れていく。
「なんで…?」
ナツキの問いかけに答えてくれるものは何もなかった。仕方なしに、ナツキはまた歩き出す。そうして、土手にさしかかった。いつもは何気なく通っている道だが、少しばかりショックなできごとがあったからだろうか、心の置き場所を求めて目を彷徨わせていると、そこに竹林を見つけた。今の時期は笹の葉が生い茂っている。
「そういえば、あの辺には行ったことがなかったな」
ナツキは軽快な足取りで土手を下りた。川があり、なかなかに流れが速そうだ。ナツキは辺りを観察し、渡れそうな場所を見つけた。大きな石が3つばかり連なっていて、向こう岸まで続いている。ナツキは、慎重に渡った。その石はつるつると滑りやすかったが、ナツキは持ち前の柔軟さとバランス感覚でなんなく渡り切る。そして、竹林に足を踏み入れた。
—あ、そう言えば…。
林を歩きながら、ナツキは思い出していた。
—絶対に林の奥に行っちゃいけないって、お父さんに言われていたんだった。
だが、思い出した時には、すでに林を抜ける手前まで来ていた。
—まあ、いっか。
ナツキは楽観的にそう結論づけると、前へ進む。そして、開けた場所に出た。
「わあっ」
感嘆の声を上げる。大自然の中には湖が広がっていたのだ。
「すごい。綺麗な場所」
そう言いながら湖に近寄る。畔に膝を着いて湖をのぞき込んだ時、湖面に自分の顔が映った。
「わあ、透き通るように澄んだ水なんだね」
まるで鏡のよう…そう言いながら、もっとよく見ようと湖面に顔を近づけた時、何か違和感を抱いた。
「あれ?」
ナツキは首を傾げる。
「私って、こんな顔してた?」
ナツキは喜んで湖面に顔を寄せたはずだが、そこに映った顔はどこか憂鬱そうな影をまとっていたのだ。心なしか顔色も悪いようだ。
「どうしたんだろう? 夕陽のせいかな?」
自分の顔を抓ったり伸ばしたりしてみる。だが、湖面に映る表情に変化はない。
「え、どういうこと?」
そして、ナツキはあることに気がついた。顔に置いた手が、まったく湖面に映らないのだ。抓っても伸ばしても、何をしても湖面の表情は一切変わらなかった。不可解な現象に、ナツキの額に汗が浮かぶ。その時である。
「君、誰だい?」
どこからともなく声が聞こえた。男の子の声のようだった。
「あんたこそ誰だよ?」
ナツキは恐怖を和らげるために大声で言う。そして、辺りを見渡してみるが、どこにも人影らしいものは見当たらなかった。
「僕は、アキだよ」
だが、声は確かにする。もしやと思い湖面に目を向けると、自分にそっくりなその少年の口が動いて見えた。
「わあっ」
ナツキは後ろに仰け反った。
「ねえ、君は誰だい?」
声は相変わらず尋ねる。ナツキはおずおずと進み出ると、再び湖面をのぞき込んだ。
「この声…やっぱりあんたなのか」
「うん。君は?」
「あ、私はナツキだよ」
「ナツキ…? 私…? もしかして、君って女の子なの?」
「まあ、一応ね」
湖面の少年アキの表情が、少しばかり柔らかくなったように感じた。
「なあ、あんた…」
「僕はアキだよ」
そう言われ、ナツキは改めて口を開く。
「なあ、アキ」
「なあに?」
「なんか、ちょっと言いづらいな」
「どうして?」
「私のお父さんさ、アキっていう名前なんだ。同じ名前だと思ったら…ちょっとね」
「やっぱり、そうなんだね」
アキが歓喜の声を上げる。
「ねえ、ナツキ。僕をここから出して」
「え、なに、どういうこと?」
「僕は元々そっちの世界に住んでいたんだ。それが、君のお父さんのせいでここに閉じ込められている」
「なに、それ?」
「僕はね、君の父方のおじいさんの実の息子なんだ」
「おじいさんの息子って…私のおじさんってこと? お父さんに兄弟がいたなんて聞いたことないけど」
「違うよ。君のお父さんの体はね、元々僕のものなんだ。だから、君は僕の子供なんだよ」
突然の話についていけず、ナツキは1歩後ずさった。
「ナツキ、僕をここから出して」
「あんた…なに言ってるの?」
さらに1歩後ずさる。
「待って。行かないでよ」
「わけわかんないよ…」
そうつぶやくと、ナツキは踵を返した。そして、湖畔から離れると、駆け足で林を抜けて行ったのである。




