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湖面の少年  作者: 高山 由宇
アキとハルキ 〜一度失ったものは簡単には戻らない〜
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第5章 戻せない世界で

 秋の涼しさもどこへやら、近頃めっきりと冷え込むようになった。学校から帰ったアキは、ランドセルを背負ったまま台所へと向かう。そして、母に紙の束を渡した。

「これ、なあに?」

 そう言いながら、母はタオルで手をふくとそれを受け取った。

「ああ、この間のテストね」

 母はそれが何なのかをすぐに察したようだ。そして、紙を開く。

「あら!」

 母は甲高い声を上げた。

「ちょっと、アキ。どうしちゃったの?」

「やっぱり、最近遊びすぎちゃったかなあ。もう少し勉強頑張るよ」

「なに言ってるの。アキがこんな点数採ってくるなんて…」

 母は、今にも飛び跳ねんばかりだ。その手にした答案用紙には、70点、72点、80点と…良くも悪くもないような点数が記されていた。

「この間まで、平均50点くらいの点数だったのに。一番苦手な算数だって、70点よ」

 母は歓喜の声を上げる。

「ほんと、よく頑張ったわ」

 そう言って、母はアキの頭を優しく撫でた。

「お父さんにも伝えなきゃね。あと、今日はお祝いしましょう」

「お祝い?」

「ええ。アキの好きなものを作ってあげる。アキはからあげが好きだったわよね」

 油を探す母をアキは制する。

「お母さん、あのね。僕、肉じゃがが食べたいな」

 母は少し驚いたようにアキを見た。

「アキが肉じゃが好きなんて知らなかったわ。うちじゃあ、あまり出さなかったものね」

「駄目?」

「そんなわけないでしょう。肉じゃがならからあげよりも楽でいいわ」

 母は鍋を取り出すと、早速準備に取りかかるのだった。

 夜の7時頃、父が帰宅してきた。玄関の扉が開いた瞬間、母は父に駆け寄る。

「あなた、お帰りなさい。ねえ、ちょっと聞いて」

 父は少しばかり戸惑いがちに、

「どうしたんだい?」

と、リビングに向かって歩きながら尋ねた。

「あのね、アキのことなんだけど」

「…ああ」

「この間のテストでね、高得点を採ったのよ」

「そうか。何点なんだ」

 母は、席に着いた父に答案用紙の束を差し出した。それをぱらぱらと見ながら、父はため息をつく。

「平均して75点というところか。まだまだ勉強が足りないな」

 父はアキを見ることもなく、そう言い放つ。

「ちょっと、あなた。そんな言い方ないじゃない」

 母がアキをかばった。

「そりゃあ、いい点とは言えないかもしれないけど、アキからしたらすっごく頑張ったに違いないわ。これまで、平均50点くらいしか採れなかったのよ。それが、今回は平均75点でしょ? すごいじゃない」

 だが、父は厳格な表情を崩さない。

「アキ…お前なら、もっとやれるはずだろう」

 そう言うと、答案用紙をばさりと横に置いた。

「うん。次は、もっと頑張るよ」

 アキが答えると、父はそれにはもう何も触れず、母に食事を持ってくるように言う。

 アキと父とが目を合わせることをしなくなって、数日が過ぎた。父の飲み会があった夜以来、それは続いている。母も薄々とは気づいているだろうが、アキに何かを聞いてくることはなかった。

 翌日、学校から帰宅したアキは、ランドセルを置くと再び家を出た。そのまま、診療所へと足を向ける。

その日の診療所の待合室はがらんとしていて、静まり返っていた。

 ぎしっと、板張りの床が鳴る音に父がこちらに目を向ける。

「こんにちは…」

 そう言って見せた笑顔が、アキの姿をとらえた瞬間にさっと消えた。

「…どうしたんだ?」

 尋ねられ、

「お母さんが不審がっている」

 アキはそう言った。

「そうだろうな」

 父は、相変わらずアキを直視しようとしない。

「今日は患者さんが少ないみたいだね」

「ああ」

「儲かってるの?」

「患者が少ないのはいいことだ」

「ふうん」

 アキは特に興味ない様子で言う。

「ねえ、お父さん」

「やめてくれ」

 父が俄かに声を荒げた。

「君に、そう呼ばれたくはない」

「ひどいなあ」

 アキの姿を借りたハルキは、何も気にしていないように父を見る。

「僕はお父さんの息子だよ? お父さんって呼ぶのは、当たり前じゃないか」

「僕は君の父親じゃない」

「父親だよ。なんなら、専門の病院で診てもらおうか? 僕らは正真正銘、実の親子だよ」

「そういうことを言ってるんじゃない」

 今の父親でありかつての友人であるアキは憤りを顕わにし、数日ぶりにアキと目を合わせた。

「君は、僕の息子とは似ても似つかない」

「だったらどうするんだい?」

 ハルキが言う。

「僕を勘当でもしてみるかい?」

 アキは、それには答えなかった。

「僕は今日、君と今後の話をするためにここに来たんだ。家じゃ、とてもじゃないけどこんな話はできないだろう?」

「君は、ひょっとして…僕のことを恨んでいるのかい?」

 アキの言葉に、ハルキは笑った。

「ひょっとして、だって? 当然じゃないのかい?」

「どうして…」

「わからないとでも言うつもりかい? 君は、僕からこの世界を奪ったんじゃないか」

「僕が、奪った?」

「そうだよ」

「なんで、そんなこと…」

「違うって?」

「僕は、毎日のようにあの湖へ足を運んだよ。新月の晩には欠かさずに出向いた。でも、君がもう少しここにいたいって、取り合ってくれなかったんじゃないか」

「……」

「そうこうして先延ばしにされて、半年が経った辺りから顔を出してもくれなくなった。僕は、本当に1ヶ月くらいで戻るつもりでいたんだ」

 ばんっと、ハルキが診療所の壁を叩いた。

「違う!」

 ハルキは激昂して言う。

「それなら、どうしてもっと詳しく教えてくれなかったんだい?」

「なにを…」

「内なる世界についてさ。あの世界がどういう所なのかもっと詳しく教えてくれていたら、僕は思いとどまったかもしれないじゃないか。結局、君はこの世界に来るために僕を騙していた。僕を利用していた…そうだろう?」

「そんな…僕は」

「違うと言えるのかい?」

「違うよ!」

 アキがハルキの言葉を真っ向から否定する。

「僕は外の世界に出たいなんて思ったことはなかったよ」

「そうかな。退屈だって言ってたじゃないか」

「でも、それが僕の日常だ。僕はそれを受け入れていた。ハルキから聞かされる学校での話は、僕にとってはどれも刺激的で面白いと思えたのは事実だ。けれど、僕は君から聞く話だけで満足していたんだよ。僕が君に禁忌の呪法を教えたのは、君を助けたいと思ったからだ」

「なら、どうして君の世界について口を閉ざしたんだい? 肝心なことは何も言わなかったじゃないか。その上、願えば何だって叶うなんて甘い言葉で僕をその世界に誘っただろう」

「別に、口を閉ざしたわけじゃないよ。僕のいた世界がどういうものかを詳しく語るには、比べる対象が必要なんだ。僕にはあの世界だけがすべてだった。あの世界に何の不満も抱いてはいなかったから、どう伝えていいのかわからなかったんだ。だから、思えば何だって叶う世界だと、一番の特徴を話したんだよ」

「君は、消えたくなかったから僕と入れ替わったんじゃないのかい?」

 ハルキが冷たい視線を送る。

「消える…? 何のことだい?」

 アキにはわからない話らしい。

「僕があの世界に入った頃、リョウ君、タクミ君、レオ君に会ったんだ。彼らはいじめっこなんかじゃなくて、僕を温かく迎え入れてくれたんだ。いつも一緒に遊んでいたよ。アキが僕を迎えに来ていたのは知っていた。でもね、僕は彼らと遊ぶのが楽しくて、彼らともっとずっと一緒にいたいと思ってしまったんだ」

「……」

「でも、彼らは突然消えてしまった」

「…どうして?」

「調べたよ。僕には時間がたくさんあったからね。いろんな本を読み漁った。そしたらね、僕の住んでいた世界と君が住んでいた世界との関係を知ることができたんだよ。アキも読んだんじゃないのかい?」

「僕も…?」

「うん。だって、僕の頭にその本の記憶の残骸があったんだもの」

「どんな内容だい?」

「君たち内なる世界の住人は、外なる世界の住人の影だという話だよ」

「それは、確かに読んだ気はするけど…」

「ほうら。だから、君は知っていたんだろう? 外なる世界の者の成長とともに、内なる世界の者は消え去るということをさ」

「…そんな」

 アキは言葉を失ったように茫然としている。

「君は消えたくないばかりに、僕にそのことを一切話すことなく入れ替わることを提案したんだ。僕を助けるふりをして…」

「違うよ!」

 アキはこれまでにない大声で、ハルキの言葉を遮った。

「僕は、僕ら内の者が外の者の影として存在することは、本を読んで知っていたよ。でも、僕らがいずれ消える存在だったなんて、そんなのは知らなかった」

「そう…でもね、そんなことは今となってはどうでもいいことなんだよ。僕にとってはね」

 ハルキは、ひとつ大きく息を吐いた。

「僕は、この世界に戻ってきたんだ。君が認めようが認めまいが、関係ないんだよ」

「ハルキ…」

「僕だって、君をお父さんだなんて呼びたくはないさ。まったく抵抗がなかったとでも思うのかい? でもね、仕方がないんだよ。中身がどうであれ、肉体的には君は間違いなく僕の父親なんだから。そして僕は、君の息子に変わりはないんだよ」

 ハルキがそう言い切ると、突然アキが跪いた。そして、床に手を着くと深々と頭を下げる。

「ちょっと、何のつもりだい?」

「頼む!」

 アキが叫ぶ。

「ハルキ、あの子に…僕の息子に、この世界を返してやってくれ」

「どうして?」

「あの子は、まだ子供だ」

「僕だって子供だったよ」

「あの子は、まだ何もわかってない…」

「僕だって、何も知らされずにあの世界に閉じ込められていたよ」

「ハルキ、お願いだよ。僕が憎いなら、償いは何だってする。でも、あの子を巻き込まないでくれ」

「それってさ、あの子に消えて欲しくないってことかな?」

 アキはうつむいた。

「そうなんだね? 君は、あの子が助かるなら、僕があの子の影として消えても構わないって…そう言うんだね?」

 アキは何も答えなかった。ただ、土下座したままで肩を震わせている。

「泣いてるの?」

 ハルキは、床板に広がる染みを見つめていた。

「父親ってすごいね、アキ。息子のためなら涙も流すし、土下座までできちゃうんだ」

「ハルキ、返してよ…」

 アキは、涙に濡れた顔を上げる。だが、ハルキは首を振った。

「この世界は、元々僕のものだよ」

「君は捨てたじゃないか!」

「……」

「君は、あの時、現実から逃げるためにこの世界を捨てたんじゃないか。だから、君の代わりに僕がこの世界をもらったんだよ。君だって言ってたよね? 世界を取り替えたって。取り替えたなら、それはもう君のものじゃない」

「そうかもしれないね」

「それに、君が捨てた世界は、僕にとってはどれもこれも素晴らしい宝物ばかりだったよ。君が一番捨てたいと思っていたリョウ君たちは、今じゃ一番の親友なんだ。何かあった時、困った時、いつも僕の力になってくれる」

「……」

「リョウ君は今でも僕らの大将で、本当に頼りになる兄貴分さ。タクミ君は記者をしていて、記者やマスコミ、テレビ関係者に顔が広い。レオ君はIT関係の仕事をしていて、パソコンや機械にすっごく詳しいんだ。機械のトラブルがあったら、レオ君に真っ先に相談するんだよ。それで解決できなかったことなんて、今までないんだから。すぐに解決できなくたって、みんな熱心に解決策を探してくれるんだ。だから僕も、僕にできることでそんな彼らを支えたいと思ってるんだよ」

「……」

「そういう人間関係っていうのがさ、人生の中で一番輝く宝石なんじゃないのかい? 僕は、内なる世界にいた時にはそれに気づけなかった。誰とも会う必要がなかったからね。ハルキ、一番輝く宝石っていうのはさ、逃げたら手に入らないものなんだよ。傷つきながらでもぶつかって、話し合って、わかろうと努力して…そういう時間をともにするからこそ、この先の人生を輝かせる宝石になるんだよ」

「……」

「それにね、この世界を見て気がついた。僕の世界は自由な世界なんかじゃなかった。限りなく不自由な世界だったんだ。今の君ならわかるだろうけど、努力することもなく何でも叶う世界っていうのは、本当に退屈で、虚しいものなんだ。そんな世界だからこそ、時間なんてものは重要視されてなかったんだと思う」

 しばらくの間黙って聞いていたハルキだったが、ふうっとため息を吐き出すと口を開いた。

「君の言う通りかもしれない。そして、僕は一度この世界を捨てた。だけどね、君も言っていたけど、あの世界は退屈だ。だから、こちらの世界がまた欲しくなっちゃったんだよ。今度は君の息子と取り替えたんだ。でも、いいよね? だって、あの子も承諾してのことなんだもの」

「あの子は子供だ。それも、君のように聡い子じゃない。君は、あの子を唆し、利用したんだろう」

「そう思われても仕方ないね。けれどね、アキ。あの子が今内なる世界にいるのは、君のせいでもあるんだよ」

 アキは眉をひそめてハルキを見上げる。

「何だって、あの子にアキなんて名前をつけたりしたんだい?」

「……」

「月の女神はね、僕が内なる世界に侵入したことに気づいていろんな罠を仕かけてきたんだ。つまりね、侵入者に対する警戒心が高まっていたんだよ。そんな時に、アキと名乗る僕そっくりの少年が現れた。アキ、覚えてるかい? 僕らは新月の晩、名前も体もこれから歩んでいく世界も、すべてを取り替えたんだ。だから、内なる世界にいた僕の名前は、アキだった」

「まさか…」

「そうだよ。アキがアキになるんだ。容姿も双子のようにそっくりで名前も元々一緒。その上、この名前は外にいた頃の僕が内にいた君に与えた名前だしね。入れ替える条件もぴったりさ。これなら、あの目聡く陰湿的な月の女神だって騙せるんじゃないかって思ったんだ」

 アキは、床に頭をこすりつけるようにして肩を震わせた。そして、声を上げて泣いた。そんなアキを横目でとらえながら、ハルキはぽそりと言う。

「でも、アキ。僕は、君にひとつだけ感謝している。お母さんを、息子として看取ってくれたこと…ありがとう」

 そうして、ハルキはこの世界で生きていくこととなった。父ハルキの息子のアキとして。だが彼は、取り戻したと思っていた世界は、まるで自分の知らない世界だったことを追々知ることとなる。

 両親はいるが、どちらも本当の両親ではない。友人もいるが、大人の頭脳を持つアキと幼い子供たちとでは遊びや話が釣り合うはずもなく、必然的に壁が生まれた。暇な内なる世界での生活において、アキは本ばかり読んで過ごしていた。そのため、外なる世界のいかなる学者をも凌ぐ知識や見解を持つようになった。高校、大学、大学院と進んだが、テストでは満点が当たり前となり、妬みの対象とされた。小学生の時よりもひどいいじめを受けたこともある。そこで、アキは学んだ。テストは、不正解とわかっている解答を織り交ぜて記入するようにしたのだ。人間関係においては、自分がいかに愚か者であるかということをアピールするようになった。

 そうして、アキはこの世界で大人になっていく。

 結局、アキにとって、外なる世界は内なる世界とたいして変わらなかった。どちらも不自由なままである。

 大学院を卒業し、アキは父の跡を継いで医者となった。わだかまりを残しながら父の跡を継ぐというのは不思議なものだ。だが、これは、父の願いでもあった。父は、なんとかしてアキをこの集落に繋ぎ止めておきたかったのである。それは、内なる世界に入ってしまった息子を思ってのことだろう。もうその世界から出してやれないと知ってもなお、父親として気にかけていたかったのだ。そして、アキにも気にかけていて欲しかったのだろう。秘密を共有する者として。

 アキは、一時期、父に対する恨みにかられていた。しかし、内なる世界にいるアキのことはずっと心に引っかかっていた。今では、時折襲ってくる罪悪感に圧し潰されそうに思うこともある。だからこそ、父に言われるまでもなく、アキは生涯この集落を出るつもりなどなかったのだ。

 そして、医者となって3年が過ぎた頃、アキは幼馴染みと結婚した。相手は、小学生の頃の同級生であるモモだった。モモもまた、アキと同様に集落を離れることを嫌い、集落在住の人の中から結婚相手を探していたのだ。そして、アキは結婚を機に「ハルキ」という名前への未練を完全に断ち切り、ここから新たな人生を歩むことを決意するのである。

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