青い春と恋の歌
日程の組み方を間違えた、と帰りのホームルームで揶揄いの声を上げる生徒がいたほど呆気なく終わった『おまけ』の試験最終日、その放課後のこと。
解放感たっぷりに教室を出た有村たち七人が打ち上げと託けて鈴木一押しのカラオケ店へ籠ってから、もう三時間ほどが過ぎただろうか。
奇しくも好みが似ていたらしい鈴木と落合の独壇場と化した部屋の中、歌わない者同士並んでかける草間と仲睦まじく会話を弾ませていた有村は、ふとした合間で飲み干した珈琲の空き缶を手に席を立った。
気分転換と、あとは多少広めの個室とはいえ、やはりあの密室感が不得手だったからだ。代わりを買って来ると告げて草間の分の空き缶も手に部屋を出て間もなく、何も言わずについて来た藤堂とフロアを繋ぐ階段に置かれた自動販売機との間に挟まってひと息吐いたのが最後。
有村はついに、今日は朝からまた一段と隙のなかったポーカーフェイスに綻びを見せた。
「ふっ、はぁっ」
一回、二回、三回、と。
一度零れてしまえば止まらないとばかりに繰り返すのは、片手で覆い隠そうと開いた口が見えてしまう大欠伸。伏せた睫毛に涙の粒を幾つも溜めて、回数を重ねる度に有村の余所行きがポロポロと剥がれていく。
それを藤堂は素知らぬ顔で聞き流し、まだ外なのに珍しいな、とは言わなかった。寧ろこの期に及んでもあの王子様然とした振る舞いを続けた方が、頭のひとつも小突いてやったところだろう。
「おつかれ」
「んー」
話術巧みに草間を楽しませ、笑わせ、和ませた彼氏様の燃料がいよいよ底をついたのだ。
苦ではないが楽でもない。そんな幕切れで寄り掛かった壁伝いに崩れ落ちていく有村の後頭部を見下ろし、藤堂は飲みかけの缶珈琲を近くにあった灰皿の角に置いた。
「で、何があった。昨日は心配してくれたみたいだって、別に居心地悪そうにはしてなかったろ」
相手が好む話題を選び、心地よい距離を保ち、おまけ程度に視線や仕草で好意を匂わせるのは傍目には変わりないように見えただろうが、藤堂からすればまるで春先の余所余所しさだった。
完璧過ぎる。そんな日の有村は、丁度今しがたしゃがみ込んだ膝に顔を埋めてしまった、その体勢のように頑なだ。
分厚い殻に閉じ籠って、本音など置き忘れて来たような顔をする。
「駆け引きなんかしたくないから、アイツにしたんじゃなかったのか?」
それを見て藤堂には大体の予想がついた。
また嫌な場所に踏み込まれたのだ。不躾に、不用意に。昨日の逃走劇を知っていれば、犯人は草間であることもすぐにわかる。けれど、それだけなら有村はきっと鈴木たちに付き合わず、真っ直ぐ家へ帰るはずだとも思った。
揺れている。そう感じたからこそ、藤堂はここまで様子見を貫いて来たのだ。
「アイツも違ったって言うんなら、早めに振ってやれよ。今ならまだやっぱりなって他のヤツらも納得するし、薦めた俺のことは気にしなくていい。どうせ、もしかしたらって思っただけだ。お前だってなんとなくの直感だって言ってたんだし、そういうのは外れることもある。誰でも」
黙っていても見逃してやらないぞとばかりに追い打ちをかけてようやく、有村は絞り出すように「それは嫌だ」と答えた。
「出来ないんじゃなくて、嫌なのか?」
「……うん」
「だったら話すまでしつこく訊くぞ。あとを追い回して、メールもする」
「……いやだ」
十件だって二十件だってするし、着信履歴も根こそぎ塗り替えてやる。
そこまで言うと、足元で丸まる背中がグスリと鳴いた。
「なぁ有村。俺はやっぱり、鳥にかまけて昼飯を食いそびれるお前が見てぇよ」
どこかの部屋から漏れてくる音程を外した青春ソングが滑稽だ。膝を抱える男子高校生も滑稽だし、それを放っておけない自分もまた、と藤堂はそのしょんぼりと気落ちした栗色の髪へと手を伸ばす。
「草間はお姫様気分で楽しそうだけどな。それでお前がここ最近で一番つまらなそうな顔をするなら意味がねぇんだ、俺には」
改めて「何があった」と問いかけながら、藤堂はそれが有村の好みだと知っていて、妹にするよりは少々荒く触れた頭を撫でてやる。
他の男を相手には冗談じゃないが、藤堂はこういう時、度々有村の髪を梳いた。
たったの数回だ。それだけで寂し気な背中がほんの少し和らぐ。まるで甘え下手な猫のように、傷付いている時こそ有村は人の体温を恋しがる。
「……朝、メールを貰った。ちゃんと寝たかって。体調はどうだって、確認」
間もなく数分ぶりに藤堂を仰ぎ見た有村は、物言いたげな、不服そうな、不思議そうな、その全部が混ざったみたいな小難しい顔をしていた。
「そうか。それで?」
「嬉しかった」
「よかったじゃないか」
「変だ」
「何が」
心配してくれてありがとうじゃダメなのか、と語気を強めないように心掛けながら藤堂が尋ねると、有村は間髪を入れずに「ダメに決まってる」と答える。
だって僕だぞ、と眉を顰められれば、思い当たる節がなくもない。
「どうして引っかかるものがない。気持ち悪くないんだ。だから、変」
「例の貰った分と返した分の収支とかっていう話か」
「そう。つり合ってない。なのに気持ち悪くない。変だ」
「嬉しいから、変?」
「うん」
「お前どこまで不幸気質なんだよ」
呆れたような、それがまた有村らしいようなそんな気分で、藤堂も背にした壁伝いにズルズルとしゃがみ込んでいった。
わからないわけじゃない。その辺りは藤堂だってきつい洗礼を受けたし、抜け出せない苦しさも、上手い付き合い方を懸命に模索しているのも理解しているつもりでいる。
しかし、だ。草間に対しては今更と言う話ではなかろうか。
藤堂は目許を覆ったまま小さく唸った。
「お前さぁ」
「なに」
「いい。なんでもない」
出来栄えはともかく手作りの菓子を受け取ったのは草間だけ。明らかに有村好みの小説をこれ見よがしに鞄に忍ばるせるのを、『可愛い』と受け取ったのも草間だけ。
その上で特別だと言うんだから悪癖云々はクリアしてるんだと思うじゃないか、と追及せずにいたのは、今の有村が本当に疲れ切って見えたからだ。
こんな日にまで怒鳴ってはやるまい。藤堂は努めて冷静に、深く大きな息を吐く。
「あれだ。日頃苦労してるからってことで大目に見ろよ」
「楽しんでる。苦労の内には入らない」
「じゃぁお前が受け取ることでアイツが嬉しいんだっていう」
「善意は善意だ。由来は別に、どうだっていい」
「面倒臭ぇなぁ、オイ!」
とは、思えど。
結局この手の話をすると最後には声を荒げてしまう実は短気な藤堂を見やり、有村はうんざりと目を細めた。ホラね、とか、こうなると思っていたよ、とか、そんな声が聞こえて来そうな溜め息付きで。
「だから言いたくなかった。僕だってよくわからないし、とりあえず考える時間が欲しい。確かに草間さんといて気疲れするのは初めてだけど、連休中にはなんとかするから」
そういうことでこの話はおしまいだと一気に吐き出した有村は、細めた目を勢い余って瞑ってから『しまった』と思った。
これは、長い瞬きになる予感。
「なんとかって?」
まだ苛立ちを匂わせる藤堂の詰問もどこかふわふわ、ぼんやりとしている。そう言えば三つか四つ重なった別々の歌も絶妙に混ざり合って、知らない国の子守歌みたいに聞こえてくるではないか。
ああ、落ちるな。
そう感じながら、有村はとりあえず返事だけはしなくちゃと口を動かした。
「それもこれから考える。いまはともかく……眠いんだ、すごく」
「…………は?」
「ねむい……ねむ……」
「オイ!」
もう、限界。
そんな風体でガックリと項垂れた有村を目の当たりにした藤堂は、素早い動作でその肩に掴みかかった。
突如として電池が切れたように萎れる有村に驚愕しても、面食らっている暇はない。掴んだ肩に指を食い込ませ、脱力した身体を力任せに揺すりながら藤堂は声を荒げた。
「ここで寝るな!」
「ねない、ねない」
「嘘を吐け! もう半分以上寝てんじゃねぇか!」
起きてるよと言いながら完全に閉じた瞼を見下ろして、藤堂が尚も凄む理由はひとつだ。
先週懸念して佐和に委ねた『三度』が来た。突然に、有村の諸々を知らない草間たちがいつ通るとも知れないこんな場所で。だもの、少々手荒でも慌てるなという方が無理だ。
口を利いている内に手を打たなければ、有村が本気で寝落ちたら最後、最低三十分は何をしたって目を覚まさない。過去の二回でそれが身に染みている藤堂は必死になり、鬼も殺さん剣幕をその端正な顔の前面に押し出した。
「週末は佐和さんといてぐっすり寝溜めしたはずだろうが。それが一週間でどうしてそこまでグズグズになる。答えろ有村。お前! 今週! トータルで! 何時間寝た!」
言葉を区切る度に大きく揺さぶられ、苦悶に歪む有村の顔が少しずつ青褪めていく。
「……酔う……」
「答えろ!」
朧げなまま五時間くらいと答えるや否や、四日間でか、と念押ししてくる藤堂の怒声で有村の耳は繰り返し劈かれる気分。
それも辛いが何よりこの無遠慮な『カックンカックン』が辛過ぎて薄目を開く表情は有村の美貌を持ってしても中々凶悪であるが、バイトもないのに何故寝ない、と尤もな質問を投げる藤堂の視線は真っ直ぐに注がれていて、そこには苛立ちよりも気遣う不安が色濃く滲んでいるようだった。
なにせ佐和に言わせても稀なことなのだ。それがこんな短期間で起こるのは、どう考えてもおかしい。
「不眠症が辛いって言っても普段はどうしてんだよ。布団被って休むとか、やりようはいくらでも」
「……ベッド、きらい」
「はぁ?」
「……ねない、から……やめて、きもちわるい」
「やめたら起きるか!」
「だから、おきてるって」
「目を! 開けろって!」
これは駄目だ。そう判断した藤堂は助けを呼ぶ為、携帯電話を取り出した。
要は有村に例のスイッチを入れさせればいいのだ。ここは外だと思い出させて、まだ気を抜くなと叩き込めばいい。いつもはその切り替えの早さを多少気の毒にも思う藤堂だけれど、普段甘やかしている分こういう時は便利に使っても構いやしないだろう。
寧ろ有村の為だしな。本当は鈴木がいいが今は歌うのに忙しくて携帯電話など見ないだろうし、いないよりはいいくらいのつもりで藤堂が山本に電話をかけようとした、その時だ。
「セコムー? 上にいるのー?」
浴びせ続けた怒声を聞きつけたのか、店内の騒音を縫い「姫様も一緒ー?」と問いかける声が、怒鳴り疲れてきた藤堂と青白い顔で唸る有村の耳に届いた。
ナイスタイミングだ、落合。そう心の中で呟いたのであろう藤堂がグッと拳を握るのをぼんやり開けていく視界で捉えた有村は、その大きな拳骨が飛んで来なくてよかったな、と存外本気で思った。
これを思い切り脳天に落とされたら軽く記憶が飛びそうだ。
「……聞こえたか?」
「……きこえた」
と、そのくらい他愛のないことを考えられれば、ひとまず睡魔は去ったも同然。有村は項垂れたまま所在無さげにうなじをかくと、掘るほど深い溜め息を零した。
通された部屋は一階。ふたりがいるのは二階フロアだから、ゆっくり歩いても間もなくだ。それまでにそこそこ程度には頭も身体も起こさないと。
「はぁ……藤堂ごめん。ちょっとぶって。平手でね。頭の中がモヤモヤする」
「背中でいいか」
「顔でもいいよ。痛くして」
「いや、背中で。つか言い方な」
バチン。ふと響いた鈍い音に折り返しの踊り場へ差し掛かっていた落合は小さく肩を跳ねさせたが、有村にとっての効果はビクリを優に超えて上々だった。
深い所から這い出す分覚醒するのにいつもより時間がかかるとして、有村が聞き漏らしたのは精々持ち上げた頭を傾けて首の骨を鳴らす間に届いた「どうしたの」のひと言くらいなもの。それから数秒後、やたらと大きな音を立てる厚底靴が両足を揃えてふたりの前に着地した時にはもう真っ直ぐに背筋を伸ばし、なんでもないよ、と微笑みすら湛えているのだから、さすが切り替えマイスターの称号も伊達ではない。
やらせておいてなんだけれど、何度見ても嘘みたいだ。眠い眠いとぐずっていた駄々っ子など跡形もなく王子様に返り咲いた有村を横目に、藤堂は飲みかけの缶珈琲を煽りつつ「よう」と手を上げ、迎えた救世主には心の中で礼を言った。
危うく暴力に訴えるところだった。この綺麗な顔を殴るのは、藤堂だって胸が痛い。
「まーたふたりでイチャイチャしてたのー? 中々戻って来ないと思ったらさー」
「ごめんねぇ。すぐ戻ろうと思ったんだけど、一回立ったらなんか脚怠いなって」
「ストレッチでもしてましたか」
「そんな感じです」
「仲良いねぇ」
それほどでも、なんて嘯く有村の顔色が優れないのに、相変わらず藤堂とセットでいると揶揄うのが癖になっているらしい落合は気が付かなかったようだ。
寧ろ気に掛けるつもりもないのか、上がって来たのもふたりがいたからではなく手洗いに行くつもりだったと無邪気に告げて、軽快な足取りは階段を駆け上がって来た時のまま、落合は壁掛けの案内表示に従って矢印の方向へと走り去って行った。
「ラブラブなのはわかったから、そこそこで戻んなよ! じゃっ!」
なんて、よく通る大声で叫びつつ、腕から使って手を振りながら。
「……激しいね。なんて言うか」
「……お前の言う通り、女版の鈴木に鈴木姉を足したようなヤツだ」
「何番目の?」
「三人全部」
「わーお」
嵐が過ぎ去ったあとの気怠さを胸にふたりは大人しく背後で構える自動販売機へと向き直り、少し多めに飲み物を調達することにした。
ひとりで鈴木四姉弟分。それはちょっと、手に負える気がしない。
そうして互いに三本から四本の缶を手に階段を降り出したふたりは二段違いの前後に並び、後ろを行く藤堂はふと、まだ傍らに眠気を置いていそうな栗色を眺めて「さっきの話だけど」と切り出した。
「お前、なんで今週に限ってそんななんだ?」
そんな、とはつまり、どうしてそんなに寝てないんだ、ということ。
放課後だけでなく深夜まで鈴木と山本に費やしていたんじゃないかと案ずる藤堂のそれを否定して、有村は観た映画の本数を教えた。今日日大型の映画館でさえ同時にそれだけの本数は流せないくらいの数だ。誇らしげなのは、それが全部初見だったという辺り。選り好みをしなければ映画なんて無限みたいにたくさんある。
「先週は何日か君が来てくれたし、毎晩ひとりでいるのは今週が初めてだからね。思ったより消耗はしたけど、慣れるしかないかな」
「ん?」
でもそろそろサスペンスも挟まないと在庫が不安と続ける有村を訝しみ、足を止めた藤堂は、先に踊り場まで降りた色男を呼び止めた。
「毎晩ひとりってのは、あれだろ? 夜遊びしてないっていう」
「うん。もちろん」
「今は寝不足の話をしてるんだが、それでなんで女の話が出てくる」
「あれ? 言ってなかったっけ」
安っぽい柄の壁を背に、凛と佇む見返り姿。体格的に学生に見えない藤堂とは別の意味で、有村もまたあまり制服は似合わない。
清潔感は底抜けに、そこはかとなく品もよくて、けれど制服で押し隠すには漂わせる色香も引力も強過ぎる瞳を湛え、有村は好きな食べ物の話をする気軽さで口を開くからだ。
「俺、ダメなんだよね。ベッドで朝まで眠るなら、隣りに誰かいてくれないと」
「……はぁ?」
「夢見が悪くって」
「はぁっ?」
若しくは天気の話でもするような手軽さで、何の含みもなくあまりに淡々と紡ぐから。
「なに。面白い顔して」
「……聞いてない」
「うん?」
「聞いてねぇぞ! そんな話は!」
「なーにー、まだ遊んでんのー?」
通り過ぎて行った時と同じく駆け足で戻って来た落合を笑顔で迎え入れ、手持ちの缶を広げて先に選ばせる有村を見下ろし、藤堂は久方ぶりに心底この男がわからないと思う反面、そう言えばこういうヤツだったな、と寄せた眉をひくつかせる。
『寝る』と『ねる』が言葉遊びでなく、有村の中で全くの同意であるとするなら。
今夜は、長い夜になりそうだ。




