【下】
「お見舞いに来たわ」
そう言って入って来たのは従姉の明華だった。
華やかな顔付きの美人で、美雨より半年歳上のこの少女とは美雨は余り仲が良い訳では無いが、けして悪くも無かった。
もう何度も自分の見舞いに訪れてくれてはいるが、その目的が自分では無いということを美雨は理解していた。
「わざわざいつも有難う」
それでも口上では礼を述べる。
明華はそれには何の返答もせず椅子に座った。
明華が羽織を脱がないことから早々に退室しようとしているのが美雨には透けて見えた。
「玉祥はまだお仕事中?」
「ええ、恐らくは」
「そうなの、それは残念ね」
そうは言うものの全く残念そうとは思えない口振りだ。
実際の所、興味すら無いのだろう。
「まあいいわ。今日はね、報告に来たの。嬉しい報告。と言っても貴女にとっては良くないことかもしれないわ」
明華は少し意地悪そうに笑った。
明華の笑みはどうしても意地悪そうに見えてしまう。それは明華が美しいけれど見方によっては少しキツめの顔立ちをしているからだろう。
明華のその言い方で、美雨は何の報告かは大体予想がついた。
ついに恐れていたこの日が来てしまったのかと思うと美雨は気が滅入りそうだった。
「私、結婚するわ。相手は玉祥なの」
予想通りね、でも本当に嫌な報告だわ。美雨はそう思った。
「そうなの、おめでとう」
「あら、想像通りだった?つまらないわ」
と言いつつどうでも良さそうな顔付きだ。
相変わらずはっきりした人だ。
この結婚と同時に玉祥は家督を譲られることになるだろう。
そうしたらきっと自分は療養と称して離れに追いやられることになる。見張り付きで、もう外に出ることも出来なくなる。
あの薬湯を飲まなくて良い代わりに。
本当に嫌な話だわ。
美雨はそれと同時に明華の双子の兄を少し不憫にも思った。
明華は玉祥を好いている訳では無い。
明華が本当に愛しているのは明華の兄明貴だ。
昔から無口で表情もそんなに変わらない質の彼は、その癖気が付くといつもじっとりと美雨を見ているのだった。昔はそれによく明華が嫉妬して突っ掛かってきたものだが、そういうこともめっきり減った。それは美雨と明貴が殆ど会わないということも関係しているだろうが、居心地の悪くなるようなその視線は美雨も好きでは無かったので美雨は安堵していた。
明貴が好いているのは自分では無いと分かっていても、そうだった。
明貴は優秀と聞くし武術にも秀でているようで、玉祥が当主になれば秘書官にでも抜擢されるのは予想がつく。
明華と玉祥が結託しているのであれば、明貴を都合の良いように動かすことも可能だろう。明貴も一筋縄ではいかない強かな性格ではあるが、相手がこの二人では少々分が悪いかもしれない。
でもこのくらいは明貴も前から予想のつくことだし、何かしらの手は打ってあるのかもしれない。
まあ、それもこれも私には関係の無いこと。そうまとめ、美雨は考えるのを止めにした。
「正式な発表はまだだけれど、そろそろすることになると思うわ」
それだけ言ってさっさと部屋を後にする。
その時間、約五分。
想像通りのことに美雨は細い溜め息を溢した。
薄情な彼女だが、もう会えなくなると思うとそれも少し寂しいと感じてしまうから不思議なものだ。
病気になってから美雨の元を訪れてくれる人間は弟の玉祥と明華だけだ。
美雨には特別親しい者がいないからだ。
昔は美雨にも人並みにいたのだが、年が九つになる辺りから段々と減っていった。
美雨は明華のように華やかで社交的では無いが、人当たりが良く穏やかな性格で大きな難がある訳では無い。難と言えばどちらかと言うと明華の方が多かった筈なのに不思議と彼女は人を惹き付ける力があったからか、明華は美雨よりも友人は多いようだった。それでも何人も美雨にだって友人はいたのだ。
自分に何かある時は大抵玉祥が関わってることが多い。
美雨が九つの時、玉祥は八つだった。
その頃にはもう美雨は、一つ年下の薄気味悪い弟を避けるようになっていた。
まだ幼かった玉祥はただ感情のままに美雨に付き纏った。
「姉上、姉上、私と一緒に遊びましょう。お人形遊びでもあやとりでも何でも良いのです。姉上のしたい遊びをしましょう」
そう言って美雨の必死に気を引こうとするのを何も知らない人々はただ微笑ましそうに見ていた。
遂には友人との間にも無邪気さを装って玉祥は入ってきて、段々と侵食していった。
美雨の友人達もまた例に漏れず、姉に離れまいとする玉祥を微笑ましく見ていた。
美雨はどうやって避けるかに気を取られていて、玉祥の子供染みた独占欲が段々と質を変えていくのに気付かなかったのだ。
彼女達は周囲の大人とは違い、少しすると直ぐに美雨を敵か何かのように見るようになった。そうして段々と美雨の側を離れていくのだった。
玉祥が好きなの。
離れていった彼女達は大抵がその言葉を口にした。
玉祥に惑わされ、恋に落ちる彼女達は美雨からしてみると滑稽にも感じた。
その日の夜、玉祥は昼間明華から聞いたことと同じことを美雨に告げた。
「明華と結婚することになりました。姉上よりも先に婚儀を挙げることは大変心苦しいのですが……」
と玉祥が心にも無いことをつらつらと語るのを美雨は聞き流した。
明華と結婚すると告げているのに、その癖玉祥の美雨を見詰める瞳は姉に向けるにはおよそ似つかわしくない陶然とした甘さと熱を孕んでいた。
いつもより明け透けな玉祥の様子に美雨は不愉快な気になった。
「おめでとう。実はもう昼に明華から聞いていたの。お見舞いに来てくれたから」
「そうですか……それは残念なことです。この話は私が最初に貴女に伝えたかったのに……」
そう玉祥は少しだけ残念そうな顔付きをして見せるが、見張りの人から報告は受けているのだろう、どこか知っている様子だった。
美雨の部屋の外には護衛という名目の見張りが複数人いる。どれも玉祥の息のかかっている者達だ。美雨が外に出ようとすると止めにかかり、たちまち部屋に連れ戻そうとする。
あの薬湯のせいで動けないのに無意味なことだと美雨は常々思っているが、玉祥に言っても丸め込まれるのがおちなので言うことは無い。
「拗ねているの?まるで子供のようね」
子供だなんて。
自分で言っておきながら美雨は少し可笑しくさえ感じた。
情欲に塗れた瞳を向けられて言う言葉では無いのは確かだった。
これは一種の予防線だった。玉祥が子供のままである限りは可愛らしい弟を演じてくれる。少なくとも、表面上では。
玉祥は少し笑って、
「後数ヶ月で結婚して家督を譲られるのですよ。そうしたら、もう、私を大人扱いして下さっても良いでしょう……?」
と言った。
「もうこんなに遅くなってしまったわ。そろそろ寝る時間ね」
美雨は玉祥の問い掛けには答えずに暗に帰りを促した。
「そのようですね。ではもう私は部屋に戻りましょう。……お休みなさい」
玉祥はそっと美雨の方に顔を近付ける。美雨は少し上体を起こしてその額に口付けた。
これは幼い頃美雨が玉祥にしたものだった。
泣いている玉祥を慰めるために何気なくしたそれはいつの間にか寝る前の習慣になっていた。
避けるようになってから一度、この行為を嫌がったことがあったが言い負かされ行動にも出てきてかえって大変な目に合ったことがあるので、美雨は嫌々ながらも今も大人しく従っている。
「お休みなさい、玉祥」
玉祥は薄く笑って部屋の灯りを一つだけにし、部屋を退室した。
玉祥が部屋を出て行って漸く美雨は人心地がつく。
自分も玉祥を好きにになれればまだ良いのにと美雨は思う。
それならこれからの未来にもまだ希望が持てるのに。
どうにかして逃れたいと思うが用心深い玉祥のことだから万に一つの取り零しも無いのだろう。
後数ヶ月で美雨は離れに閉じ込められ、玉祥以外の誰にも会うことは無くなる。
それと共に玉祥を長年押さえてきた箍も外れるだろう。
毎夜の額へのキスは口付けに代わり、…………。
黄家の人間の執着的愛情は美雨にとって気味の悪いものにしか感じられなかった。
だがそれを彼等は恋と呼ぶ。
少なくとも明華はそう言ったし、恐らく玉祥も明貴もそう言うだろう。
だから、そんな弟や従兄弟達を見ていると美雨はどうも恋愛には遠ざかってしまうのだった。
幼い頃はお伽噺にあるような恋に美雨とて夢見なかった訳では無い。
だがあの時の自分の想像していた美しい恋はきっと一生無縁のものなのだろうと美雨は思う。
美雨も黄家の人間なのだから、自分と血の近しい誰かを見て胸を焦がしほの暗い執着の念を抱くこともあるのかもしれない。
だがそれは美雨にとっての恋ではないし、そんな感情は知りたくは無いとすら思う。出来るなら、一生。
玉祥は美雨がその感情を他に抱かないようにと部屋に閉じ込める。
恐ろしく不気味で美しい美雨のたった一人の弟。
彼は自身に流れる血の代わりに美雨を縛る鎖となるのだ。
恐らくは死ぬまで、ずっと。
次に玉祥視点を入れて完結になります。