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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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ひとりの夜

 凍えるくらいに寒いのに、焼け付くような夢を見た。

 もう何十回と見続けて来た、忘れもしない夜の夢だ。


 その日はとても空気が澄んでいて、目を閉じると頬に感じる心地よい風に乗り、朝日を待つ蕾が蜜の欠片を匂わせて、そっと胸の奥が温かくなった。

 昼間の熱に湿気を籠らせる土は鎮まり、渇くまいと必死に水を吸い上げたのであろう草木は茂って、深い宵闇の中、何もかもが明日へと向かい英気を養っているのがわかる。

 僕はその真ん中に寝転び、落ちて来そうな星空を眺めていた。

「すごいね、リリー。彼らは輝いてなんかいないのに、まるで自慢しているみたいに目映いよ。誇らしい限りだね。あれ? 彼女かな。どっちだと思う?」

 目の前に広がるベールのような暗がりに、ぽっかり浮かぶ白は三日月だ。細い明かりが黒に差して、そこから空が裂けてしまいそうだった。

 鮮やかだった。今までに見た、どんな星空よりもずっと。

「聞いてよ、リリー。お父さんはついに僕のこともわからなくなって、あの人形たちを洸太と呼ぶことにしたようだよ。僕はなんだかわからなくなってしまったなぁ。名前も取られてしまったし、案外この身体も割ってみたら空洞なのかもしれないね?」

 ねぇ、リリー。

 僕は何度も呼び掛けて、その闇に紛れてしまいそうな黒を梳く。動かなくなってしまったリリーからは、蜜とは違う鼻につくにおいが漂い出していた。

「ごめんね、リリー。君とまた星を見るには、引き摺るしかなくて。毛布があっても痛かったね? 抱き上げてあげられればよかったけど、僕にはそれすら出来なくて。君に報いたいのに、なにも」

 何度謝っても足りるはずがない。僕がわがままを言ったから、リリーは冷たくなってしまったのだ。

 なにもかも、ぼくのせい。ぼくが、おおきくなったせい。

 さみしいなんて、おもったせいだ。

「ねぇリリー、僕と出会ったことは君にとって不幸でしかなかったかな。だとしたらごめんね。それでも、僕は君を手放せない。離れるなんて出来ないよ……」

 肉のない背中は起き上がるだけで骨が軋む。最近は耳もよく聞こえなくて、息をするのも苦しいくらい。だから、わかる。僕の身体はきっと、大人になるまではもたない。

 毛布についた泥を払って、今日一日中そうしていたように、僕はリリーに抱き着いた。

「目が覚めて君がいるだけでよかったんだ。君と君の絵を描いて、僕はそれで幸せだった。他にはなにも、いらなかったのになぁ」

 それだけだった。リリーしかいなかった。リリーだけが僕の総てで、なのに、こんな夜にも涙ひとつ零れない虚しさに、もう息をすることすら切なくて。

 再び握った毛布の端で真っ赤に濡れた指の先が焼けるように痛んだけれど、僕にはなんだか、そんな痛みが最後の贈り物みたいに思えた。

「あと少しだけ我慢をしてね。夜が明ける頃にはきっと、ちゃんと終わっているからね」

 リリーはもっと痛かった。リリーはもっと苦しかった。

 僕はただそれだけを想って、ありったけの力を振り絞った――。



「――――っ」

 深い水底に沈むような息苦しさに喘いで目を見開くと、そこにはノイズ交じりの砂嵐が走っていた。時間は深夜の三時過ぎ。今夜もまた汗の滲む熱帯夜だ。

 目覚めると同時にその湿った空気を一気に吸い込んでしまった有村は吐き出せもせず溺れてしまい、背にしていたソファから飛び起きるなり、腰を折って前倒の姿勢になった。

 口を開けても呼吸は出来ず、乱れる鼓動で脈拍ばかりが加速する。長く見過ぎた夢のあとはいつもそうだ。強く自分を抱いて握る腕に爪を食い込ませてまで耐えるのに、感じるはずの痛みもなく、それは身体を丸ごと置き忘れたような感覚で、自分という物の形がひどく曖昧になってゆく。

 息をするにはどうしたらいい。瞼を閉じるには、どこを動かせばいい。

 身体を起こすには。無意識に縛ってしまう奥歯を解くには。そんなひとつひとつがバラバラになって、頭の中が真っ白だ。

 蹲った身体はやがて柔らかなラグの上へと倒れ込み、毛足の長い白に額を擦り付けた。

「……くッ、は……ッ」

 夢を見た回数分、もう飽きるほど繰り返した苦しみだから、そう長く続かないのはわかっている。

 わかった上で辛いのは、それでも毎度、永遠に続くように感じてしまうから。こんな時、例えば誰かが名前を呼んでくれるだけでも、強張る背中に触れてくれるだけでも、平静を取り戻すきっかけになるのだけれど。

「……ダメ、だって」

 そういうものにはもう頼らないと約束をしたのだ。もしもを考えるのは怒鳴ってくれた藤堂に背くことだと、やるせない思いがコツコツと床に頭突きをさせるのをそのままに、有村は視界が霞むほどの酸欠に堪える。

 ぼくの腕はどこにある。脚は。頭は。見つからない。壊れてしまう。狂ってしまう。ぼくはだれだ。だれかたすけて。だれかおしえて。だれか、ぼくの名前を呼んで。

 だれか――。

「…………はぁッ」

 そうして再び大きく息を吸い込んだ有村は堰を切ったような荒い呼吸を繰り返し、今度は悔しさで強く歯を食い縛った。

 生理的な雫をぽたぽたとラグの上に降らせながら、弱さに酔う自分に吐き気がする。なにが狂ってしまう、だ。なにが永遠だ。正味数分で正気を失うくらいなら、もうとっくに溺れていて然るべきだ。

 痛む心もないくせに、助けてくれとは笑わせる。

 有村はやがて殺気立つ猫を模して丸めていた背中の緊張が解けるのを待ち、また仰け反るようにソファへ寄り掛かると、部屋を包む何事もなかったかのような静けさに溜め息を零した。

「……一時間。いや、二時間近く寝たのかな」

 薄暗い天井はまだ少し歪んで見えたが、レンズ越しの瞳はとうに乾いていたので、涙でぼやけた、というわけでない。彼の目は元より大してその役目を果たせていないのだ。視力の弱さもさることながら、一度迷った焦点を合わせるのはとんと苦手である。

 それでも充分に目を痛める白と黒の雑音は、確か深夜枠で古いSF映画を放送していたはずだ。見始めた記憶はあるが、ストーリーが展開するまでもなく眠ってしまったらしい。

「やっぱり合わないか。SFは導入が長くって」

 藤堂たちと昼食を取ったあと立ち寄ったレンタルショップで借りた三本の映画を、大人しく見続けておけばよかったのだ。世界観重視のSFと違って、型にはまったホラーはいい。逃げて、追いかけて、殺して、悲鳴。それを見た誰かがまた逃げて、追われて、捕まって、悲鳴。素晴らしきかな様式美。娯楽作品の中でこれほど計算し尽くされた物はないと有村は思う。

 などという持論と後悔はひとまずとして、今はただノイズ音が煩くて敵わない。有村は手探りで見つけたリモコンを持ち上げ、見向きもせずにテレビの電源を落とした。

「……はぁ」

 腕を上げて、下げる。ただそれだけの動作も億劫なほど、根こそぎ持っていかれるような疲労感が全身の隅々にまで行き渡っている。

 一杯の水を求めて動き出すにも床に手を着いて這って行くのが精一杯で、シンクの縁を這い上がる様は我ながらによく出来たゾンビのようだ。そんな姿を客観的に嘲れば耳に届く薄ら笑いがまた気味悪く、立ち上がったところで食器棚を開くのは面倒になってしまった。

「いいか、これで」

 何時間前の洗い物だろうと考えるのはやめにして、二度ほど濯いだグラスに汲んだ水を一気に飲み干す。喉を通って全身へ、と染み込むにはまだ足りなかったが、一杯飲んでそれもまた面倒になった。

 カチッ、カチッ、カチッ。ぽたん、ぽたん、ぽたん。

 部屋に漂うそれらを掻き分け、耳を澄ませて揺れるカーテンの向こうの音を聞く。

 車が走り抜ける音。自転車のブレーキ音。遠く、誰かの話す声。

「よかった」

 ひとりきりでないのを確かめて、有村はふと水に濡れた手を翳してみた。

 あの頃より二回りほど大きくなっただろうか。成長などとうに諦めていたが、機能不全や未発達ばかりの出来損ないでも、生きていればそれなりにはなれるらしい。

「そう言えば、生えてくるとこ見られなかったなぁ。爪」

 砕けて剥がれた、そんな形跡すらもなく、時間が経てば何事もなかったかのように元に戻る生物の逞しさ。

 生命力とは正に神秘だ。意志に背こうと本能的に、貪欲に、人間は生きていこうとする。まったく見事だ。だが、しかし。

「憎たらしいなぁ」

 有村は空いたグラスを持ち上げて目線の高さから落とすと、水分も粗方捌けたシンクの内側に割れて砕ける欠片を見つめ、無表情のまま首を傾けた。

「よし」

 拾い集めた指の先が、少しだけ痛んだ。



 それからはもう、いつも通りの朝だった。

 室内をざっと片付け、明け方を待って外へ出る。朝と晩の持て余した時間に走りに行くのは彼の日課で、エントランスを降りたらまず通りの右と左を順に眺め、今日は左と決めるくらいに気ままなものだ。

 誰にも気を遣わず、表情を繕う必要もなく。そうして気晴らしに近い速度で駆ける街は明るさの割にとても静かで、だからこそ何も考えずにただ前だけを見ている時間が心地よい。

 鼓動が速まり、体温も上昇して、全身にきちんと血が巡るのがわかる。指の先まで神経が通っていると実感する、大袈裟に言えばそんな具合だろうか。

 有村は段々と空が明るくなるのを感じながら颯爽と住宅地を抜け、細い道へと入り、折れた先に伸びる緑の坂道を全力で駆け上った。

「はっ……は……っ」

 そうして辿り着くてっぺんで足を止めて、開けた場所から眺める朝日が堪らなく好きだ。深呼吸をして肺の中身が入れ替わる。そうやってリセットされる瞬間が好きだ。

 乱れた呼吸に数回大きく息を吐き出した有村は滲んだ汗をTシャツの袖で無造作に拭い、背筋を伸ばして遠くまで、視力を越えて視線を投げる。

 清々しい面持ちでそっと押し上げる細いシルバーフレームに縁取られるのは、まだ僅かに残る濃い青へと迫る階調豊かな空に種を蒔く薄雲と、土手沿いを流れる灰色ながらもたおやかな川のせせらぎ。

 ここで釣り上げた魚なんか食えたものじゃないと藤堂は言うけれど、光を帯びた水面は確かに、とても綺麗だ。途切れることなく、延々と。そうして流れていく穏やかな煌めきを眺めていると、いつだって有村の口角は自然に逆向きのアーチを描いた。

 あらゆるものが移ろうのに、自分だけが立ち止まっているのは癪だ。遠い日の憂鬱こそ、夢の中に置いて来ればいい。

「さて、と。今日はどこまで行けるかなぁ」

 ふふ、と笑みを零した有村は伸びがてらもう一度新しい空気で胸を満たすと、また軽い足取りで走り出した。

 ここは舗装された高台の道が遥か先まで続く一本道で、透明な風も通り抜けるし、街中を走るよりずっと気分がいい。だから本心を言えば時間など気にせずにどこまでも走って行きたいくらいなのだが、半年前ならいざ知らず、今は一端の学生である彼はそうもいかない。

 残念には思うけれど、そんな制約が嬉しくもあって、しばらく行った先にある高架下を目安にしている有村は一旦そこで足を止め、必ず時間の確認をする。以前これで遅刻しかけたことがあるのだ。楽しくなると時間の感覚が抜け落ちてしまうのも、彼の悪い癖である。

「ん?」

 しかし今朝はまま思い通りの時刻が開いた携帯電話には表示されていて、有村が首を傾げたのはその下を見てのこと。

 家を出る時にはなかった新着メールの通知が一件表示されていたからだ。

「こんな時間に?」

 昨晩も件数を稼いだ例の誘いも夜が明ければ成りを潜めるし、朝になってから連絡を寄越すとすれば佐和か藤堂くらいなものだが、メール不精のふたりならまず電話を鳴らすはずである。

 と、なると次に思いつくのはキイチやキャリーの困り顔で、明日は先約のある有村は怖々カーソルを合わせてみたのだけど、そこに出て来た名前を見て思わず声を漏らした。

「草間さん?」

 時間は早朝六時過ぎ。以前、確かに朝は早いと話したが、かといってあの異様に気を遣う草間がと考えると違和感が強い。

 無論、その異様な気遣い屋が故に、思い当たる節がないでもないが。

「昨日のことなら、もういいよって話になったはずだけど……」

 いくら草間でも別れ際には普通に接しておいてひと晩明けた目覚めしなに無性に弁明したくなる、ということもあるまい。

 だとすると朝一番で伝えなくてはならないほどの大事、か。それも可能性は薄そうだけれど。

「変だな、なんか」

 そもそも草間から自主的に連絡が来ること自体が初めてだ。有村は汗で乱れた髪をかき上げ視界をクリアにすると、『おはようございます』で始まる事務的な件名のそれを開いた。

 至極、神妙な面持ちで。

 けれど、そんな表情は読み出して間もなく「なんだ」と呟くと同時に途切れ、あとは薄笑いすら浮かべて目を走らせるに至った。

 なにかあったのかと思えばとんでもない。びっしりと詰まった文面は予想通り冒頭で昨日の一件を詫びてはいたものの、随分と長い遠回りを経て、つまり『昨日はちゃんと眠れましたか』と尋ねていたのだ。

 何時なら迷惑じゃないか考えたけれどわからなかったので、目が覚めてすぐにしました、なんて。絵文字も改行も遊び心もないのに、そんな草間らしいおまけだけは忘れずに。

 だもの、有村の口角が上がらないはずがない。

「起きてすぐ、ねぇ。何時に起きたんだか」

 こんなメールを送る為に早起きしたわけではなかろうに、帰り際まで『明日から頑張る』と言っていた草間はまずここから頑張ることにしたのだろう。

 端々に見える入念な添削の跡は愛らしい限りだし、返事は要らないとでも言いたげに、『また学校で』と結んで来る辺りも控えめでいい。

「可愛いなぁ」

 そう思う以外、出てくるものがなかった。

「嬉しいなぁ……あれ? 嬉しい、けど」

 有村は添えた指先で唇を撫で、ふと考えてみた。なんの見返りも求められないというのは、異性で佐和以外では初めてではなかろうか。

 メールひとつにしても、返事をくれ、電話をくれ、と強請られなかったのは初めてだ。

 なのに不思議と、ただ気遣われたことに対する例の不快感がない。

「なんで?」

 草間のクッキーは自分くらいしか噛み砕けないだろうから、と思うことにした。

 他のことも大体は、草間が必死に詫びてくるどれかしらでつり合っているのだとばかり。

「なんで、普通に嬉しいの」

 無地の白を掴んで、その下で脈を打つ胸の内を探る。

 探って、探って、見渡して。なのに。

 草間がくれたものが乗る、天秤がない。

「なんで、僕、笑ってるの」

 恐ろしくなって触れたはずの口の端が、無意識に上がっていた。

 そんなはずはない。佐和でさえ、藤堂でさえ、子供の頃からそばにいる世話係からでさえただ与えられるのに耐えられないのに。例外はたったひとつしかないのに。

 ただ優しくしてくれたのは。ただ愛してくれたのは。ただ、愛させてくれたのは。

「…………走ろ」

 動揺し次第に荒さを増す呼吸を堪え、笑みを消した有村は草間を宛先に礼などを含んだそれらしく適当な文面を送信すると、閉じた携帯電話をポケットに突っ込んでがむしゃらに走り出した。

 膨らむ期待の『もしも』と、比例して無視出来なくなる不安の『もしも』が頭を過る。いつもそうだ。この胸には両極端の感情が必ず対で芽生えるはず。

 彼女だけが、草間だけが、宙に浮かんでいるなんて嘘だ。

 有村は走り続けた。走って、走って、息継ぎなど出来なくなるくらいに走って、それでも。

 それでも見当たらないから、ふと足を止めた。

「……どう思う? リリー……」

 呟いた端から虚しくなる。泣けるものなら。

 もう馬鹿みたいな大声を出して、泣き喚きたい気分だった。

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