西園寺のピークはいつごろ?
西園寺公望は、幕末に生まれ、明治、大正、昭和初期、そして、太平洋戦争開戦前夜の頃まで生きた人物。90歳まで生きたという。
しかしながら、人物としての人気や知名度という点では、他の同時代の人物たちから比べると、どうもイマイチなのかな?と思ったりする。
長生きした人物のわりに、人気や知名度は、実はそれほど高くないような、なんとなく、そんな気がしたのだが、それでもこの人物について執筆してみる価値はあると思っている。
幕末の時期は20歳にも満たない青年。
当時の実力者、岩倉具視らの推挙がなければ、後に頭角を表すことはなかったのではないかというような、若輩者だった。
一方、太平洋戦争の開戦前の時期には既に影響力も低下し、東条英機らが台頭してきていた時期で、最晩年を迎えていた。
西園寺公望の全盛期といえるのは、やはり明治後期、桂太郎と総理大臣の座を争い、
いわゆる『桂園時代』といわれた時期。
また、大正に入り、第一次世界大戦の講和会議に日本の全権大使として、牧野伸顕らと共に参加したということがあった。
「講和会議だというのに、勝った方のアメリカや、イギリス、フランスなどの代表だけで、
負けた方のドイツやオーストリア、トルコなどの代表は参加していない。
なあ、牧野君。これをどう思う?」
「西園寺さん、これでは明らかに、戦勝国による敗戦国に対する一方的な裁判のようだ。
まあ、我々はこの第一次世界大戦では、戦勝国になったのだからよいものを、これが敗戦国の立場だったら…。」
この時の日本は実にのほほんとしていた。
戦勝国とはいっても実際にヨーロッパまで戦いに赴いたわけではなく、ヨーロッパで物資が不足していたのを見て、武器や弾薬などをヨーロッパに提供していたというのが、本当の話。
結果的に、この講和会議で、日本はドイツが中国の山東半島に持っていた権益と、グアム、サイパン、パラオなどの、当時はドイツ領だった南洋諸島の領有権を獲得したのだから。
後に、第二次世界大戦、太平洋戦争で、自分たちの国がよもや敗戦国になってしまうなどということは、この時はまだ、思いもしないで…。
そして時代は流れ、昭和初期。
5・15事件で犬養毅首相が暗殺された後に、
まるで狙いすましたかのように、元老となっていた西園寺公望の推挙により、政党の総裁ではない斉藤実なる人物を次期総理に仕立て上げたという。
これにより、大正時代から続いていた政党政治は終わりを告げたのだった。
しかし、これが西園寺公望が実際に影響力を発揮した最後となったかもしれない。
それからまもなく、2・26事件で、内大臣となっていた、その斉藤実も暗殺されてしまったからだ。
これ以降、軍部が台頭し、やがて時代は太平洋戦争へと突き進んでいくことになる。
亡くなったのは、まさにその太平洋戦争の開戦を迎える前年だった。
この『明治立志編』では、若き日の西園寺公望が、明治初期、明治政府の中でもまれながら、次第に頭角を現していく過程と、当時の主要人物たちの思惑などを書いていきます。




