第2章 父のあやまち
湖面に映るアキという少年を見た翌日、ナツキはいつも通りに登校した。
「おはよう」
周りに元気に挨拶をすると、自分の席に着く。そして、隣の席に目を向けた。
「…おはよう」
昨日のことが脳裏にちらつき、普通に出したと思った声は想像以上にか細かった。
「おはよう」
ミクが返してくれた。無視されたらどうしようかとびくびくして声をかけたが、その心配はいらなかったようだ。だが、その目は虚ろで、こちらを見ているのにナツキを映すまいとしているかのように思えた。
昨日の夜、ナツキはミクがなぜあんなことを言ったのかを考えた。そんなに自分は嫌われていたのか、いつの間にか嫌われることをしてしまっていたのかと、ナツキは悩んだ。しかし、ナツキにその心当たりはまったくない。ミクと仲良くなりたいというのも本心からのことだった。
—ミクちゃん…。
授業中も隣のミクが気になって仕方がない。横目でちらちら見ていたら、
「ナツキさん、問題は解けたの?」
いつの間にか目の前に来ていた先生に咎められた。
「まだ、空欄があるわね。5年生は今、算数の問題に取り組んでいるはずだけれど」
「あ、はい。すぐ、解きます」
ナツキは鉛筆を握り直すと、問題集にかじりついた。先生が去っていくのを見届けると、ナツキは目線だけを上げてちらりとミクの方を見る。ミクはナツキと先生の会話など一切気にしていないようで、国語の教科書に目を落としていた。
放課後となり、生徒たちは次々に教室を出て行く。結局、朝の挨拶以来、ミクと口を利くことができなかった。せめて最後にさよならくらい言おうと口を開いた時、
「ナツキ」
また、男の子たちが遊びの誘いにやって来たのだ。
「なあ、今日こそサッカーやろうぜ」
そう言ってサッカーボールを見せるクラスメイトに、
「ごめん、今日もちょっと…」
と、ナツキは断りを入れる。
「えーっ、またかよ。昨日もそう言って帰ったじゃないか」
明らかに不服そうな男の子たちの対処に追われていると、がたりと椅子を引く音が隣から聞こえた。帰り支度を終えたミクが、教室を出て行こうとしている。
「あ、ちょっと…」
ナツキも急いで席を立った。
「おい、ナツキ」
男の子たちが呼ぶ。
「ごめん、今日も無理だ」
走りながら男の子たちに謝ると、ナツキはミクを追った。
「ミクちゃん」
校門を出た辺りでミクに追いつく。だが、ミクは歩みを止める様子もなくすたすたと先を急いでいる。
「ねえ、ミクちゃん。途中まで一緒に帰ろうよ」
ナツキは、歩く速さをまったく変えないミクの横から話しかけた。
「ねえ、ミクちゃん。どうして? 私、何か悪いことしたのかな?」
そう尋ねると、ミクは止まった。
「ミクちゃん…」
ミクの正面に回り込んだナツキは、ミクの表情を伺おうとして息を飲んだ。
ミクの頬は濡れていた。次から次へと溢れてくる涙が、止めようもなく流れては地面に染みを作った。それを見て言葉をなくしたナツキに、
「ごめんなさい…」
とミクが言った。
「なんで、ミクちゃんが謝るの?」
「私、感じ悪かったでしょ? 昨日、私、ナツキちゃんにひどいこと言ったわ」
「え、ああ、それなら大丈夫。私、全然気にしてなかったよ」
ナツキは強がって言う。
「そう…そうよね。気にするわけないよね。私の言葉なんか…」
「ミクちゃん…?」
「昨日ひどいことを言ったって思ってるのは本当よ。でもね、本当に、私のことはもうほっといて」
「どうして?」
「わかるでしょ? ナツキちゃんと私じゃ、全然違うもの」
「全然違ったら、なんで悪いの?」
「まったく違う私たちが一緒にいるだけで、みんなの話のネタになっちゃうの」
「それがなんで…」
「嫌なのよ。私が、嫌なの」
最後の言葉は、ミクがこれまでに一度も発したことのないような大声だった。
「私は、ナツキちゃんみたいにみんなとわあわあやるのが好きじゃないの。静かに暮らしたいの」
ミクが、茫然とするナツキの横を通り過ぎる。
「でもね、勘違いしないでね。私、ナツキちゃんのことは好きなのよ」
そう言い残すと、涙をぬぐいながら去って行った。
しばらく茫然としていたが、ふと現実に立ち返る。その時には、もうミクの姿はどこにもなかった。ナツキは、思わず目頭を押さえる。大好きな友人をひとり、失ったような気分だった。
—なんてね。友達って思っていたのは私だけだったのかな…。
ナツキは、首が痛くなるのも構わずに仰け反ると空を見上げた。そして、何かに耐えるように目を大きく見開く。
—そう言えば、昨日のあれはなんだったんだろう。
土手にさしかかった時、ナツキは昨日の不可思議な現象を思い返していた。川の向こうの林を抜けると湖があって、その中にはナツキそっくりの少年が住んでいた。そして、その少年はアキと名乗り、なぜかナツキの父親のことを知っていた…。
—お父さんなら、何か知っているのかな?
ナツキに林の奥に近づくなと言ったのは父だった。ただ単に危ないからという理由なのかとも思っていたが、母の口から行くなと言われたことはない。帰ったら父に聞いてみよう…そう思いながら、ナツキは家路を急いだのだった。
「ねえ、お父さん」
夕食のあと、入浴を済ませてあとは寝るばかりとなったナツキは、書斎にいる父を訪ねた。
「ああ、ナツキか」
「今、お仕事中?」
「うん。だけど、少しなら構わないよ」
父は、開いていた分厚い本を閉じ書類をまとめると、机の隅に置いてナツキに向き直った。
「あのね、前に土手の向こうの林に行っちゃ駄目だって言ってたでしょ? それってなんでなのかなって思って」
一瞬、父の顔が曇ったような気がした。
「…突然、なんでそんなことを聞くんだい?」
「ちょっと、気になって…」
「危ないからだよ。川には橋もないし、大きな石はごろごろあるけれどとても滑りやすいからね。怪我したら大変だろう?」
「でも、お父さん。私が木に登ったって屋根に上ったって、屋根から飛び降りるような遊びをしてたって、今まで何も言わなかったじゃない。それなのに、林に行くのだけは心配するの?」
ナツキの言葉に、父は黙った。
「あのさ、お父さん。私、行っちゃったんだ」
「どこに…?」
父は、目を見開いて尋ねる。
「え、あ、うんと、林…その奥の湖に」
ナツキがそう答えると、ああっとうなって父は頭を抱えた。
「あの、お父さん、ごめん…」
「何があった?」
謝罪を遮り、父はナツキに詰め寄った。
「何かを見たのか?」
「うん、見た。湖に、私にそっくりな男の子がいたんだ」
「それで、どうした?」
「ここから出してって、そう言ってた」
すると、父は見る見る苦悶の表情を浮かべ、手で顔を覆ったまま項垂れた。こんな父の姿を見るのは初めてであった。
「それからね、変なことを言うんだ。お父さんのせいで自分はここに閉じ込められているんだって。それに、おじいちゃんの実の息子だって、そう言うんだよ。お父さんに兄弟なんかいなかったよね?」
話を聞きながら徐々に落ち着きを取り戻した父は、何かを決意した表情でナツキを見据えた。
「わかった。そこまで知られたなら仕方ないな。全部話そう。お前の疑問にすべて答えてあげるよ」
「お父さん…」
「ただし、約束してくれ。ここで話すことを誰にも言わないと。もちろん、お母さんにもだ。あの湖のことを知っているのは、お父さんと、そしてお父さんのお父さん…おじいちゃんだけだからな」
ナツキは、緊張した面持ちでこくりとうなずいた。
「まず、何から話そうか…。だいぶ長い話になると思うよ」
「うん、いいよ。聞かせて」
「そうだな。始まりは、お父さんの我が儘からだったんだ」
父は、自分がまだハルキと呼ばれる少年だった頃のことを思い出しながら話した。
「お父さんはね、子供の頃はハルキという名前だったんだ」
「え、ハルキ? それっておじいちゃんの名前でしょ?」
「おじいちゃんは、アキという名前だったんだよ」
「アキって…それ、お父さんのことだよね? 名前を取り替えたの?」
「名前だけじゃなく、そのすべてを取り替えたんだ」
「……」
「お父さんは子供の頃いじめにあっていてね、心の置き場所がなかった時、林の奥にある湖を見つけたんだ。そこには、お父さんにそっくりな少年が住んでいた」
「それって、私が見た男の子?」
「違う」と、父は首を振る。
「その子には名前がなかった。だから、お父さんはその子に名前をつけてあげたんだ。アキっていう名前をね。そして、毎日のように湖を訪れるようになった。そうしているうちに、お父さんとアキはとっても仲良しになったんだ」
「……」
「お父さんはね、ある時、毎日のいじめに耐え切れなくてこの世界を捨てて逃げ出したいと思うようになった。アキのいる世界がとても魅力的に思えたんだよ。そんなある日、アキが言ったんだ。世界を取り替えることのできる禁忌の呪法があるってね」
「禁忌の呪法…?」
「アキの世界に伝わるものだよ。神様の目を欺く行為だから、絶対にやってはいけないとされていたんだ」
「…やったの?」
父は無言のうちにうなずいた。
「お父さんはアキの世界へ、アキはこちらの世界へ…それぞれの世界を取り替えることに成功したんだ」
「それじゃあ、おじいちゃんがアキっていうのは…おじいちゃん、湖の中から出てきたの?」
「そうだよ。そして、お父さんはおじいちゃんの代わりに湖の中の世界に住むことになったんだ」
「……」
「そこは夢のような世界でね、どんな願いも叶う世界だった。お父さんはその世界の魅力にすっかり取りつかれてしまってね、おじいちゃんに世界を返すことを拒み続けたんだ。けれどもある日、素晴らしい世界と思っていたそこが段々退屈な世界に思えてきた。そこでね、お父さんは、ようやく元の世界に戻りたいと思うようになったんだよ。でも、もう遅かった」
「…なんで?」
「アキが…おじいちゃんが、この世界で大人になってしまっていたからだよ。双子のように似た容姿じゃないと、入れ替わることはできないらしいんだ。お父さんのいた世界とこちらの世界とでは、時間の流れがまったく違うんだよ。お父さんが半年くらいと思っているうちに、こちらの世界では20年が経ってしまっていたんだ」
「……」
「そして、いつ消されるかもわからない恐怖を体感した」
「消される?」
「湖の中の世界はこちらの世界の影として存在するんだ。こちらに住む者が年を取ると、あちらの住人は影としての価値を失い、消えるんだよ」
「なにそれ、ひどい」
「ひどい、か。お父さんもそう思ったよ。あちらの世界の住人たちは、それを当たり前のように受け入れていたようだけど、お父さんは受け入れることはできなかった。だから、何としてでも元の世界に戻りたかったんだ」
「それで、戻れたんだね。どうやって戻ったの?」
父は、そこでひと呼吸おく。
「ナツキ、会ったんだろう…彼に」
彼…と言われ、ナツキの脳裏には昨日見た少年の姿が思い出される。
「何とかして元の世界に戻りたいと思っていたお父さんの前に、あの子が現れたんだ。あの子は、湖の中から出てきたおじいちゃんが、この世界で育んできた子供…。おじいちゃんに、アキと名づけられた子供だったんだ」
「……」
「お父さんはね、あの子を唆したんだ。なかば騙してね、世界を取り替えてもらったんだよ。そして、アキ…おじいちゃんの息子として生きることになったんだ」
「…そんな」
「だから、あの子がおじいちゃんの息子だと言っているのは正しい。そして、お父さんのせいであの世界に閉じ込められていると言っているのも、全部本当のことだよ」
話し終えると、父は少しばかりすっきりとした表情になった。
「あの子は、まだ消えていなかったんだな。でも、いずれ消えるかもしれない…。それを知りながら、お父さんはあの子と入れ替わったんだ。恨まれていても仕方ないだろうな」
「……」
「あの子には本当に悪いことをしたと思っている。でもな、ナツキ。だからと言ってお前が気にすることじゃないんだ。頼むから約束してくれ。今聞いたことを誰にも話さないこと、そして、あの湖には二度と近づかないこと…約束してくれるね?」
父があまりにも真剣な表情を向けるので、ナツキは無言のままにうなずくことしかできなかった。
その後、ナツキは父に、
「おやすみなさい」
と挨拶をすると自室に向かった。そして、ベッドにもぐり込む。だが、なかなか寝つける心境ではない。
父の話は、幼い少女にとってはあまりにも衝撃的なものだった。自分の祖父が別世界の住人で、父もその世界に行っていたことがあるという。また、祖父の息子と人生を取り替え、祖父の息子として生きることで、父はこの世界に戻ってくることができたというのだ。
「それって、あの子を生け贄にしたってことじゃないか」
布団の中でつぶやいた。あの湖の少年は、父をこの世界に戻すために犠牲となったのだ。その事実を知らされ、ナツキは父の娘として罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「気にするな、なんて…思えるわけない」
ナツキは少年を思い浮かべる。
—ここから出して…。
少年の悲痛な叫びが、耳元で聞こえるようだった。
ナツキは枕に顔をうずめた。
—胸が苦しい…。
ぎゅっと、心臓の辺りをつかまれているかのようだ。
—あの子…かわいそすぎるよ。
そう思ったら、いつの間にか枕が濡れていた。ああ、泣いているんだと気づいてもなお、止めようもない涙が枕をどんどんひんやりとさせていく。
父は二度と湖に近づかないようにと警告したし、ナツキはそれに対して了承の意を示した。だが、きっとまた行くことになるだろうなあと、冴えた頭でそう思っていた。
そして、それは翌日には実現した。
翌日の放課後、ナツキはまたも男の子たちからの誘いを断り、早めに下校した。その帰り道、ナツキは土手に差しかかると意を決したように林に向かって歩を進める。笹の葉をかき分けてしばらく歩くと、開けた場所に出る。そこには、一昨日見たものと同じ湖が広がっていた。
ナツキは、高鳴る鼓動を押さえるように胸に手を当てる。それから、一歩一歩、ゆっくりと湖に近づいて行った。そして、一昨日と同じように湖畔に膝を着くと、湖をのぞき込んだのである。
「アキ…」
ぼそりと呼ぶ。
「来てくれたんだね」
一昨日と同じ声が聞こえた。湖をのぞくと、そこに映る少年の口が動いている。
「ナツキ」
アキが言った。
「もう来てくれないかと思ったよ」
「うん。来るつもりはなかったんだよ」
「あの時はごめんね。突然すぎたよね。僕、先走りすぎちゃったみたい」
ナツキは、アキの謝罪にふるふると首を振った。本当に謝罪すべきは、自分の父親なのだ。そう思うと、この少年をなんとかして外に出してやりたいという思いが強く出てくる。だが、どうすることもできない歯痒さを感じていた。
「ねえ、どうして戻ってきてくれたの?」
アキが尋ねる。
「全部ね、聞いたんだ」
ナツキが答えた。
「君のお父さんからかい?」
「うん」
「そう。ならさ、わかるだろ? 僕は元々そちらの世界に住んでいたんだ。僕はここを出て行きたい。出しておくれよ」
その訴えに、ナツキは首を横に振った。
「どうして? 君ならできるのに」
「それって、私と君が世界を取り替えるってことでしょう?」
「だって…僕は、君のお父さんのせいでここに閉じ込められているんだよ?」
「…ごめん」
「そんな…」
「私が君と世界を取り替えたとして、そのあとはどうなるんだろうって、そう考えたんだ」
「そのあと?」
「世界を取り替えて、人生を入れ替えて…続いていくんじゃないのかな。ずっとずっと、どこまでも、永遠にさ」
「……」
「どこかで、終わりにしないといけないんじゃないのかな」
「それが、僕だっていうの…?」
「……」
「僕で終わりにしろって…?」
そう言うと、アキは泣いた。いや、もしかしたら、泣いているのはナツキの方だったかもしれない。
その日は風もなく穏やかなのに、湖面に映る顏は随分としわくちゃに歪んで見えた。




